和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

来客二人。

2023-01-08 | 地域
昨日は、連休を目安に、泊りがけで二人の来客。
夕飯は、吟醸酒の飲み比べ、楯の川酒造の2本。
冷凍してあった、サザエ・伊勢えび。それにクジラのたれ。
イカ大根にもつ煮、イカの刺身。6時から11時を過ぎる。
4人して、まんべんなく喋れて、たのしめました。

二人の来客は、太平洋に上る朝日を見に、
早朝歩いてでかける。

私が起き出したのは、7時過ぎ。
朝食のあとにコーヒーを飲んだせいか調子悪い。
昨夜の酒で胃が荒れてるかも以後気をつけよう。

二人の来客は、朝食後またひと寝入り。

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賀正。

2023-01-05 | 地域
昨年、年賀はがきを書かず。
今年、届いた年賀はがきに、
返事の手紙やら、葉書やら。
毎年同じような寝正月です。

昨日、風もなくよい天気だったので、
主なき家の倉庫の屋根の修理に行く。
今日は腰がいたい。

昨年末に、トタンの剥がれあとがあり、
年末で、ケガをしないようにあと回し。
はい。その箇所を4日(水曜日)修理。

なんか、毎年修理からはじまっているような気がしてきます。
さてっと、今日が今年初めてのブログ書き込み。
GOOブログを読ませていただくのも今年が初め。
本年も昨年同様よろしくお願いいたします。
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天秤棒に、背負子(しょいこ)。

2022-10-21 | 地域
三谷一馬著「江戸商売図絵」(中公文庫)のはじまりは、
カラー絵が4枚掲載されておりました。そのうちの2つが
天秤棒を担ぐ物売の姿です。
ひとつは大福餅売り。もうひとつは菖蒲売り。
はい。どちらも雰囲気があって印象に残ります。

思い浮かんできた本がありました。
林望著「ついこの間あった昔」(弘文堂・平成19年)。
写真ごとに林望氏が文章をつけており。その一つに
『オバサンの籠の中には』と題する写真があります。

はい。ここはきちんと引用してゆきます。

「漁村では、朝まだき暗いうちに亭主が舟を漕ぎ出して
 あれこれの魚を獲ってくる。するとこんどは家事を終えた
 女房衆が、これを籠に入れて担い商いに出かけるのであった。

 とりわけ、海山が近くて山村と漁村が隣り合っているようなところでは、
 とくにそういう担い商いが大きな意味を持っていたのである。

 この写真は、和歌山県の周参見(すさみ)という漁港の近くで
 撮影されたものだが、ちょうどこのオバサンたちは、
 亭主の獲ってきた魚を近在の山村まで売りに行って、
 すっかり売り尽くした空き籠に、山村で蕪などの野菜を
 仕入れて持ち帰り、漁港のほうでこんどは山の幸を売り歩く、
 そうやって行き帰り無駄に手足を動かすことなく働いていたという、
 その一シーンである。

 天秤棒に籠、これは江戸時代以来ちっとも変わらない行商姿で、
 この写真の撮影された昭和42年くらいまでは、
 ある意味で江戸時代が生き残っていたのである。 」( p214~215 )


 このあとに東京生まれで東京育ちの林望さんが出会うオバサンが
 登場しております。はい。こちらも引用しなきゃ。

「 生まれは亀戸という下町で、まもなく大田区の石川町・・
  ここで小学校の四年生まで過ごし、その後は武蔵野市に
  開かれた大きな住宅公団のアパートに引っ越したのだが、
  それがちょうど昭和の34年だったかと思う。

  この海からは相当に隔たった武蔵野の団地までも、
  海辺のオバサンたちはやってきた。

  千葉の岩井のあたりから電車に乗って、まだのんびりと蒸気機関車なども
  走っていた中央線の路線の上を、たぶん総武線の各駅停車に乗って、
  彼女たちははるばると海の幸を運んできたものだった。

  一週間に一度くらいの割合だったろうか、
  まっくろに日焼けして、約束事のように手ぬぐいで姉さん被りをし、
  モンペに割烹着、それに前掛けをかけてというような姿で、 
  いつも同じオバサンがやってきた。・・・

  天秤棒を担いで電車には乗れないから、
  彼女たちの場合は担い籠を三つも四つも重ねて、
  その全体を大きな風呂敷で包み、さらにそれを背負子(しょいこ)
  のようなものに帯のような紐で括り着けてやってきた。

