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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

山口マオの2021年カレンダー。

2020-12-02 | 地域
イラストレーターの山口マオさんは、
名前こそ知っていたのですが、
ハテ、どういう方なのかは、知らずにおりました。
たまたま、山口マオさんの2021年カレンダーが手にはいる。

各月ごとに、イラストがある。さっそく、
毎月のイラストをパラパラとめくります。
最後のページに、各イラストについてのコメントが
まとめられていて、俄然イラストが身近に感じられます。
はい。イラストが、きゅうに語り出したような具合です。

ちなみに、各月のカレンダーの方には、題名も言葉もありません。
最後に「マオネコのつぶやき」とあって、題名も言葉もあります。
うん。イラストは引用せずに「つぶやき」のみ引用してみます。
たとえば、
1月は、「観客のいないサーカス」と題されています。
そこに付された「つぶやき」のコメントはというと、

「観客が一人もいないテントの中、
空中ブランコが大きな弧を描いて舞う。
失敗したら命を落としかねない空中ブランコだからこそ
観客がいようがいまいが、一瞬も気を抜くことは許されない。
そしてパートナーとの信頼感こそが何より大切なのだ。」

はい。これが2021年1月のイラスト。
2021年の12枚の「マオネコ」のイラストを
一足先に、のぞかせてもらいました。

ちなみに、
海猫堂山口マオグッズで検索すれば
7月・5月・1月のイラストがご覧になれます。
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庭の祠(ほこら)。

2020-06-20 | 地域
司馬遼太郎著「この国のかたち 二」(文芸春秋)を
本棚からだしてくる。
ちなみに、「風塵抄」は、司馬さんが産経新聞に連載し、
「この国のかたち」は、雑誌文藝春秋の巻頭随筆として、
書きつづけられたものでした。

さて、「この国のかたち 二」に
「ポンぺの神社」と題した文があります。
はじまりは、
「周防三田尻(山口県周府市)の人、荒瀬進氏のことである。
・・・・・私が四国の善通寺に行ったとき、そこの国立病院の
名誉院長だったこの人にはじめて会った。
『私の生家の庭に、ポンぺ神社という祠(ほこら)がありまして』
といわれた話は、わすれがたい。
幼少のころ、荒瀬さんは、毎朝庭に出てその祠をおがまされた。
あるとき祖母君に問うと、
『ポンぺ先生をお祀りしてある』という。
オランダ人、ポンぺ・ファン・メールデルフォールドのことである。
ポンぺは、江戸幕府がヨーロッパから正式に招聘した
最初にして最後の医学教官だった。
安政4(1857年)、28歳の若さで長崎に上陸し、・・・
日本の学生に体系的に医学を教授した。
日本で最初の西洋式病院をつくりもした。
滞日わずか5年・・・・・
かれは、ユトレヒト大学で医学を学んだが、
たしか速成コースだったはずである。
・・・べつに大学者というような人ではない。
かれの長崎における偉業は、医学(基礎医学をふくむ)の
各科を一人で教えただけでなく、化学や物理といった
関連課目まで教えたことにある。・・・・・
さらには病院で患者を見、学生にカルテをとらせ、
あわせて実地の診療術も教えた。休息というものが
ほとんどなかったにちがいない。
ポンぺ門人帳を繰ってみると、
   三田尻 荒瀬幾造
とあるのが、荒瀬進氏の祖父君であるかと思える。


・・・・・・惜しくも幾造は、早世した。
ただ、帰国してめとった妻に、ポンぺ先生の人柄と学問が
いかにすばらしかったかということをこまごまと語った。
それだけでなく、ポンぺ先生の恩は忘れられないとして、
庭に一祠をたてて朝夕拝んでいたのである。
 ・・・・・・
その祠にはつぎのような〈神話〉までついている。
『若い未亡人になった祖母が、私が小さいとき、
膝の上に抱いては、くりかえし亡夫からきいたポンぺ先生の
話をしたんです。私にとって、桃太郎や青い鳥のはなしが、
ポンぺ先生でした』
と、荒瀬進氏が語った。
唐突だが、右(注:上)の祠に対する未亡人や
その孫の感情と儀礼こそ、古来、神道とよばれる
ものの一形態ではないか。


   ・・・・・・・・・
民間人である三田尻の若い蘭方医荒瀬幾造の心は、
まことに大らかで無垢というべきだった。
・・・・かれはただポンぺを敬するあまり、
カミとしてまつったのである。古神道の一形態とは、
こんなものだったかもしれない。

むろん、このことは、
なまのポンぺご当人の知るところではなかった。
なま身のポンぺその人はその後、オランダで
牡蠣の養殖に失敗したり、赤十字事業に熱中したりして、
1908年、79歳で没した。
かれは、クリスチャンでもあった。
もし三田尻のことを知れば、目をまるくしたにちがいない。」

