後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館」

2025年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

箱根は東京から2時間以内に行ける観光地です。小田急のロマンスカーだけでなく新幹線の小田原駅乗換えで湯本や強羅に簡単に行けます。湯本から芦ノ湖、仙石原、宮ノ下、大涌谷などなどへは頻繁にバスやケーブルカーが出ていて交通が至極便利に出来ています。勿論、車で行っても便利です。
自然の中の散策が好きなら芦ノ湖畔の遊歩道や仙石原の広大なススキ原があります。そして仙石原には魅力的な湿性植物園があります。
東海道の歴史に興味のある人のためには箱根の関所の建物が精巧に復元されています。往時の杉並木もあります。
芸術の好きな人のためには箱根彫刻の森美術館やポーラ美術館や成川美術館や岡田美術館があります。
ヨーロッパの香りがする工芸品の展示場として箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館もあります。
そして星の王子さまミュージアムもあります。
これら全てをご紹介するわけにはいきませんので、今日は気楽に楽しめる箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館だけを簡単にご紹介したいと思います。

この2つは近くにあります。共にヨーロッパの工芸品が展示してあります。敷地全体に散在する建物が古いヨーロッパの街のような雰囲気をかもしだしているのです。古い町を散歩しながら昔の工芸品を見て楽しめるのです。
箱根ガラスの森美術館はヴェネチアのガラス工芸の美を集めた美術館です。なにか世紀末の退廃への道行きを暗示するような展示物が丁寧に蒐集されてあります。
以前訪れた時の写真でまず箱根ガラスの森美術館の風景写真をお送りいたします。

1番目の写真は箱根ガラスの森美術館の園内の風景をカフェの階段の上から撮った風景です。向かいの建物はヨーロッパのガラス細工のお土産店です。

2番目の写真は園内の散歩道を3人の家族連れが楽しそうに歩いている風景です。

3番目の写真は園内にあるヴェネチアのガラス工芸品の展示場の建物です。

4番目の写真はヴェネチアのガラス工芸品の展示場の内部の様子です。愚妻が楽しそうにしています。

次に箱根ラリック美術館をご紹介します。
ルネ・ラリックは20世紀初頭に活躍したフランスのガラス工芸家です。
日常使うガラス食器や花瓶から装身具、室内装飾用のガラス壁の彫刻など、その作品は多種多様です。そのどれもが藝術性を感じさせます。
それらの作品を集めたのが箱根ラリック美術館です。
その上、ルネ・ラリック・ミュージアムにはオリエント急行の車両もあります。
ルネ・ラリックが作った室内の装飾用のガラス壁が見事です。その壁や電燈の笠を展示するために車両ごと日本へ運んで来たのです。
車両内ではコーヒー・紅茶とケーキを楽しみながら寛げます。1929年製の車両でパリとニースの間を1990年まで走っていた車両です。毎月1回はトルコのイスタンブールまで行っていたそうです。
この一輌だけを輸入して船で運んで来ました。下に、サロンカーの写真をお送り致します。

5番目の写真はパリとニースの間を1990年まで走っていた車両です。
鉄道ファンには興味深い車両ではないでしょうか?

6番目の写真はサロンカーの内部です。室内の部屋を仕切る壁にはめ込んだすりガラスの板がラリックの作品です。

7番目の写真はこの車両で使われていた食器です。座席に座り注文するとこんな感じの食器で紅茶とケーキが出て来ます。アガサ・クリスティの映画、「オリエント急行殺人事件」の場面を思い出しながらゆっくり紅茶を喫します。

8番目の写真は手持ちの信号灯です。中にランプの火を入れた当時の実用品です。

このように19世紀末から20世紀初頭にかかてのヨーロッパの文化を楽しめるのが箱根ラリック美術館なのです。
ヨーロッパの香りがする箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館の両方を見ることをお薦めします。2つは近くにある美術館です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「山梨県立美術館をご紹介致します」