  玄関先で、よっこらしょっ、と背から荷を下ろすと、
  たいてい『やーれやれ』というようなことを言った。

  子供心に、こんな小さなしなびたようなおばあさんが、
  背丈ほどもある大荷物を背負って歩くんだから、
  なんだかかわいそうな気がした。

  おそらく、そういう同情もいくぶんあって、
  行商のオバサンがやってくると、母などは、
  ずいぶんあれこれと買ってやるのだった。

  ときにより、サンマやアジの干物が出てきたり、
  切り干し大根のようなものが出てきたり、
  まるで玉手箱のように、オバサンの籠からは
  びっくりするほどの品数が取り出される。
  それを私はいつも珍しく眺めていた。・・・」( ~p216)


うん。まだ続くのですが。
うん。引用したいけれど、ついつい長くなる。
はい。ここまでにしときます。
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涼しくなりました。

2022-10-20 | 地域
昨日は、水曜日。
主なき家の、雑草を刈にゆく。
涼しいので、午前午後続ける。

家のまわりと、畑の雑草刈り。
9時ごろに到着すると、草刈り機の音がする。
気になるので音をたよりに探してみると、
同じ場所を二人して、草刈りをしておられる。
はい。気になるので様子を時々のぞきにゆく。
うん。やはり午前午後草刈りをしておられた。
私とちがってテキパキとさまになっている。
お昼頃みにゆくと、軽トラに四人くらいで
刈った雑草をつみこんでおりました。
午後に見にゆくと、市のシルバー人材センターと
軽のバンに文字がはいった車がとまっておりました。
草刈は移動して、傾斜地を刈っておられました。

はい。昨日は草刈り日和。めずらしく草刈り機連続使用のためか、
左腕がしばらく少しあげると震えがくるのでした。
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こんな一日あったらいいな。

2022-10-15 | 地域
10月12日(水曜日)に午前中半日の公民館の講座がありました。

はい。及ばずながら私が講師。
半年前に依頼があって、ほぼ私の自由課題を、
当日、公民館推進委員の方のお手伝いで終了。
はい。楽しかった。

20年ほどまえに、ある絵本作家の講演がありました。
その題が「こんな一日あったらいいな」というのです。
てっきり、絵本の題名かなあと思っていたら、
はじめてひらく絵本作家さんの講演の一日を、
そのまま、題名にしたのだということでした。

私も、そんな思いで半日を過ごせました。
何よりも、ゆっくりと時間をかけて、
ちょうど、ここでの更新したブログを
あらためて、つなぎ合わせるような準備時間を
楽しくすごせました。

ということで、お久しぶりに、またブログの更新。
とりだした古本は200円。ちくま学芸文庫
苅谷夏子著「大村はま 優劣のかなたに」。
小さく副題が「遺された60のことば」とあります。

うん。大村はまさんとは何者なのかも知らないけれど、
なんだか、気になっておりました。その入門書らしい。

大村はまさんは、元国語教師で、
この本の著者は、そこの元生徒。
はじまりから引用しておきます。

「大村はまは、ことばの人であった。
 ことばを愛し、ことばを育て、
 ことばに対して誠実だった。・・・・・

 そうだ、もう先生と話ができない・・・

 一周忌を前にした頃、この小さな本を作ることが決まって、
 大村はまの著作の大半を読み返し、胸に響くことばを
 一つ一つパソコンに打ち込んでいったら、
 二カ月くらいのあいだに千五百を超えた。

 最初の百のことばが並んだあたりで、はっきりとわかったことがあった。
 人柄も、思想も、確かに、ことばになって残ったのだ。
 それぞれの、さまざまな表情をもつことばが緊密に並べば・・・
 ある意味で、もう一度、この世に大村はまという人を
 存在させることができるにちがいない。

 はりきって、まるで単元学習に取り組むようにして仕事を進めた。
 気がついたら、悲しみはすっかり薄らいでいた。  」(~p13)
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俳諧。蕎麦の味。

2022-07-16 | 地域
歌枕に対して、俳枕というのがあるらしい。

気になるので、そこを詳しく。
尾形仂著「俳句の可能性」(角川書店・平成8年)に、
「関東の風土と俳枕」と題する文がありました。
とりあえず、ここははじまりから引用。

「 関東は、行政的には東京・埼玉・神奈川・千葉・茨城・
  栃木・群馬の一都六県から成っている。

  律令体制下、七世紀から八世紀にかけて成立した旧国名でいえば、
  武蔵(むさし)・相模(さがみ)・安房(あわ)・
  上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・
  下野(しもつけ)・上野(こうずけ)の
  坂東八か国にあたる。・・・・           」(p54)


うん。はじまりからだと、あれこれ引用したくなるのですが、
まあ、いいや、前半をカットして俳諧の江戸時代へとゆきます。

「 近世の開幕とともに、文化のうえで長く後進的地位に立たされ
  てきた関東も、新興都市江戸を中心に、新しい庶民詩として
  登場した俳諧の花が咲く。

  経済の中心地日本橋は江戸俳壇の中心となり、
  新開地深川は蕉風俳諧の拠点となった。

  芭蕉の『蕎麦切(そばきり)・俳諧は、都の土地に応ぜず』
  (「風俗文選」)という遺語は、

  京の貴族の伝統文芸である和歌に対し、
  直截簡明な俳諧の、蕎麦の味がよく似合う、
  江戸的・庶民的性格を道破したものといえる。・・」(p60)