はい。途中を端折って、最初と最後とを引用しました。
この短文のなかで、司馬さんは、このことに感じ入って
『胡蝶の夢』という作品を書かれた。とあります。

うん。私は、この短文だけで、もう満腹でした。
それで『胡蝶の夢』はいまだに読んでおりません(笑)。
どなたか、読まれましたか?
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応仁の乱と京都。

2020-03-14 | 地域
ユーチューブで文化人放送局の
怒れるスリーメンを見ております。

そこに登場する高橋洋一氏は元官僚。
法律施行に対する目配りに、驚かされます。
法律の文章をパッとみては、急所をつかみだして
語ってゆかれる明晰な、その手際。

それはそうと、
以前に読んで、そのまま本棚にあった文庫が出てくる。
内藤湖南著「日本文化史研究」(上下。講談社学術文庫)。
その下巻に「応仁の乱について」がありました。
27頁ほどで、大正10年8月の講演です。

うん。私はそこだけを、あらためて読みました(笑)。
まずは、つとに有名な指摘から引用。

「大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、
古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ、
応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。
・・・応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた
歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで
日本の歴史は十分だと言っていいのであります。」(p64)


うん。この文庫を私は30年ほど前に読んだんだと思います。
すごいことが書いてあるらしい(笑)。パラパラ読みでも
そんな感じをうけました。今度あらためて読むと内容に分け入って
読むことができました。年はとるものです(笑)。

うん。ここでは、京都というフレーズが出てくる箇所のみ引用。

「とにかく応仁の乱というものは、日本の歴史にとってよほど
大切な時代であるということだけは間違いのないことであります。

しかもそれは単に京都におる人がもっとも関係があるというだけでなく、
すなわち京都の町を焼かれ、寺々神社を焼かれたというばかりでは
ありませぬ。それらはむしろ応仁の乱の関係としてはきわめて
小さな事件であります。応仁の乱の日本の歴史にもっとも大きな
関係のあることはもっとほかにあるのであります。」(p61)

読むのは楽しかったのですが、
要約するのは、あきらめました(笑)。そこで
「京都」と出てくる箇所をあと一つ引用。

「一体応仁の乱に
実際京都で戦争があったのはわずか三、四年であります。
十年間も続いた乱であると申しましても、京都に戦争のあったのは
三、四年間でありますが、その三、四年間ばかりの間に洛中洛外の
公卿門跡がことごとく焼き払われたのであります。
しかもそれがことごとく足軽の所行でありましたので、
そのことが『樵談治要(しょうだんちよう)』に出ているのであります。
そして敵の立て籠ったところは仕方がないにしても、
そうでもない所を打ち壊しまたは火を掛けて焼き払い、あるいは
財宝を掠め歩くということは偏に『ひる強盗』というべしといっております。」
(p67~68)

うん。こうして27ページの講演の中で応仁の乱が、
明晰に系統だてて光が差してゆくかのようでした。
私には消化できないので、要約はあきらめました。







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虎ノ門ニュースの坂東さん。

2020-02-29 | 地域
2月28日の虎ノ門ニュースで
坂東忠信さんが出ていて、聞けてよかった。
幸いユーチューブで、繰り返して見ることができる。
うん。よかった。
ユーチューブだと、本を繰り返して読むように、
繰り返して発言を聞けるのは有難いなあ。


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京都への修学旅行。

2020-02-27 | 地域
いよいよ。
林屋辰三郎著「京都」(岩波新書・1962年)を手にする。
はい。昨日届きました。本1円+送料350円=351円。
書肆吉成札幌IKEUCHI GATE6店より。

はい。『はしがき』は、こうはじまります。

「春は花、いざ見にごんせ東山、色香競(あら)そう夜桜や
とうたわれるように、京は四季のうつりにつれて、
それぞれの季節に応じた名所がある。・・・・」

この次の頁に

「わたしは京のなかに、
こうして四季を求めることができるなら、
どうかして一年の四季よりも、千年の古都という
その歳月を、京のなかでさがし求めてみようと、
いつのころからか考えていた。・・・・・
その可能性はおそらく日本中で、
京都だけがもっているものではなかろうか。」


はい。パラリとひらき「六道さん」の箇所を引用。

「京都の中京の人々は、毎年盂蘭盆になると
四条の橋をわたり大和大路を南に折れて、
さらに東へゆるやかな松原坂を上って六道まいりをする。
 ・・・
わたくしは両側に並ぶ切子燈籠やお供えの槇(まき)を
うる屋台店をぬいながら、精霊の迎い鐘をたよりに
松原坂をゆっくり上って行く方がたのしい。

坂の北側に古びた赤門のみえるのが、
六道さんの名で親しまれた珍皇寺(ちんこうじ)である。
本堂の前を六堂ノ辻といい、冥途の通い路と考えたのだが、
親しい人々を鳥辺野の煙とした京都の人々にとっては、
年に一度の六道まいりで精霊をむかえることを、
千年このかた伝えつづけているのである。・・・・・

境内はとりすました禅寺や門跡寺院とは異って、
まったく地獄・極楽の庶民的世界である。
そうした図絵を前にして絵解きをしたと思われる
雰囲気が、そのままにのこされているのである。

