思い返すと以前は随分と美術館を見て回ったものです。日本各地の県立美術館も幾つも見ました。
特に山梨県には私の山小屋があるので山梨県立美術館と文学館へは何度も訪れしたました。
そこで今日は山梨県立美術館と文学館をご紹介したいと存じます。
山国の甲府に堂々たる県立美術館と文学館が並んであるのです。内容が充実し、敷地や建物が広大で芸術的に設計、配置されています。野外にはロダンやザッキンや岡本太郎の大作も展示してあります。南アルプスを望むロケーションが素晴らしいのです。感動したので数回訪れました。
1番目の写真は大きな彫刻が並んでいる美術館の前庭です。
この美術館は特に絵画の蒐集方針が立派なのです。ジャン フランソワ・ミレーとバルビゾン派にこだわり、根気よく収集を続けています。ミレーの傑作だけでも20点ほどを収集、展示してあります。
昔のヨーロッパの信仰篤い農民の働く姿が心地良い色彩で描いてあります。展示室内を歩いているとフランスの平和な農村を散歩しているようです。
2番目の写真は山梨県立美術館に展示してある「落ち穂拾い」です。
この「落ち穂拾い」という絵には、地主が貧しい小作人のために落として置いた麦の穂を小作人の妻たちが拾っている様子を描いたものです。昔のヨーロッパでは、地主はこうして小作人を助ける伝統があったのです。何故かせつないような内容の絵ですが静かな絵です。
「落ち穂拾い」は数枚あります。山梨のは構図が少し違いますが完成度の良い傑作です。
3番目の写真は「種まく男」です。1977年に山梨県が落札した絵です。この「種を播く人」の絵には健康そうな農夫の躍動感が描かれています。種播く男の絵は2枚あり、同じ大きさ、同じ構図だそうです。もう一枚はボストン美術館にあります。
この絵に感動したゴッホも同じ構図で描いています。
4番目の写真は「ポーリーヌ・V・オノの肖像」です。この絵は、若くして貧困の中に死んでしまった最初の妻を描いたものです。ポーリーヌへのミレーの深い愛情が絵筆に乗り移ったような勢いで描いています。しかし最後は、ゆっくり丁寧に仕上げています。
美術館内は撮影禁止なので、ここに示した3枚のミレーの絵画はWikipedeaの「ジャン フランソワ・ミレー」の項目からお借りしました。
この美術館には日本人の好きな印象派の絵画は一切ありません。バルビゾン派のジャン フランソワ・ミレーのを主にしいして同じ画風のヨーロッパの絵画が展示してあります。立派な見識です。
さてこの美術館のあるところは芸術の森といい、収集・展示方法の優れた文学館もあり、庭園には数々の彫刻もあり、茶室や日本庭園も見事です。天気の良い日は周りの山々の遠景が一層素晴らしい雰囲気を作っています。
5番目の写真は文学館の全景です。明治、大正、昭和の文学者の直筆原稿や初版本などが作家ゆかりの机、文房具とともに展示してあります。
特に樋口一葉の両親が山梨県甲州市塩山の出身なので、第一室にはゆかりの品々が展示してあります。そして樋口一葉関連のものの収集と展示には圧倒的な情熱が注がれています。そこで以下の紹介では他の文学者については省略して一葉だけについて書きます。
一葉の作品は悲しく、美しく、人間の運命のはかなさが白黒写真に写したように描き出されているのです。
この文学館には「たけくらべ」の始めの部分の朗読がイヤホーンで聞けるブースがあります。下の文章からはじまります。
たけくらべ:
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろどぶの燈火うつる三階の騒ぎも手に取るごとく、・・・」に始まり、結末は「ある霜の朝水仙の作り花を格子門の外より差入れ置きし者のありけり。…信如がなにがしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ。」
(博文館 明治38年15版、一葉全集(家内の蔵書))より。
そのあらすじ:花街に育った少女美登利と僧侶の息子信如の淡い恋物語です。
勝気な少女美登利はゆくゆくは遊女になる運命をもつ。 対して龍華寺僧侶の息子信如は、俗物的な父を恥じる内向的な少年である。美登利と信如は同じ学校に通っているが、あることがきっかけでお互い話し掛けられなくなってしまう。ある日、信如が美登利の家の前を通りかかったとき下駄の鼻緒を切ってしまう。 美登利は信如と気づかずに近付くが、これに気づくと、恥じらいながらも端切れを信如に向かって投げる。だが信如はこれを受け取らず去って行く。美登利は悲しむが、やがて信如が僧侶の学校に入ることを聞く。 その後美登利は寂しい毎日を送るが、ある朝水仙が家の窓に差し込まれているのを見て懐かしく思う。この日信如は僧侶の学校に入った。・・・・
6番目の写真は樋口一葉の写真です。
7番目の写真も文学館の入り口です。井伏鱒二と山梨県出身の有名な俳人の飯田蛇笏の特別展がありますという看板を撮った写真です。
この美術館が常設展示している絵画の一覧表と樋口一葉のことを参考資料につけます。
それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===========================
(1)山梨県立美術館の常設展示絵画目録