「 『俳枕』の語を生んだのも、また江戸である。

  それは芭蕉の先輩格にあたる高野幽山が、
  諸国を遍歴して成った俳書に名づけたもの。・・・

  『能因歌枕』にあやかったものではあるが、
  空想の地誌歌枕に対し、実地の見聞に基づいたところが違う。
  
  歌枕も、俳諧の目で実地にとらえ直されるとき、俳枕となる。

  
  連歌師・・の『類字名所和歌集』(元和3年・1617)のあげる
  関東の歌枕は、

  武蔵野・玉川・霞が関(武蔵)、箱根・鎌倉・足柄(相模)、
  葛飾・香取の浦・角田川(下総)、霞の浦・鹿島・筑波(常陸)、
  伊香保沼・利根川・佐野(上野)、
  室の八島・黒髪山・標茅(しめじ)が原(下野)など
  49にとどまるが、

  素外の『名所方角集』(安永4年・1775)に
  俳枕としてあげるところは176に及ぶ。

  圧倒的に増えたのは日本橋などの江戸の名所と、
  江の島などの相模の名所。
  それに日光・銚子というのも江戸時代らしい。

  一茶は放浪の間、これらに漏れた両総・安房の
  農漁村を俳枕に転生させた。・・・      」(~p61)


はい。こうして地名を引用していると、いつのまにか、
旅をして、旅館にでも泊まって枕している気になります。
そうそう、忘れずにご当地蕎麦を食べ歩きたくなります。                





 

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長谷川町子。14・15・16歳。

2022-03-09 | 地域
『いじわるばあさん』の四コマから始めます。
座敷にお客さんが座っている。奥さんはお茶の用意か
席をはずしている間、ばあさんが相手をしてる。
座卓にはフタをしたままの丼物とコップとお茶とならぶ。
ちょび髭のお客が座布団にすわって、左端には、ばあさん。
お客のそばの畳には灰皿の吸い殻から煙が。

①食べる前なのでしょうか。お客が背広のポケットから
 薬瓶をとりだして、二錠飲みこむ場面。
 ばあさんが、しまっている瓶を指さしている。

②お客『え?ニセのアリナミンだって!しらずにのんでいた!!』
 婆さん『いいじゃない、あなたもニセ紳士だもの』

③無言で、二人して歯を出して笑っている。
 婆さんのうれしそうな顔が印象的。

④座卓がひっくりかえされ、お客の姿はない。周辺には
 ドンブリや箸、コップ、湯飲み茶碗の破片がちらばる
 灰皿は裏返り、煙草の吸殻が散乱している。
 お盆に急須をもってはいって来た奥さんが
 『どうして また急におこって?』とたずねると
 婆さん『はじめは 笑っていたのョ』と
 雑巾でこぼした水をふいている。

         ( p61「いじわるばあさん」第四巻 )

はい。お客さんということで、思い浮かぶ場面があります。
まず、長谷川町子さんの年譜から

1934年14歳 一家で上京、山脇高等女学校三年に編入。 
      漫画家、田河水泡に弟子入り。
1935年   『狸の画』で漫画家としてのデビュー
1936年16歳 山脇高等女学校卒業と同時に、
      田河水泡の内弟子となる。11カ月後に自宅に戻る。

1936年は、どんな年だったのか?『サザエさんうちあけ話』から

「山脇在学中に二・二六事件があり、高橋是清邸に近かった学校の
 体育館にも雪をけたてて、武装した軍隊が、けい備についていたのを
 覚えています。・・・」 ( 姉妹社p10 )

この年の8月には、ベルリン・オリンピック。前畑秀子が金メダル。

さて、田河水泡氏の内弟子の期間についてです。
ここには、『サザエさんうちあけ話』
長谷川洋子著『サザエさんの東京物語』
小林秀雄著『考えるヒント 1』の3冊を順に引用します。

1冊目からは、この箇所。
「夏は、先生とアイスクリームもつくりました。
 深夜パジャマ姿のねぼけまなこで、小林秀雄先生の前にも立ちました。
  ( 奥さまの兄上でいられますので )
 ゲームをやって、師弟本気でケンカもしました。
 こうして可愛がってくださったにもかかわらず、
 11カ月で、ブーメランのごとく、母のフトコロに、
 まっしぐらに帰ってしまったのです。」 (姉妹社p13)