この寺の西には、今は嵯峨の奥に移された
愛宕念仏寺という、念仏三昧の寺もあった。
これらの寺が、庶民たちの魂の故郷ともなったのだ。
しかもこの寺は、京都の人々から盂蘭盆以外は
まったく忘れられている。お盆になると
突如として人が集まるのである。

この六道まいりも、室町時代には町々の人たちが
つれ立って、むかし町に生きた人々をしのび、
かつ今を生きる人たちの親しみをふかめる機会であった。
そこへ行けばそのころはいっそう広かった境内で、
猿楽などもみられたのである。

 ・・・・・・・・
本堂の本尊薬師如来坐像は藤原時代の優作といわれているが、
この寺が思い起こされる日の本堂の雰囲気は、とうてい
美術の鑑賞とはかけへだたった、人いきれの中にある。
いわば本尊の美術的価値をあげつらうのも、ためらわれる
空気が支配しているのである。町の人々が、こうしたなかに
一日を送ることが、盆という休日の理由であったのであろう。

この日に重ねて、おこりは新しいことだが、
清水坂の陶器の店々が市をたてる。
このごろは陶器まつりの名でにぎわい、
六道まいりの帰り客を誘うはずのが、
逆に陶器まつりの帰り客のいくらかが、
六道まいりをするというありさまである。
・・・・」(p115~117)

こうして文章は、つぎに至近距離にある
空也上人の六波羅蜜寺へとすすみます。

ちなみに、
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)には、
この林屋辰三郎著「京都」の、梅棹さんによる書評が
掲載されておりました【昭和37(1962)】。

この書評で、梅棹忠夫は、こう指摘されております。

「著者の論点のなかで、わたしがもっとも感動したのは、
著者が、『京都はなぜ千年の古都と称しうるか』を
説明した部分である。
応仁・文明の大乱によって、古代都市として京都は、
完全にほろびさった。しかし、王朝の遺跡はすべて、
桃山・寛永のルネッサンスによって復興されているのである。
この指摘は、京都を理解するうえに、
あるいは日本の文化を理解するうえに、
ひじょうに重要な点であろう。」(p86~87)

うん。この梅棹さんの書評でおもしろいのは
「京都への修学旅行の意義」を語っている箇所でした。
最後に、そこを引用。

「ある意味で、京都はそのまま、いきている日本史である。
京都の歴史をかたることは、日本の歴史をかたることにもなる。
ここでは、京都を材料として、日本の歴史がかたられているのである。
この本は、京都という実地に即しながら、日本史へのよき入門書と
してつかうことができる。もともと、京都への修学旅行の意義は、
そういうところにあったのである。生徒たちを京都につれてゆく
役の中学・高校の教師にとって、この本の出現は、おおきな福音に
なるだろう。・・・」(p86)






コメント (3)
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みうらじゅん㏌京都。

2019-12-07 | 地域
例によって、
お小遣いを手に駄菓子屋に向う子どものように、
ネット古本屋で、京都の関連本を漁る私です(笑)。

今回手にしたのは、200円の
みうらじゅん「マイ京都慕情」(新潮社)。
京都とつかなければ買わなかった一冊。

カバーの経歴をひらくと
「1958年京都府生まれ。イラストレーターなど。
武蔵野美術大学在学中の1980年に『うしの日』
で『ガロ』新人賞に入選、漫画家デビュー。・・・」

そうなのか。みうらじゅんは京都生まれ。
この古本は、各ページに写真や漫画がたっぷりの
お得な、みうらじゅん入門書となっておりました。
パラパラとめくると、興味をもったので、
角川文庫『見仏記』(いとうせいこう・みうらじゅん)。
新潮新書『マイ仏教』(みうらじゅん著)。
この二冊を注文することに、
それが今日揃いました。

ここでは、『マイ仏教』のまえがきから引用。

「私自身は『一人電通』と称して、
マイブームの赴くままにいろいろ
なことをしている人生であります。」

「子どもの頃から一貫してブームで
あり続けているものが、仏教なのです。」

「中学と高校は、京都にある浄土宗系の
学校に入学しました。いわば、坊さんへの
エリートコースを進もうと思っていたのですが、
そこでロックやアートと出会うことで、将来の夢は
微妙に軌道修正されていきました。」

「小さい頃から好きで、登下校時にずっと
口ずさんでいた般若心経。・・・」


はい。これくらいで、みうらじゅんの外見との
ギャップが浮き彫りになってきます。
ありがたいのは、安い古本なり(笑)。

「ビーナスの誕生」に衣を着せたような、法隆寺百済観音像。
それを、みうらじゅんは
「法隆寺の百済観音像は、ボディコン・ギャルのルーツ」
と指摘し、表現しております。
角川文庫「見仏記」のp33には、みうらじゅんの
イラストと共に『百済観音像はボディコンのルーツ、也。』
と説明見出し。そのページの文字には