(出典は、http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/contents/index.php?option=com_content&task=view&id=336&Itemid=155 です。)
ジャン=フランソワ・ミレーポーリーヌ・V・オノの肖像1841-42頃油彩・麻布73.0×63.0
ジャン=フランソワ・ミレー眠れるお針子 ★ 1844-45 油彩・麻布45.7×38.1
ジャン=フランソワ・ミレーダフニスとクロエ1845頃油彩・麻布82.5×65.0
ジャン=フランソワ・ミレー落ち穂拾い、夏1853 油彩・麻布38.3×29.3
ジャン=フランソワ・ミレー冬(凍えたキューピッド) 1864-65 油彩・麻布205.0×112.0
ジャン=フランソワ・ミレー鶏に餌をやる女1853-56頃油彩・板73.0×53.5
ジャン=フランソワ・ミレー夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い1857-60 油彩・板53.5×71.0
ジャン=フランソワ・ミレー種をまく人1850 油彩・麻布99.7×80.0
ジャン=フランソワ・ミレー無原罪の聖母1858 油彩・麻布77.7×44.8 ㈱相川プレス工業寄贈
ジャン=フランソワ・ミレーヴォージュ山中の牧場風景1868 パステル・紙70.0×95.0
ジャン=フランソワ・ミレー習作3(オーヴェルニュの風景Ⅲ) c.1866-67 鉛筆、黒インク・紙11.7×17.2
ジャン=フランソワ・ミレー習作4(オーヴェルニュの風景Ⅳ) c.1866-67 鉛筆、黒インク、パステル・紙12.1×17.0
ナダールミレーの肖像1868 銀塩写真29.0×22.0
エミール・ロワゾーアトリエでのJ.F.ミレー1855頃黒鉛筆・紙15.8×21.5 飯田祐三氏寄贈
ジャン=フランソワ・ミレー「二人の農婦」の習作c.1853 インク・紙19.6×15.0 田村幸子氏寄贈
ジャン=フランソワ・ミレー落ち穂拾い(第1版) 1855-56 エッチング19.0×25.2 飯田祐三氏寄贈
ジャン=フランソワ・ミレー
(ジャン=バティスト・ミレー版刻)
ランプの下で縫物をする女たち(夜なべ) 1855-56 エッチング15.1×11.0 飯田祐三氏寄贈
風景画の系譜 (クロード・ロラン~バルビゾン派)
クロード・ロラン木を伐り出す人々(川のある風景) 1637頃油彩・麻布79.4×115.6
ヤーコプ・ファン・ライスダールベントハイム城の見える風景1655頃油彩・麻布63.5×68.0
ジョルジュ・ミシェル風車のある風景1820-40頃油彩・麻布60.4×86.5
ジュール・デュプレ森の中-夏の朝1840頃油彩・麻布95.5×76.0
ジュール・デュプレ海景 ★ 1870頃油彩・麻布51.0×63.5
ディアズ・ド・ラ・ペーニャフォンテーヌブローの樫の木(怒れる者) 1862 油彩・麻布71.4×93.5
シャルル=エミール・ジャック森の中の羊の群れ1860頃油彩・板49.0×118.0
コンスタン・トロワイヨン近づく嵐1859 油彩・麻布133.0×145.0
コンスタン・トロワイヨン市日1859 油彩・麻布115.4×175.5
テオドール・ルソーフォンテーヌブローの森のはずれ1866 油彩・麻布76.0×95.0 三枝守雄・佐枝子氏寄贈
テオドール・ルソー樫のある風景不詳油彩・麻布75.0×95.0
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー大農園1860-65頃油彩・麻布55.2×80.8
ギュスターヴ・クールベ嵐の海1865 油彩・麻布54.0×73.0
ギュスターヴ・クールベ川辺の鹿1864頃油彩・麻布73.0×92.0
シャルル=フランソワ・ドービニーオワーズ河の夏の朝1869 油彩・麻布68.6×100.3
アンリ=ジョセフ・アルピニー陽のあたる道 ★ 1875 油彩・麻布49.3×76.2
ヨハン・バルトールト・ヨンキントドルトレヒトの月明かり1872頃油彩・麻布59.5×102.0
ジュリアン・デュプレ牧草の取り入れ1890-95頃油彩・麻布65.1×81.0
ジュール・ブルトン朝 ★ 1888 油彩・麻布
(2)樋口一葉について
樋口 一葉(ひぐち いちよう):1872年5月2日(明治5年3月25日) - 1896年(明治29年)11月23日)は、日本の小説家。東京生れ。本名は夏子、戸籍名は奈津。中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、25歳(数え年、以下同様)で肺結核により死去。『一葉日記』も高い評価を受けている。この1年2ケ月は奇蹟の14ケ月と呼ばれ、日本の近代文学の礎になる作品が生まれたのです。まさしく樋口一葉は薄幸の天才でした。
一葉記念館は彼女が住んでいた下町の住民が戦後に寄付を集めて作りあげました。そのHPを見るとまた泣けてきます。何故か、記念館を作った人々の切々たる気持ちが伝わってくるのです。http://www.taitocity.net/taito/ichiyo/index.html を是非ご覧下さい。