2025年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム
思い返すと以前は随分と美術館を見て回ったものです。日本各地の県立美術館も幾つも見ました。
特に山梨県には私の山小屋があるので山梨県立美術館と文学館へは何度も訪れしたました。
そこで今日は山梨県立美術館と文学館をご紹介したいと存じます。
山国の甲府に堂々たる県立美術館と文学館が並んであるのです。内容が充実し、敷地や建物が広大で芸術的に設計、配置されています。野外にはロダンやザッキンや岡本太郎の大作も展示してあります。南アルプスを望むロケーションが素晴らしいのです。感動したので数回訪れました。
1番目の写真は大きな彫刻が並んでいる美術館の前庭です。
この美術館は特に絵画の蒐集方針が立派なのです。ジャン フランソワ・ミレーとバルビゾン派にこだわり、根気よく収集を続けています。ミレーの傑作だけでも20点ほどを収集、展示してあります。
昔のヨーロッパの信仰篤い農民の働く姿が心地良い色彩で描いてあります。展示室内を歩いているとフランスの平和な農村を散歩しているようです。
2番目の写真は山梨県立美術館に展示してある「落ち穂拾い」です。
この「落ち穂拾い」という絵には、地主が貧しい小作人のために落として置いた麦の穂を小作人の妻たちが拾っている様子を描いたものです。昔のヨーロッパでは、地主はこうして小作人を助ける伝統があったのです。何故かせつないような内容の絵ですが静かな絵です。
「落ち穂拾い」は数枚あります。山梨のは構図が少し違いますが完成度の良い傑作です。
3番目の写真は「種まく男」です。1977年に山梨県が落札した絵です。この「種を播く人」の絵には健康そうな農夫の躍動感が描かれています。種播く男の絵は2枚あり、同じ大きさ、同じ構図だそうです。もう一枚はボストン美術館にあります。
この絵に感動したゴッホも同じ構図で描いています。
4番目の写真は「ポーリーヌ・V・オノの肖像」です。この絵は、若くして貧困の中に死んでしまった最初の妻を描いたものです。ポーリーヌへのミレーの深い愛情が絵筆に乗り移ったような勢いで描いています。しかし最後は、ゆっくり丁寧に仕上げています。
美術館内は撮影禁止なので、ここに示した3枚のミレーの絵画はWikipedeaの「ジャン フランソワ・ミレー」の項目からお借りしました。

この美術館には日本人の好きな印象派の絵画は一切ありません。バルビゾン派のジャン フランソワ・ミレーのを主にしいして同じ画風のヨーロッパの絵画が展示してあります。立派な見識です。

さてこの美術館のあるところは芸術の森といい、収集・展示方法の優れた文学館もあり、庭園には数々の彫刻もあり、茶室や日本庭園も見事です。天気の良い日は周りの山々の遠景が一層素晴らしい雰囲気を作っています。
5番目の写真は文学館の全景です。明治、大正、昭和の文学者の直筆原稿や初版本などが作家ゆかりの机、文房具とともに展示してあります。
特に樋口一葉の両親が山梨県甲州市塩山の出身なので、第一室にはゆかりの品々が展示してあります。そして樋口一葉関連のものの収集と展示には圧倒的な情熱が注がれています。そこで以下の紹介では他の文学者については省略して一葉だけについて書きます。
一葉の作品は悲しく、美しく、人間の運命のはかなさが白黒写真に写したように描き出されているのです。
この文学館には「たけくらべ」の始めの部分の朗読がイヤホーンで聞けるブースがあります。下の文章からはじまります。
たけくらべ:
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろどぶの燈火うつる三階の騒ぎも手に取るごとく、・・・」に始まり、結末は「ある霜の朝水仙の作り花を格子門の外より差入れ置きし者のありけり。…信如がなにがしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ。」
(博文館 明治38年15版、一葉全集(家内の蔵書))より。
そのあらすじ:花街に育った少女美登利と僧侶の息子信如の淡い恋物語です。
勝気な少女美登利はゆくゆくは遊女になる運命をもつ。 対して龍華寺僧侶の息子信如は、俗物的な父を恥じる内向的な少年である。美登利と信如は同じ学校に通っているが、あることがきっかけでお互い話し掛けられなくなってしまう。ある日、信如が美登利の家の前を通りかかったとき下駄の鼻緒を切ってしまう。 美登利は信如と気づかずに近付くが、これに気づくと、恥じらいながらも端切れを信如に向かって投げる。だが信如はこれを受け取らず去って行く。美登利は悲しむが、やがて信如が僧侶の学校に入ることを聞く。 その後美登利は寂しい毎日を送るが、ある朝水仙が家の窓に差し込まれているのを見て懐かしく思う。この日信如は僧侶の学校に入った。・・・・
6番目の写真は樋口一葉の写真です。
7番目の写真も文学館の入り口です。井伏鱒二と山梨県出身の有名な俳人の飯田蛇笏の特別展がありますという看板を撮った写真です。