「法隆寺の百済観音像は六本木のイケイケギャルの
着ているボディコンシャスのルーツである。
体のラインもあらわに、百済観音像は立っておられる。
仏像界ではボディコンの他、シースルーファッションなども
先がけておりその色気は現代にも伝えておられる。
しかし、重要な点はボディコン・ギャルの中身であって、
『仏作って魂入れず』とは全くこの事である。」

はい、小さい頃から般若心経を口ずさんだだけあります。
年季が、われわれとは違う。

ということで、もどって
みうらじゅん『マイ京都慕情』(新潮社)には、
京都のお寺や、仏像の写真やら学生時代の
みうらじゅんの写真やらがベタベタと絶妙な
配置で並んだ中に、1頁だけイラスト
「みうらじゅんの日活ロマンポルノ」(p82)が
あるのでした。
このページは欠かせないのだと、
『見仏記』の引用したイラストを見ると
フムフムと納得している私がおります(笑)。






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屋根の修理と、飲み会と。

2019-11-21 | 地域
昨日の水曜日は、家内の実家へ、屋根瓦の修繕。
家内の父が、今年の一月に93歳で亡くなり。
それ以来、空家。着くと、まずは窓をあけて、
家に風を通す。

うん。簡単な修理です。
家の端のかまぼこ型の瓦がずれて
その下の細かな瓦が、散乱していたのを
あつめて、組み立てて、くっつけてという段取り。
ようするに、プラモデルの組みたての要領(笑)。
一階上の屋根瓦で、しかも二階の窓のそばでしたので、
出入りが簡単な、初心者でもできそうな作業。
簡単でも、そこはそれ、素人ですから、
時間がかかる。それにけっこう漆喰に塗りむらができ、
終わってから、庭からみると、汚さが一目瞭然。
素人の修復作業ということが、よくわかる(笑)。
でも、まあいいや。
ちょっとの修繕で補修できたのだから、
これでも、めっけものです。

あとは、隣りにならぶ、古い家の峰にあたる
箇所のトタンがなくなっていて、
そちらは、どうしたか。
はい。防水シートで裏がガムテープよろしく
しっかり張りつくのが、ありましたので、
それをつけて、こちらもおしまい。

もう一箇所。納屋の屋根の浪打トタンが
飛ばされていて、こちらは、とりあえずは、
残っているトタンが飛ばないように、釘で
あらためて、固定して、こちらはあと回し。
以前来たときは、気がつかなかった箇所で、
今回はじめて、気がついての修復箇所。

もう。とりこわしてもよい納屋なので、
雨漏りも気にならない、というか気にしない。
ということで、トタンが飛ばないように、
近隣に迷惑がかからないように、
という一応の修理で、今日はおしまい。
屋根の木材の骨組みが一畳ほど
あらわになったままの状況ですが、
今日はおしまい。

こちらの近所にも、屋根にビニールシートを
かけた家があったり、足場で家を囲って、
作業の途中で、そのままになっている家もあり、
まだまだ、もと通りの家並みとはなっていない、
といった感じです。

さてっと、夕方5時半から、7人での飲み会。
生ビールで乾杯。日本酒でチビチビと、
話しがはずみました。
はい。女性2人と男性5人。
じつは、ご夫婦を招待しての気さくな会。
会費は7500円。招待した方からも、
金一封をいただいて、日本酒も
よいものを注文しての会話でした(笑)。

ということで昨夜は帰宅して寝て、
そうして、朝起きてのブログ更新。






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韓国の古今。

2019-11-14 | 地域
このところ、韓国が気になる。
香港は気がかりなのですが、
まず隣国の動向が気になる。
けれども、テレビは、切れ切れで、要領を得ない。
いきおい、ユーチューブを見ております。
篠原常一郎。虎ノ門ニュース。怒れるスリーメン・・・。

さてっと、宮本徳蔵著「力士漂泊」(小沢書店)を
パラパラとひらく。文が締まっていて、小気味いい。
お酒をチビチビと味わう要領で読んでみます(笑)。

この本に、韓国が登場しております。
「今年(1985)の早春、第六回天下壮士シルム大会を
観戦するために、わたくしはソウルにいた。」(p17)

はい。この箇所を引用してみます。

「シルムとは韓国語で相撲をさし、チカラビトには
日本のように力士の字を当てず、壮士と表記している。
天下壮士というのは要するに、横綱といった称号である。

三月とはいえ旧暦ではまだ小正月(1月15日)を過ぎたばかり、
4,5千人ははいる奨忠体育館の内部はかなり寒かった。・・・
どうにも我慢がならず、規則に違反するとは知っていながら、
日本からたずさえてきたスコッチを魔法びんに詰めて持ちこんだ。
そして少し離れたところにいる警備員の眼ににはたぶん麦茶と
映ってくれるだろうと、・・・・ときおり黄色の液体を蓋についでは
チビチビなめていた。
 ・・・・・・・・
アルコール飲料の持ちこみがこうも厳重に禁じられている
理由は何だろうか。韓国民衆の観戦態度は総じて礼儀正しく、
ヒツジのようにーーーというよりはこの地の特産であるノロジカ
のごとくおとなしい。けれども時あって行司の判定がいちじるしく
公平を欠くような場合、数千人はいっせいに総立ちとなり、
太白山のトラさながらに吼えさけぶのであった。