2冊目は、この箇所。
「水泡先生のお宅は奥様とお手伝いさんの三人暮らしだった。
 奥様のお兄様は、かの有名な小林秀雄先生で、時々、
 水泡先生のお宅を訪ねてこられたとか、
 町子姉の手紙には無口な方とだけあり、似顔絵など描いてあった。

 奥様は劇作家だからお出かけが多く、姉は自分の仕事が済むと、
 お手伝いさんと一緒にお掃除をしたり、食事の仕度をしたりで、
 気兼ねのない生活だったそうだ。

 それでも『帰りたい、帰りたい』という手紙を三日に一度は
 送ってよこした。内弟子生活は、結局一年と続かず11カ月で
 家に戻り、母に甘える日常が始まって満足そうだった。・・・」
                    ( p38~39 )

3冊目。
小林秀雄著「考えるヒント」に、『漫画』と題する文があります。
そのなかに、こんな箇所。

「彼(田河水泡のこと)とは、たまに会ふと、酒を吞み、
 馬鹿話をするのが常だが、或る日、彼は私に、
 真面目な顔をして、かう述懐した。

『 のらくろといふのは、実は、兄貴、
  ありや、みんな俺の事を書いたものだ。 』

 私は、一種の感動を受けて、目が覚める想ひがした。
 彼は、自分の生ひ立ちについて、私に、くはしくは
 語つた事もなし、こちらから聞いた事もなかつたが、
 家庭にめぐまれぬ、苦労の多い、孤独な少年期を過ごした事は、
 知ってゐた。

 言つてみれば、小犬のやうに捨てられて、拾はれて育つた男だ。
 『のらくろ』といふのん気な漫画に、一種の哀愁が流れてゐる事は、
 私は前から感じてゐたが、

 彼の言葉を聞く前には、この感じは形をとる事が出来なかつた。

 まさに、さういふ事であつたであろう。そして、又、恐らく
 『のらくろ』に動かされ、『のらくろ』に親愛の情を抱いた子供達は、
 みなその事を直覚してゐただろう。
 恐らく、迂闊だつたのは私だけである。」

 うん。ここまで引用したので、この文の最後の方も
 つい、引用したくなります。

「漫画家には、愚痴をこぼす事も、威張る事も出来ないから、
 仕方なく笑つたのではあるまい。
 彼の笑ひは、自嘲でも苦笑でもない。

 自分の馬鹿さ加減を眼の前に据ゑて、
 男らしく哄笑し得たのだと思ふ。

 そういふ、人を笑ふ悪意からも、
 人から笑われる警戒心からも解放された、
 飾り気のない肯定的な笑ひを、誰と頒つたらよいか。
 誰が一緒に笑つてくれるだらうか。子供である。

 子供相手の漫画の傑作が、二十世紀になつてから、
 世人の信頼と友情とによつて、大きな成功ををさめたのは、
 決して偶然ではない。

 一般に笑ひの芸術といふものを考へてみても、
 その一番純粋で、力強いものは、日本でも外国でも、
 もはや少数の漫画家の手にしかない、とさへ思はれる。・・・」


はい。最初に引用した『いじわるばあさん』の四コマなのですが、
笑にもいろいろあります。こうして引用すると、自然にわたしは、
『めは にんげんのまなこなり』と、浪平がサザエを叱りながら
その喋った言葉で、浪平とサザエさんの親子二人して大笑いする
『サザエさん』の四コマ(p127「よりぬきサザエさん1」)を、
同時に、思い浮かべておりました。







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言葉を楽しむ習慣。

2022-01-09 | 地域
久冨純江著「母の手 詩人・高田敏子との日々」(光芒社・平成12年)に
出てくる明治が思い浮かびます。
まずは、高田敏子の年譜から

1914年(大正3)9月16日、東京日本橋区(現在中央区)に生まれる
(次女)。旧姓塩田。父政右ェ門、母イト。家業は陶器卸商。
  (自編年譜「高田敏子全詩集」花神社より)

久冨純江さんは、高田敏子の長女(1935年生れ)です。
それでは、久冨さんの本からの引用。

「学問にも文学にも縁のない家だったが、ふだんの暮らしのなかで、
言葉を楽しむ習慣はあったようだ。」(p187)

このあとに、高田敏子の文を引用しております。

『私の家は商家だったので、学問には縁はなかったが、
祖母や父母が折々に口にする芭蕉、一茶、千代女の句、
道元禅師の歌など幼い耳にも親しめるものがあった。

  朝顔に釣瓶とられてもらひ水 (千代女)
朝顔の種を蒔き、水をやり、のびたつるに竹を添えて
毎朝花を数えるたのしみを知りはじめたころに、
母からこの句を教えられた。私が一番初めに覚えた七五調、
その頃は井戸も身近にあったことで、その意味もすぐにわかり、
朝顔のつるが自然に竹の方にむいてゆく不思議さもおもった。
  ・・・・・・・・・・