この美術館が常設展示している絵画の一覧表と樋口一葉のことを参考資料につけます。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===========================
(1)山梨県立美術館の常設展示絵画目録
(出典は、http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/contents/index.php?option=com_content&task=view&id=336&Itemid=155 です。)
ジャン=フランソワ・ミレーポーリーヌ・V・オノの肖像1841-42頃油彩・麻布73.0×63.0
ジャン=フランソワ・ミレー眠れるお針子 ★ 1844-45 油彩・麻布45.7×38.1
ジャン=フランソワ・ミレーダフニスとクロエ1845頃油彩・麻布82.5×65.0
ジャン=フランソワ・ミレー落ち穂拾い、夏1853 油彩・麻布38.3×29.3
ジャン=フランソワ・ミレー冬(凍えたキューピッド) 1864-65 油彩・麻布205.0×112.0
ジャン=フランソワ・ミレー鶏に餌をやる女1853-56頃油彩・板73.0×53.5
ジャン=フランソワ・ミレー夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い1857-60 油彩・板53.5×71.0
ジャン=フランソワ・ミレー種をまく人1850 油彩・麻布99.7×80.0
ジャン=フランソワ・ミレー無原罪の聖母1858 油彩・麻布77.7×44.8 ㈱相川プレス工業寄贈
ジャン=フランソワ・ミレーヴォージュ山中の牧場風景1868 パステル・紙70.0×95.0
ジャン=フランソワ・ミレー習作3(オーヴェルニュの風景Ⅲ) c.1866-67 鉛筆、黒インク・紙11.7×17.2
ジャン=フランソワ・ミレー習作4(オーヴェルニュの風景Ⅳ) c.1866-67 鉛筆、黒インク、パステル・紙12.1×17.0
ナダールミレーの肖像1868 銀塩写真29.0×22.0
エミール・ロワゾーアトリエでのJ.F.ミレー1855頃黒鉛筆・紙15.8×21.5 飯田祐三氏寄贈
ジャン=フランソワ・ミレー「二人の農婦」の習作c.1853 インク・紙19.6×15.0 田村幸子氏寄贈
ジャン=フランソワ・ミレー落ち穂拾い(第1版) 1855-56 エッチング19.0×25.2 飯田祐三氏寄贈
ジャン=フランソワ・ミレー
(ジャン=バティスト・ミレー版刻)
ランプの下で縫物をする女たち(夜なべ) 1855-56 エッチング15.1×11.0 飯田祐三氏寄贈

風景画の系譜 (クロード・ロラン~バルビゾン派)
クロード・ロラン木を伐り出す人々(川のある風景) 1637頃油彩・麻布79.4×115.6
ヤーコプ・ファン・ライスダールベントハイム城の見える風景1655頃油彩・麻布63.5×68.0
ジョルジュ・ミシェル風車のある風景1820-40頃油彩・麻布60.4×86.5
ジュール・デュプレ森の中-夏の朝1840頃油彩・麻布95.5×76.0
ジュール・デュプレ海景 ★ 1870頃油彩・麻布51.0×63.5
ディアズ・ド・ラ・ペーニャフォンテーヌブローの樫の木(怒れる者) 1862 油彩・麻布71.4×93.5
シャルル=エミール・ジャック森の中の羊の群れ1860頃油彩・板49.0×118.0
コンスタン・トロワイヨン近づく嵐1859 油彩・麻布133.0×145.0
コンスタン・トロワイヨン市日1859 油彩・麻布115.4×175.5
テオドール・ルソーフォンテーヌブローの森のはずれ1866 油彩・麻布76.0×95.0 三枝守雄・佐枝子氏寄贈
テオドール・ルソー樫のある風景不詳油彩・麻布75.0×95.0
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー大農園1860-65頃油彩・麻布55.2×80.8
ギュスターヴ・クールベ嵐の海1865 油彩・麻布54.0×73.0
ギュスターヴ・クールベ川辺の鹿1864頃油彩・麻布73.0×92.0
シャルル=フランソワ・ドービニーオワーズ河の夏の朝1869 油彩・麻布68.6×100.3
アンリ=ジョセフ・アルピニー陽のあたる道 ★ 1875 油彩・麻布49.3×76.2
ヨハン・バルトールト・ヨンキントドルトレヒトの月明かり1872頃油彩・麻布59.5×102.0
ジュリアン・デュプレ牧草の取り入れ1890-95頃油彩・麻布65.1×81.0
ジュール・ブルトン朝 ★ 1888 油彩・麻布