じっさいわたくしは、かれらの抗議の声のあまりのすさまじさに、
五名の審判員が協議をやりなおし、いったんくだした裁定を
くつがえす場面を幾度か目撃した。こうなってしまうと。
場内に配備された警官たちの制止くらいではとてもおさまらない。
なるほど、この上に酔いのいきおいが加わっていたら
―――と想像すると、ちょっと空恐ろしい気さえする。
だが言いぶんが通った瞬間に熱は嘘のようにさめ、
もとの無表情でマナーにうるさいノロジカの群れにもどるのだった。」
(~p19)

このあと、韓国の相撲の詳細を報告してくれているのでした。

韓国の文在寅大統領の産業政策のルーツらしい
箇所も「力士漂泊」に読めるのでした。
それは、李朝の五百数十年をつうじての記述にあるのでした。

「朱子学系の儒教を国是に採用した李氏の政府は、
結果として、金銭ならびに商業にたいする蔑みを
庶民のレベルまで過度に浸透させてしまった。

大都会ソウルも、地方から輸送されてくる
年貢米を食いつぶす貴族たちの住処(すみか)で、
自由な商人の活躍は抑圧されていた。

徳川幕府もまた武士階級には朱子学を押しつけたけれど、
庶民に強制しようとはしなかった。とりわけ豊臣政権の
崩壊のあと不満をいだきかねない状況にある大阪商人には、
全国よりあつまる年貢米の売買を独占してまかせ、
大幅な金儲けの特権をゆだねた。
勧進相撲も最初は上方よりおこった。
だが18世紀半ばを過ぎて商品流通の中心が
関東に移るとともに、江戸相撲が京、大阪を圧倒して
急速な発展をとげるようになった。」(~p16)

うん。相撲から見た韓国と日本。ちなみに、
ソウル市長については、篠原常一郎氏の説明を聞くと、
税金を惜しげもなく多数の市民団体へと配分している
そうで。そのなかに、沖縄基地反対へでかける団体も
あるのだというのでした。そんなことを聞くにつけ、
なるほどと、韓国の古今の類似が浮かぶのでした。








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小学校卒の新聞記者。

2019-11-04 | 地域
鶴見俊輔・野村雅一対談「ふれあう回路」(平凡社)。
これを読んでいると、あっちこっち紹介本があるので、
つい、気をとられて、荷が重いという気分になります。

べつに、引用本の方にとらわれなければいいんだ(笑)。
ということで、引用してみます。

最近ユーチューブを見ていると、たとえば、
高橋洋一さんは、新聞なんていらない派。
小気味いい論説をはっております。

たしかに、昔の新聞と、今現在の新聞とは違う。
どこが、違うのか?
その手掛かりになるような箇所が、対談にありました。

鶴見】・・・あとになっても、新聞記者出身の作家たちで、
子母沢寛は大学を出ているけれど、
長谷川伸、吉川英治、みな小学校だけの学歴なんですよね。
書く文章が普通のなだらかな、ひざを交えて話し合うような文体で、
だからその流れが、幕末の最初の新聞から、明治、大正とあったんです。
ところが昭和に入ってから早い時期に、新聞が大卒だけしか
とらなくなると、そこから新聞が変わってくる。

野村】ですから、知的な訓練を受ければ受けるほど、
コミュニケーションのおもしろさというようなものも、
他人と交流することのおもしろさも、わからなくなってくる
ということがあるんですね。(p128)

さてっと、この対談本の最後に、
ふたりが、お薦めの本を紹介するページがありました。
そのなかで、鶴見俊輔氏は
柳田国男著「明治大正史世相篇」を取り上げておりました。
うん。私は未読。未読ながらも本は本棚にある(笑)。
さっそく、そこの自序からだけでも開くことに、
その自序にも、新聞が指摘されておりました。

「・・・・そのために約一年の間、全国各府県の新聞に
眼を通して、莫大の切抜きを造っただけで無く更に
参考として過去六十年の、各地各時期の新聞をも
渉猟して見たのである。

ところが最後になって追々と判ってきたことは、
これだけ繁多に過ぎる日々の記事ではあるが、
現実の社会時相はこれよりも亦遥かに複雑であって、
新聞は僅にその一部をしか覆うて居ないということである。
記録があれば最も有力であるべき若干の事実が、
偶然にこの中から脱しているということであった。
・・・・生活の最も尋常平凡なものは、新たな事実として
記述せられるような機会が少なく、しかも我々の世相には
常にこの有りふれたる大道の上を推移したのであった。
そうしてその変更のいわゆる尖端的なもののみが採録せられ、
他の碌々として之と対峙する部分に至っては、
むしろ反射的にこういう例外の方から、推察しなければ
ならぬような不便があったのである。