 春は花 夏ほととぎす 秋は月 
     冬雪さえてすずしかりけり (道元禅師)
この歌は、祖母から教えられた。花の下、月の夜、祖母は
≪ああ、ありがたや≫というようにして、口ずさんでいた。

祖母や母が、特にいくつもの歌や句を知っていたわけではないのだが、
それだけに同じ歌、句を繰り返し聞くことにもなって、
子どもの心にもはいってゆく。
覚えやすい七五調の音律が、自然にものの見方や思い方を教え、
昔の家庭ではそれが教訓にも、しつけにもなっていたのだと思う。』

このあとに、久冨さんの文になっておりました。

「本家に泊まると、朝、大伯父の朗詠する明治天皇の
御製を聞きながら幼い母は目を覚ました。
この時代の人たちがおおかたそうであったように、
大伯父も明治天皇の崇拝者で、伊勢神宮、皇居の遥拝のあと、
仏壇の上の壁にかけてある御真影に向かって
何篇かの御製を朗々と歌い上げる。意味が分からないままに、
母はその心地よい調べをうつつの中で聞いていた。

祖父政右衛門の唯一の楽しみは浄瑠璃で、
夕食後の茶の間で語っていたし、祖母は
毎月の芝居見物でなじんだ台詞を使って躾をする。
・・・・」(~p188)


今泉宜子編「明治神宮戦後復興の軌跡」(鹿島出版会・平成20年)
の最後の方に、ひとつの写真があり、印象深い。写真下には
「明治神宮復興遷座祭の日。
 この日を待ちわびていた多くの参拝者が集まった」とあります。

その写真は、復興なった明治神宮の側から、
賽銭箱の柵の前で、参拝に来られた方々の、
顔顔が写されているのでした。
最前列には、白髪のご婦人方の着物姿が並びます。
待ちわびたような、安堵したようなご老人の方々で、
その後ろにはもう顔顔顔が写りこまれております。
うん。この本の表紙カバーにも、同じ写真が載せてありました。
後ろの門のところから、まだ人が続々とつめかけているのが
わかります。

そうでした。産経新聞(1月4日)の平川祐弘氏の対談に
こんな箇所があったのでした。

平川】 ・・明治天皇の和歌を読みますと、
   神道の気分がよく出ています。明治神宮には、
   月ごとに明治天皇の御製が掲げられており、
   参拝のたび、すばらしくて感心しています。
   おおらかで、王者の風の歌でいいなあと思います。

今泉】 先生は、神道の詩的表現が明治天皇の御製に
    表れているとよくおっしゃいますね。


はい。最後には、掲げられる御製から一首を


   あさみどり澄みわたりたる大空の
           廣きをおのが心ともがな


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今朝(けさ)汲む水は。

2022-01-01 | 地域
今日は、5時半頃に起きだし、
昨年のカレンダーの裏の白紙に、
習字を書き、それを音読して、
それから、水道の水をコップにつぎ飲む。

  今朝汲む水は
  福汲む水
  汲む宝汲む
  命永くの水を汲むかな

はい。それから10~15分歩いて海岸へ。
雲はないのですが、水平線ぎりぎりに
雲が横長にかたまっているので、
日の出の待ち時間がながくなる。
釣り人やサーファーもいる。
堤防に来ている人がふえる。

はい。帰ってから昨日の晩にひきつづき日本酒。
それから、昼まで寝ておりました。

今年がよい年でありますように。

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ここでチェンバレン。

2021-12-18 | 地域
月刊Hanada2022年1月号の平川祐弘氏の連載から、
チェンバレンとハーンを取り上げた箇所を引用。

「明治時代の西洋の日本解釈者は
チェンバレンとハーンが双璧だが・・・」(p351)

「ちなみにチェンバレンは神道を無価値と評し
――これも私にかぎらず違和感を覚える人はいるだろう――
ハーンと対立した。

明治に来日した英米系の日本研究者は、
神道は内容空虚、伊勢神宮は掘立小屋同然、と述べた。

日本人にも『その通り』と同調する人は昔も今もいるだろう。」
(p352)

はい。明治神宮での牧野陽子さんの講演の題名は
『ラフカディオ・ハーンがとらえた神社の姿』でした。
そのハーンを語るまえに、講演のはじまりで
チェンバレンから触れてゆくのでした。
ここには、講演のはじまりの箇所を引用してみます。

「・・神社については、当時の西洋の代表的な意見として、
明治時代の38年間日本に滞在していた英国人バジル・ホール・
チェンバレンが、『日本事物誌』(1890年)のなかで、
以下のように記しています。