(2)樋口一葉について
樋口 一葉(ひぐち いちよう):1872年5月2日(明治5年3月25日) - 1896年(明治29年)11月23日)は、日本の小説家。東京生れ。本名は夏子、戸籍名は奈津。中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、25歳(数え年、以下同様)で肺結核により死去。『一葉日記』も高い評価を受けている。この1年2ケ月は奇蹟の14ケ月と呼ばれ、日本の近代文学の礎になる作品が生まれたのです。まさしく樋口一葉は薄幸の天才でした。
一葉記念館は彼女が住んでいた下町の住民が戦後に寄付を集めて作りあげました。そのHPを見るとまた泣けてきます。何故か、記念館を作った人々の切々たる気持ちが伝わってくるのです。http://www.taitocity.net/taito/ichiyo/index.html を是非ご覧下さい。

「霧が流れる美ヶ原高原美術館の野外展示の大きな彫刻」

2025年02月25日 | ブログ
美ヶ原高原美術館は遥かに遠い天空の上の野外展示の美術館です。標高は2004mです。4万坪の屋外展示場に350点あまりの現代造形作品を常設展示しています。
1981年6月に、「箱根・彫刻の森美術館」の姉妹館として開館しました。(〒386-0507 長野県上田市武石上本入美ヶ原高原 )
この彫刻群を楽しむため一番重要なことは天気予報を注意深くしらべ、寒い雪の日、強風の日、猛暑の日は行かないようにします。
私達が訪れたのは2008年の8月5日でした。霧が流れ、幻想的な日でした。
高原の丘一面に遊歩道がひろがり世界中の作品が展示されています。すべて野外で鑑賞するために創られた大きな作品です。
美ヶ原高原美術館と箱根の彫刻の森美術館と比較すると感動のスケールの大きさは美ケ原の方が勝っています。
それでは早速、7枚の写真で霧が流れる美ヶ原高原美術館の展示作品の写真をお送りいたします。
美ヶ原高原美術館の詳細は、https://www.utsukushi-oam.jp/mp/gaiyou に出ています。
ここに示した写真の造形作品の説明板の写真は霧のため撮れませんでした。
しかし全ての展示作品のリストは、展示作品一覧、https://www.utsukushi-oam.jp/search/ にあります。
展示作品の説明は、https://www.utsukushi-oam.jp/mp/sakuhin にあります。

さて箱根の彫刻の森美術館と美ヶ原高原美術館は「彫刻の森芸術文化財団」によって建設され運営されています。
財団は、「ひろく一般に彫刻芸術に接する機会を提供するとともに、彫刻芸術の振興普及をはかり、わが国芸術文化の向上発展に寄与すること」を目的に掲げ、昭和43(1968)年9月6日、財団法人彫刻の森美術館として発足いたしました。
そして、彫刻の森美術館の開設における建設資金協賛社は国内企業173 社が出資して翌昭和44(1969)年8月1日、日本で初めての彫刻専門の野外美術館として開館しました。
財団の設立はフジテレビジョン、産経新聞社、ニッポン放送を中核とするフジサンケイグループによるもので、初代館長は故鹿内信隆(1911-1990)でした。
その後、昭和56(1981)年に長野県上田市に姉妹館・美ヶ原高原美術館を開設します。作品収蔵では内外の近代彫刻の名品群に加え、造形芸術の公募展や企画展を通じて作品収集を図って来ました。

美ヶ原高原美術館は遥かに遠い場所にありますが車で行くと途中の風景を楽しめます。中央高速で諏訪湖まで行きます。そこから白樺湖に上ります。白樺湖からは車山、霧ヶ峰、美ヶ原へと高原ずたいに風景絶佳のドライブが楽しめるのです。

皆様もこの天空の野外展示の美術館を一度訪れてはいかがでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の経済急成長の後の立身出世主義の消滅と価値観の変化」