そこで結局は此以外のものの、現に読者も知り
自分も知っているという事実を、ただ漠然と
援用するの他は無かった。・・・・」

う~ん。読書の秋。この機会に、満を持して、
柳田国男著「明治大正史世相篇」にチャレンジ。
ちなみに、この本の東洋文庫解説は益田勝美。





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金槌(かなづち)と充電式丸鋸。

2019-11-02 | 地域
鶴見俊輔著「文章心得帖」(潮出版社)に
こんな箇所がありました。

「全体として考えてみて、
この人の文章がうまいと私が思っているのは、
花田清輝、竹内好、梅棹忠夫。
私より若い人でいえば山田慶児、多田道太郎の
文章には感心します。・・・」(p14)

う~ん。読んだことのない人ばかりならびます(笑)。
でも、梅棹忠夫の名前がある。
そうえば、加藤秀俊著「わが師わが友」に、
鶴見俊輔氏が加藤氏に梅棹忠夫を紹介する場面が
描かれておりました。そこを引用。

「鶴見さんは、ほとんどわたしと入れかわりに
東京工大に移られたから、いっしょにいた期間は
きわめて短かったが、そのあいだに、わたしに、
ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、
と熱心にすすめられた。鶴見さんによると、
梅棹さんという人は、じぶんで金槌やカンナを使って
簡単な建具などさっさとつくってしまう人だ、
あんな実践力のある人は、めったにいるものではない、
というのであった。まことに失礼なようだが、
鶴見さんは、およそ生活技術についてはいっこうに無頓着、
かつ不器用な人だから、鶴見さんからみると、
大工道具を使うことができる、ということだけで
梅棹さんを評価なさっているのではないか、
ずいぶん珍奇な評価だ、とわたしはおもった。
金槌やカンナくらい、誰だって使える。
大工道具を使えない鶴見さんのほうが、
率直にいって例外的だったのである。」(p80)

大工道具といえば、
わたしが中学生の頃には、
技術家庭科というのがあって、
木片でなにやら、椅子や本立てなどをつくらされた
記憶があります。現在の中学生の科目には、
そんなのは、あるのでしょうか?

台風15号で家の屋根が部分的に飛ばされた際に、
すこしたってから、大工さんが来て、飛ばされた屋根を
作り直してくれました。忙しいらしく、最初は一人で
大工さんが作業をはじめておりました。業者が、
ベニヤとか角材とか持ってくると屋根にあがっている
大工さんは、上にあげてくれるように指示する。
なんせ、大工さんは一人。業者は早く帰りたいらしい。
うん。見ていた私はといえば、運ぶだけならと業者さんから
手渡されるハシゴからの材料を二階で受け取りました。
つぎは、屋根に移動するのも手伝う。
はい。ベランダがありますから、ラクラクです。

いまは、充電の丸鋸で、サッササッサと角材やら
ベニヤやらを切ってゆきます。圧縮空気の機械でしょうか。
釘を打つのもポンポンと作業効率がはかどります。
屋根はトタンなのですが、それはトタン屋さんが
来てからということで、その前までの防水シートを
張る作業までが完成するのに、1~2日で完了。
屋根の軒のペンキは、どうしますか。
と言われたので、自分でやりますと答え、
ちょっとの部分をペンキ塗りですごしました。
ちょっと、こういう作業をしていると、
大工さんが使っていた充電式丸鋸が気になる。
ほしそうな顔をして見ていたせいか。
大工さんは、これ便利なんだよなあという。
なんせ、屋根にのぼっての作業に、その場で
てきぱきと角材や、ベニヤを切ってサイズにあわせてゆく。
はい。わたしは一週間くらい、思い悩んで、
充電式丸鋸を買いました。

大工さんとトタン屋さんとが屋根の修復を終え、次の現場へと
移動してから、何週間かして、私は、ベランダの柵が飛ばされた
その箇所の、雨漏り防止に、蓋をかぶせることにきめて、
ベニヤや角材でもって、ひとり作業をはじめました。
そこでは、充電式丸鋸が活躍しました(笑)。

それもこれも、中学生の時、技術家庭科で、
木工作業をしたおかげかもしれないなあ。

もどって、加藤秀俊著「わが師わが友」のつづき。

「・・それと前後して、わたしは雑誌『思想の科学』(1954年5月号)
に梅棹さんの書かれた『アマチュア思想家宣言』というエッセイを
読んで、頭をガクンとなぐられたような気がした。・・・・
わたしは梅棹さんの文体に惹かれた。この人の文章は、
まず誰にでもわかるような平易なことばで書かれている。
第二に、その文章はきわめて新鮮な思考を展開させている。
そして、その説得力たるやおそるべきものがある。
ひとことでいえば、スキがないのである。
これにはおどろいた。いちど、こんな文章を書く人に会いたい、
とわたしはおもった。たぶん、鶴見さんが日曜大工をひきあいに
出されたのは、鶴見流の比喩であるらしいことも、
『アマチュア思想家宣言』を読んだことでわかった。」(p80~81)