 神道の社殿は、原始的な日本の小屋を少し精巧にした形である。
 神社は茅葺の屋根で、作りも単純で、内容は空っぽである。(神道)

伊勢神宮についても、こう述べます。

 観光客がわざわざこの神道の宮を訪ねて得るものがあるかといえば、
 大いに疑わしい。檜の白木、茅葺きの屋根、彫刻もなく、絵もなく、
 神像もない。あるのはとてつもない古さだけだ。(伊勢)

このような神社観は、もちろん、当時の外国人による神道そのもの
の評価と表裏一体をなすもので、再度チェンバレンの記述を引用すると、
このように記されています。

 神道は、仏教が入って来る前の神話や漠然とした祖先崇拝と
 自然崇拝に対して与えられた名前である。しばしば宗教として
 言及されているが、その名に値する資格がほとんどない。
 神道には、まとまった教義もなければ、神聖な書物も、
 道徳規約もない。(神道)

・・・・・このような西洋人の神道観に対して、
ラフカディオ・ハーンは、

『神道の源泉を書物ばかりに求めていてもだめだ、
現実の神道は、書物の中に生きているのではない。
あくまで国民の生活のなか、心の裡に息づいているのだ。』(杵築)

と反論していますが、同時にハーンは、
『神道の本質とは何かという問に明確な答えを与えるのは今なお難しい』
ということも、多くのエッセイのなかで繰り返し述べています。」
(p89~91)

はい。牧野さんは、こうして講演をはじめてゆくのでした。

『あくまで国民の生活のなか、心の裡に息づいている』
とハーンは指摘するのですが、この師走の一日、
お正月に神社に参拝することを思いながら、この言葉を反芻してみます。
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片田舎の森の小さな社(やしろ)。

2021-12-15 | 地域
平川祐弘・牧野陽子著
「神道とは何か 小泉八雲のみた神の国、日本」(錦正社)。
ここから、牧野陽子さんの文を一部紹介することに。

小泉八雲の文を引用しております。

「『人工的な彩色は一切施されていない。
  檜の白木は、雨と陽にさらされ、自然の灰色になる。
  表面がどれだけ外気にさらされたかによって、
  樺(かば)の木の樹皮のような銀色から玄武岩の暗灰色
  にいたるまでの変化をみせる。そのような形と色だから、
  田舎にぽつんと孤立した社(やしろ)は、
  建具師の拵(こしら)えたものというより、
  風景の一部のように見える。岩や木と同じくらい
  自然と結びついた田舎の姿という感じがする。
  この国の古の神である大地神(おおつちのかみ)の顕示  
  として存在するにいたった何かであるように思えるのである。』」

こう引用したあとに、牧野さんが語ります。

「『彩色されない』白木も、その前段の建築様式の描写をみた後では、
技術がないために彩色されないわけではなく、
意図的に選び取られた技法なのだとわかります。

そして『雨』や『陽』にさらされた結果、
木々や岩と同じように景色のなかに溶け込んでいる。

その様はまるで大地の神の顕現のようだとハーンは言います。
長い年月にわたって建物の形の人為性がそぎおとされていき、
やがて神社そのものが自然と一体化したのだ、と。

 ・・・・・・・・・
先にみた、神社の参道にも共通する動きのパターンで、
いわばここにハーンの捉えた神道の要となる大切な考え方を
みてとることができるかもしれません。

そして、ハーンがここで『典型的な神社』としているのは、
『田舎にぽつんとある素朴な神社』です。
伊勢神宮でも出雲大社でもなく、
名所旧跡の立派で堂々たる建物でもない。
全国に無数にある片田舎の名もなき小さな森の御社こそ、
神道の本質を体現しているとハーンは考えました。」
  (p100~101)

はい。『先にみた、神社の参道・・』という箇所が、
ちょっと、気になりますよね。牧野さんのハーンからの
引用をさらにしてみます。

「『数ある日本独特の美しいものの中でも最も美しいのは、 
  参拝のための聖なる高い場所に近づいて行く道である。
  ・・・・・
  登りは、石畳の緩やかな坂道とともに始まる。
  両側には巨木が聳えている。
  一定の間隔をおいて石の魔物が道を守っている。
  ・・・・・
  どこまでも緑陰のなかを上っていく。・・・
  登りつめると、ついに灰色の鳥居の向こうに
  めざすものが現われる。
  小さな、中は空ろの白木造りの社、神道のお宮である。
  ・・・・・」(p94~95)


はい。このハーンの引用のあとに、
ここでも、牧野さんの説明がある。
ですけれども、私の引用はここまで。



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明治神宮で講演。

2021-12-14 | 地域
私は、明治神宮に行ったことがない。

平川祐弘氏の文章は、〈注〉も面白い。
その文章の中で、気になったのは明治神宮の売店でした。

〈注〉 私どもの共著には平川祐弘・牧野陽子著
『神道とは何か――小泉八雲のみた神の国 日本〉
(錦正社、2018年)というバイリンガル版もある。
明治神宮の売店などで求めることが出来る。
これは西洋側の神道理解の中でハーンの解釈を
良しとする見方で書かれた。