2025年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は第二次大戦後に復興期があり、続いて経済の高度成長期があり、そのGDPが世界で2位になりました。
この日本の高度成長を支えてきたのは欧米の技術を導入した工業技術の進歩によるものでした。
この高度成長にはいろいろな要因があります。政府の経済政策、資金調達に関する法律の整備、工業団地の設置、アメリカ式の経営と品質管理方法の導入などなど多数の要因の相乗効果で経済の高度成長が起きたと考えられます。
そしていろいろな分野で優秀な人材が集まらなければなりません。その中で重要なものの一つは、優秀な技術者を集めることです。そしてそれを育てる大学の工学部の学生が熱心に勉強することが非常に重要です。
日本の復興期と高度成長期の工学部の学生は猛烈に勉強をしたものです。大学を卒業して会社に就職した後も、技術者は職場で熱心に勉強会を開催して欧米の技術書を原語で読むことをしていました。兎に角、工学部の学生はよく勉強しました。工場の技術者達も職務時間の後も会社に残って欧米の専門書を読み、輪読会もしていたのです。そんな時代があったのです。
ところが現在に日本では大学生は勉強しなくなりました。技術者も自分の分野の必要最小限以上の勉強をしなくなりました。
1990年前後のバブル経済の崩壊によって多くの日本人の価値観が大きく変わってしまったのです。
一言で言えば、「経済成長よりも人間性を豊かに生きることがより重要だ!」という価値観に転換したのです。
人生にとって生活を維持するためのお金は必要です。しかしボランティア活動をしたり趣味を楽しむ余裕を持ちながら自分らしい一生を送ることが一番幸福だと考えるようになったのです。結婚しないで自由に自分の独自の一生を送る人もいます。
高度成長期まで日本の社会にあった立身出世主義が消えてしまったのです。現在は東京大学や京都大学の卒業生で吉本興業に入ってお笑いタレントになる人もいます。
昔は大会社に入社して出世競争に勝つことが世の中の尊敬を集めました。中小企業は大会社の傘下に隷属し、縦社会を作っていたのです。
その産業構造が高度成長の基盤にあったのです。それが1990年前後にもろくも崩れたのです。
縦社会の崩壊は産業構造だけでなく社会のいろいろな分野で起きました。
その結果、価値観が大きく変化してしまったのです。
「経済成長よりも自分らしく生きることがより重要だ」という価値観です。
すると会社で働いている人は転勤を嫌がります。残業続きで会社に縛られることを嫌がります。そこで転職が多くまります。自分らしい会社を探して転職します。転勤や残業が嫌なので非正規職員になります。
これでは日本に再び経済の高度成長がやって来ることは絶対にありません。ある筈が無いのです。
経済成長で得たものの最大なものは日本人の人間性が非常に良くなったことです。特に若い日本人は素晴らしい人間性を持つようになったのです。
現在の若い日本人は親切で優和で上品なのです。そうでないと反対する高齢者がときどきいますが、それは自分の心が貧しいだけです。
私は毎週一回、4時間ほどあるリハビリ施設に通っています。そこのスタッフは30歳代の男女ですす。いろいろな運動器具を使います。
全身のストレッチをしてくれます。ボールやゴムバンドを用いた奇妙な運動もします。そしてその合間、合間に盛んに話しかけるのです。高齢者の口の筋肉の劣化を予防するのです。
その話し言葉が綺麗な日本語なのです。彼等は皆人柄が良いのです。親切で優和で上品なのです。彼等は高齢者だから親切にしているのではありません。相手が人間だからなのです。それはスタッフ同士の会話を聞いているよ分かります。嗚呼、日本人も変わったものだと心豊かになります。

箱根の彫刻の森を見ながら戦後の日本の変化を考えました。今日の挿絵代わりの写真は家内が撮った彫刻の森の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は「彫刻の森」に入場してすぐにある芝生の広場です。西洋の有名な近代彫刻家の作品が点々と展示されています。このような展示場が山の斜面を上手に利用して、他にも数ケ所あります。そしてピカソの作品だけを展示した「ピカソ館」やステンドグラスの塔や特別展示をしている本館ギャラリーもあります。その全体をご紹介するわけにいきませんので、下に私が気に入った6点の近代彫刻の写真を示します。

2番目の写真はイギリス人のヘンリ-・ムーア(1898年ー1986年)の1970年作の「横たえる像:アーチ状の足」というブロンズ彫刻です。

3番目の写真はフランス人のエミール・アントワーヌ・ブールデル(1861年ー1929年)の1918年から1922年作の巨大なブロンズ彫刻です。右から「雄弁ー大」、「自由ー大」、「勝利ー大」、「力ー大」という題の彫刻です。

4番目の写真は同じくフランス人のエミール・アントワーヌ・ブールデル(1861年ー1929年)の1909年作の「弓をひくヘラクレス」と題するブロンズ彫刻です。

5番目の写真はスウェーデン人のカール・ミレス(1875年ー1955年)の1949年作の「人とペガサス」という題のブロンズ彫刻です。