はい。『アマチュア思想家宣言』に
どのようなことが書かれていたのか、
私は、もうすっかり忘れてしまっております。
「日曜大工をひきあいに出されたのは、
鶴見流の比喩であるらしい・・・」とはどんなことなのか。
もう一度、あらためて読み返してみなくちゃね(笑)。




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ベランダの解放感。

2019-10-24 | 地域
台風15号で、二階のベランダの柵がとばされ。
そのままになっておりました。それを、エイヤア。
自分で修理(笑)。
まずは、柵なしでいくことに決める。
壊れた箇所から、雨が降ると、外壁ボードの裏側に
水が浸み込むので、それを避けるために、
廃材をつかって、柵のあとに、蓋をかぶせる要領で、
直接雨水が浸み込まないように、工夫する。
それだけ。それだけなのに、素人のかなしさ。
時間がかかる。昨日は、その廃材にペンキを塗る。
うん。これでおしまいにする。
風が強い時などは、かぶせたままなので、
その上に土嚢をのせたりしてふせごうと、思案する。

はい。これでおしまい。
柵がなくなったら、見晴らしがいい。
動物園の柵を取っ払った感じの解放感。
屋根にのぼって、見晴らす感じ。

夜はお風呂で、手のペンキをおとしておりました。
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台風19号。

2019-10-14 | 地域
台風19号。
私たちの地域では、豪雨でなく、強風でした。
台風15号を体験しておりましたので、事前に
食品の買い出し、ガソリンの給油等が混んで、
心して台風19号をむかえました。

東の風から、だんだんと南風となり、
強風は台風15号と同じだと思えました。
ですが、時間帯が今回は短くて、
夜の2時ごろには、もう台風が
この地域から通り過ぎておりました。
その頃には、丸い月が停電の夜を明るくしておりました。
3時前に、外へ出て被害を調べる。無風で、台風一過。
今回は屋根も飛ばずに過ぎ、ホッとしました。

13日も停電。よい天気でしたので、
台風15号の際の被害箇所の補修を夕方までしておりました。
それから、隣りの館山市に行くと電気が通じており、
テレビを見て、他の土地の被害状況を知ることができました。

電気が通じている館山市で、シャワーを浴び、
食堂で夕食をとって帰ってきました。

ラグビーの後半のはじまり頃に
電気が自宅でも通じ、あらためて
他地域の被害の大きさを知りました。


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窓と段ボールとベニヤ。

2019-10-12 | 地域
台風19号が接近中とニュースでわかるので、
やれることをしておく。
雨戸がないガラス窓があり、
段ボールを窓枠にはめ込む。
これを昨日おこなう。

台風15号で飛ばされた屋根を
解体したあとに、ベニヤが四枚。
ちなみに、台風のあとに、
分別ごみとして、
トタンと木材はわけて、
廃校になった小学校校庭へと出しました。
瓦や畳や、木や竹や、きちんと
わけて地区の皆さんは出されておりました。

その際に、トタンを丁寧に釘をぬいて
仕分けしていたら、角材とベニヤが
わりかしいい感じで取り出せたので、
せっかく汗をかいて分別したので、
廃材に出すのを見合わせておりました。
そのベニヤと角材の出番がやってきました。

うん。出入りできる大きなガラス窓に
押さえとしてベニヤを並べることに、
ちなみに、昨日、近場のニトリへと
出かけると、もうベニヤの在庫がなくなって
うすいベニヤが数枚残っているくらいでした。

今日の午前中は、そのベニヤで窓の補強。
といっても、家の内側に窓枠にあわせて
ベニヤをおき、そのベニヤを重い家具でおさえるだけ。
釘などはつかいません。

これで台風19号への準備はおしまい。
あとは、通り過ぎてくれるのを待ち、
なにかあったら臨機応変に対処です。
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ビニールシート。

2019-10-03 | 地域
出かけたついでに、台風被害の様子を車でたどりました。
東京行の高速バス乗り場脇の、枇杷倶楽部では、
三階ほどの高さに、シンボルの塔があり、
鉛筆のとがった先のような屋根のトタンがきれいにはがれ、
骨組みがあらわ。半キロほどはなれた富浦体育館の屋根も
角の方がはがれておりました。
普通に見過ごせば、通り過ぎてしまうのでしょうが、
屋根にビニールシートかぶせてあり、その多さに気づかされ、
被害が内陸の方まで及んでいたのがわかります。

枇杷倶楽部の周辺のビニールハウスでは骨組みがグニャリ。
富浦駅前通りは、台風の通り道だったのでしょう。
両側が均等に被害が及び、健在だった新家屋が、
私には、かえって被害のいたましさを思わしめます。

そのまま、鋸南町の方へと道沿いに車でみてゆくことに
漁港では、屋根ごと吹き飛ばされた箇所もあり、
あるセブンイレブンでは、内部がきれいにとりはらわれて
解体作業をしている最中。
場所によっては、ファミリーマートが1キロほど先にあって、
そちらは、営業中(ドアの脇のガラスがふさいでありました)。