(p356「Hanada2022年1月号」)

どうやら、平川・牧野は揃って外国でも発表をしているようです。
この1月号には、こうもありました。

「私たちは外国でも二人続けて発表した。
攻撃的な調子で私が硬派の英語発表をすると、
牧野さんが穏やかな美しい英語で話す。

一番バッター平川、二番バッター牧野のコンビがよかった、
確実に連続ヒットで出塁という感じで、外国人学者からも
一目置かれた。それで各地から声がかったのである。

退屈な発表をされると聴衆が席を立ってしまう。
東大駒場の月例講演会でも一度つまらぬ話をされると、
次回から聴衆が減る。発表の出来不出来は選別せねばならない。
・・・・」(p355)

はい。明治神宮の売店でも売っている、
「日本語と英語で読む 神道とは何か 小泉八雲のみた神の国、日本」
これをひらくと、たしかに(私は英語はダメですが)
一番バッター・二番バッターのコンビの講演は魅力でした。

うん。ここでは、その魅力を再現できないので、
しかたないなあ、牧野陽子さんの「あとがき」の
はじまりを引用しておくことに。

「・・の講演が行われた平成29年6月3日は、
さわやかに晴れわたった美しい日だった。

土曜の昼下がりの明治神宮は参拝の人々で静かに賑わっていたが、
原宿の帰りらしい若者に加えて、外国人観光客の多さが印象的だった。

三々五々連れ立って参道を歩みながら、大きな鳥居を見上げるもの、
神社の杜の大樹の繁みに目をやるもの、中には参道に敷き詰められた
小石の音を確かめるかのように足元をふと眺めるものもいた。

そんな外国人の姿を見ながら、私は子供の頃、八年間の欧米生活
から帰国して両親とともにお詣りしたときのことを思い出した。

境内の樹々のたたずまいに安らぎを覚え、
社殿を囲む深い杜が包み込んでくれるように思えて、
日本に帰ってきたのだと理屈抜きに実感したのだった。
 ・・・・・」(p133)


はい。講演内容は、さらに豊かさに富んでおりました。
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石碑の読み聞かせ。

2021-11-18 | 地域
東日本大震災のあとでした。
そうだ、近所に震災記念碑があったなあ。
そう思って、その石碑の漢字を読んでみたことがあります。
関東大震災の記念碑でした。

その内容を話したことがあったのでした。
それを聞いていてくれた方がありました。
もう10年ほども前になります。今年になってこの11月に
聞いてくれた方が、公民館主催で、地域の石碑めぐりをしたいから、
石碑ガイドをしてみませんかとさそって下さいました。
5基の石碑をめぐる半日の歩きコースです。

はい。触手が動きました。三カ月前に依頼があったので、
町史などをひらいている時間がふえました。
11月10日9時集合12時半解散で、参加者は13名。
他に役員と私を加えると全員で18名。
70歳代の方が多かったのでした。
御夫婦で参加されている方もおられました。
はい。皆さん歩きなれた方で、スムーズに進み
解散が12時になりました。
資料として、20ページほどの解説をコピーして
お渡しして、歩きながら、石碑を説明しながら、
そのプリント冊子一冊分を語ることができました。

終わってみれば、
子どもに絵本の読み聞かせがあるように、
おとなに石碑の読み聞かせをしていたのだと合点しました(笑)。

さてっと、今日起きたら、
うん。わたしのブログを読んでくださっている方に
このプリント冊子を差し上げようと思い浮びました。
期間は11月いっぱい。
欲しい方は、・・・・・・・ へと
メールにご住所をお送りください。
折り返しプリント冊子をお送りします。はい。無料です。

はい。ちなみに、
プリント冊子は、最後の数ページは、参考文献にあて、白黒ですが、
絵や写真もコピーして、それだけで開いても楽しめるようにしました。
あとは、石碑の碑文をたどる読み方を自分なりに工夫してみました。



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大震災と「星の王子さま」。

2021-01-26 | 地域
関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日。
今年は2021年だから、震災後もうすぐ100年。

さて。九鬼周造著「『いき』の構造」(岩波文庫)の
最後の解説は、多田道太郎氏でした。そこを読む。
はい。本文はいまだ未読。
ひとつ気になった数字がありました。

「九鬼周造がヨーロッパにいたのは
1921年(大正10年)から1929年(昭和4年)までである。
 ・・・・・
甲南大学の九鬼文庫には『「いき」の構造』の、
かなり部厚い草稿が保管されている。これをみると、
九鬼周造がこの論文を書きおえたのは
1926年12月、すなわち大正15年、昭和のはじめのときであった。
書きはじめはさだかでないが、まずパリ留学中、それ後期から
書きはじめられたと推定するのが妥当であろう。
本書がパリで書かれた――ということは、強調しておいてよい。」
(p200~201)

はい。多田道太郎氏の解説には、とりたてて、
関東大震災に触れるような言葉はありません。
私といえば、そこに興味をそそられます。

本棚からとりだしたのは、
内藤初穂著「星の王子の影とかたちと」(筑摩書房・2006年)。
「星の王子さま」を訳した父・内藤濯をテーマにした本でした。

そこに、内藤濯氏がパリに留学した箇所があります。
そのパリで、関東大震災の知らせをうける内藤氏。
初穂氏は、濯氏の日記を引用しております。

「9月4日――
『東京横浜大災害の知らせが益々険悪になる。
東京市街は二区を除く外悉く壊滅し、死傷者の数15万に及ぶといふ。
・・・被難者は食に窮して互に掠奪をはじめたともいふ。
新聞記事に誇張があるものとしても、何さま由々しき大事である。
家族親戚知己の上に事なかれかしと切に祈る』
9月5日――
『大災害の報、日を追うて確かになって行く。
大島及び江ノ島の消失が伝へられる。新聞をよむと、
涙がこぼれてならない。気が落ちつかないので、
何も手につかぬ』
9月6日――
『東京の恐ろしい出来事が伝はりだしてから
まだ凡そ3日ほどにしかならないが、
もう10日も経つたやうな気がする。
支那からの電報で、日本の避難民が続々と上海へ
やつてくるといふのがある。
支那人の偽善が見えすいてゐて、さもしく思ふ』

大震災の第一報いらい、父は道行く人々の視線に
暖かなものを実感していたが、この日、宿の主人夫婦が
旅から帰着するなり、固い握手をして、いろいろと日本の様子を
聞いてくれたのが格別に嬉しかった。・・・・」(p226~227)

このあとにも、画家のエピソードなどが続くのですが、
引用はここまで。
そういえば、柳田国男も、この時にヨーロッパにおり、
帰国して民俗学を立ち上げるのでした。
うん。それはどの本で読んだのか?

それはそうと、九鬼周造著「『いき』の構造」は
こういう時期に、パリで書かれたのでした。
はい。私はまだ本文を読んでおりません。
解説でもって、まずは脱線しております。
「『いき』の構造」を、何とか読めますように。

【注記】多田道太郎氏には
安田武氏との対談[「『いき』の構造」を読む](朝日選書)が
あるので、そちらに、関東大震災との関連が書かれているかも
しれないなあ。この本も未読。

うん。柳田国男と関東大震災との関連は、
こちらはテーマとしてよく取り上げられているようです。
興味ぶかいテーマなので、紹介できればいつか、
引用したいと思います。






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主なき家。

2020-12-17 | 地域
コロナ禍に、妻の実家へ毎週水曜日出かけています。
車で、30分ほどの距離にある家は、今は空家なので、
雨戸をあけて、風を通します。
11月からは、植込みの枝切や、草取り。
さいわい、晴れの日が多く。主(あるじ)なき家を
訪れることが毎週のようにあります。
もし、コロナ禍がなければ、私はこんな頻度では
こなかっただろうなあ。そうすると、
コロナ禍が、私には幸いしているということになります。

ブログで読ませていただいている「ひげ爺さんのお散歩日記」
のおかげで、ちっとも覚える気がなかった花の名前を知りました。
「ほととぎす」の花が足元に咲いていたと思ったら、
「つわぶき」の黄色い花が、次に来た時に咲いていました。
畑のまわりの木々の枝をそろえていると、
「さねかずら」の赤い実がところどころにあったり、
つぎに行った際には、「まさき」の実がなっている。
いままで、気にもしなかった草木を、名前とともに知るのでした。

家の中に据え付け本棚の下の引き戸には、切手帳があり、
最初の頃は、スタンプが押された切手の収集帳だったのが、
年賀はがきのお年玉プレゼントの最後の賞の干支の切手が
きちんと収集帳の一冊としてあったり、そのあとからでしょうか
15円切手からはじまって、各種の記念切手がつづきます。
シート購入なので、どんどんとたまっていったようです。
その収集のはじまりと、経過とを切手帳の並び具合で
知ることができます。

妻の両親が住んでいた空家は、
私たちが結婚するすこし前に、新築された家でした。
いまは、空家となりました。こうして行けるのを、
私はコロナ禍に感謝しております。
なぜなら、こんな機会がなかったならば、
私は他の事にかまけていたでしょうから。


コメント (2)
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