それらに比べると、わたしの町内では、被害は少なかったと
いえるかと思います。
わたしの家は、ベニヤにして6~7枚ほどの二階の屋根が
飛ばされて二階のベランダの手すりも根こそぎでした。
地元の大工さんが、ここは屋根が飛んだからと
優先して直していただき、9月中にそれが完了。
トタン屋根で、大工とトタン屋さんと二人で
きちんと仕事をしていただきました。

大工さんによると、トタンは、在庫がこれで最後だと
いうことで、しばらくは入荷待ちとなるそうでした。
ありがたい。これで雨漏りから解放。

それとともに、いまだビニールシートでの家が多々あるので、
ひとり喜ぶわけにもいきません。
天井はところどころ抜けてやぶけていますし。
畳は上げたままになっております。
晴れた日は、窓を開け放して風通しをよくし。
などと心がけております。

今日、隣りでは、業者にたのんで、
畳の処分を決めたようです。

ちかくのガソリンスタンドのおやじさんに
聞いたのですが、ご自身の自宅は、
スタンドの裏に瓦屋根の二階屋があり、
そこに飛んできた屋根が二階の瓦にあたり、
二階の窓をこわし、一階の瓦と窓とを
こわしてしまったそうです。

おやじさんの話では、一階の雨戸とガラス戸とが
われて、室内にガラスが散乱し、
雨どいが飛んでしまったので、
屋根から落ちてくる雨などが風の勢いで
室内に勢いよく打ち寄せていたそうです。
朝まで動くに動けず、一人ですごしていたそうです。

近くに息子さん夫婦がいたので、幸いでした。
ガラス屋さんもかけつけ、戸袋をふくめて
メチャクチャだったと言っていたそうでした。

とりあえず、雨戸を修復された家を見せていただきました。





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駅前から烏丸通をまっすぐ北へ。

2019-08-21 | 地域
せっかく、一泊でも京都へ行ってきたので、
京都のタクシーについて。

3人だったので、近辺はタクシーの方が
手軽で安上がり、たとえば西本願寺から
タクシーで京都駅新幹線入り口へ向かってもらって
支払いは580円なり(笑)。

さてっと、
加藤秀俊著「わが師わが友」に、
「京都文化のなかで」という章がありました。

そこから引用。

「京都の会合が深夜におよんでも
たのしくつづけられることのできた最大の理由は、
京都という町が人間的スケールの町である、ということであった。
そのことは、藤岡喜愛さんに教えられて、
はじめて、なるほど、とおもったのだが、
たとえば祇園あたりで酒を飲んでいて、さて自宅に戻ろう、
ということになっても、当時の金で300円もあれば、
タクシーで帰宅できたのだ。自宅は、おおむね市内にあり、
距離はせいぜい8キロ以内。だから、べつだん終電車など
気にしなくてよかったのであった。じっさい、タクシー代がなければ、
歩いて帰ることだって不可能ではない。

なんのときだったか忘れたが、上山春平さんと多田道太郎さんが
上京することになり、わたしは山田稔といっしょに京都駅まで
送りに行ったことがある。・・・当時は、新幹線などという
便利なものものなく、上山・多田両氏は、夜行寝台列車に乗る
ことになっていた。駅に着いたら、列車の延着かなにかで、
一時間以上待つことになり、駅前の安酒場に入り、
したたかに、酒を飲んだ。・・・・山田とわたしは、
この先輩たちに扇動されてかなりいい気持になってしまったのである。

ところがやがて、列車が来て、旅立つおふたりはさっさと駅にむかい、
山田とわたしは勘定を払ったのだが、意外と値段が高く、
ふたりの財布を底まではたいて、やっと間に合った。
そして気がついてみると、もう市電はない。
タクシーに乗ろうにも、金がない。若さと酔いにまかせて、
それでは歩こう、ということになった。
駅前から烏丸通をまっすぐ北へ。
わたしの下宿は出雲路橋、山田の自宅は下鴨高木町。
結局、二時間ほど歩いて帰った。

・・・・要するに、京都の町は、
人間的スケールでできあがっているのだ。
だから、いくらおそくなってもいい。それにひきかえ、
東京というのは、もはや人間的スケールをこえている。
湘南方面に帰る人もいるし、千葉・埼玉に自宅のある人もいる。
終電車というものが気になる。
だから、深更におよぶ議論というのは、期待すべくもない。
・・・やたらに値段が高く、しかもバカ話の場ではあっても、
議論の場にはならない。そういう点で、
京都というところは、まことにめぐまれているのだ。
そのうえ・・・・」
(p101~103)


今年は「梅棹忠夫著作集」全巻を安く購入したので、
このチャンスに、通読しようとしているのに、
またしても、それてしまいそうになる。
「駅前から烏丸通をまっすぐ北へ」歩いているつもりになって、
「梅棹忠夫著作集」へとたどりつけますように。
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