後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「午後の散歩は小金井駅前の広場まで」

2025年02月24日 | 日記
青空です。午後の散歩は小金井駅前の広場までの往復です。日差しは明るいのですが冷たい風が吹いてました。途中にある上野原公園でも子供の写真を撮りました。

1番目の写真と2番目の写真は小金井駅前の南側の広場です。
3番目の写真と4番目の写真は上野原公園です。
 

「ドイツの美しい花園」

2025年02月24日 | 写真
ドイツの花と言っても特に特徴がないように見えます。オランダの花卉栽培農家が品種改良した園芸種を情熱的に窓枠に植えたり庭に植えています。
ドイツ人は花を飾ることに対して強い情熱を持っています。彼等は何事に対しても徹底的にするのです。お墓にもいつも色鮮やかな花々を飾っています。
ドイツ文化の長所でもあり怖さでもあります。
南ドイツに家族と共に住んでいました。子供は小学校とキンダーガルテンに通っていました。週末には近郊へのドライブを習慣にしていました。
冬の間一面雪に覆われていた地面が復活祭の頃一気に春の兆しを見せます。牧場地帯や麦畑の農村地帯を車で走っていると一面の菜の花に遭遇したり、黄色いレンギョウの茂みを見つけたりします。
そして5月になるとサクランボの花が青い空にピンクに輝いています。リンゴの花も咲いています。コクリコやバターカップも緑の野原に鮮やかな彩りを加えています。
牧歌的という言葉がありますが、ドイツの農村は教会の尖塔が遠方に見え、花々が咲いていて実に心のなごむところです。
以下の写真の出典は、https://tabicoffret.com/article/2299/ です。

「ドイツを荒廃させた30年戦争の凄惨さ」

2025年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム
ある民族の歴史はそこに住んでみないと本当には判らないものです。
1969年から1970年にかけて一年余、ドイツのローテンブルグとシュツットガルトに家族と共に住んだことがありました。
そこで私は「30年戦争」のことを初めて聞きました。私が知らなかった大戦争です。
この「30年戦争」はドイツだけでなく全ヨーロッパを荒廃させた大戦争でした。
しかし日本の学校ではこの30年戦争の事は殆ど教えません。日本の学校教育の欠落知識です。
 
今日はこの「30年戦争」のことをご紹介したいと思います。
「30年戦争」のことはドイツ人からさんざん聞かされました。ドイツ人の歴史にとって「30年戦争」は日本人の「関ヶ原の戦い」のように大変重要な戦争だったのです。そのことが、住んでみて、はじめて身に沁みて理解出来ました。
例えば「アルト・ハイデルベルグ」という恋物語で有名なハイデルベルグ城に行くと、ガイドがこの城は「30年戦争」であちこちが破壊されました。その傷跡はこれですと城壁の壊れた部分を指さすのです。
1番目の写真は三十年戦争の爪痕が残っている ハイデルベルク城です。写真の出典は、(http://gensun.org/?img=tabidachi%2Eana%2Eco%2Ejp%2Fstorage%2Fphoto%2F978%2F179901_2%2Ejpg)です。

働いていた研究所のドイツ人達と一緒にビールを飲みます。酔ってくると彼らは、決まって何かを大声で議論を始めるのです。何を議論しているか聞いてみると、「30年戦争」のことだと言います。「30年戦争」の何を議論しているのかと聞くと、「敵味方が複雑に入り組んでいてドイツ人にしか分からない問題を議論している」と答えます。そして、「実はドイツ人にもよく分からないのです」と自笑しています。日本の「応仁の乱」を思い出しました。
帰国後、折りにふれて「30年戦争」のことを少しずつ調べました。
簡単に言ってしまえばその戦争は宗教改革の後の1618年から30年続いた戦争です。当時のドイツ人の総人口1800万人が700万人に減少し、国土を荒廃させた大戦争だったのです。
それでは誰が誰と戦ったのでしょうか?それが判然としないのです。
勇気を出して簡略化して書けば以下のようになります。
ウイーンのハプスブルグ家の支配下にあったカトリック側の神聖ローマ帝国(当時のドイツの国名)とそれに反発するドイツ国内のプロテスタン領主達の反乱と言えます。
しかしこれはこの戦争のほんの一面に過ぎません。実態は宗教戦争を装った領主たちの領土拡大と権益拡大を主目的にしたおどろおどろしい戦争でした。
それにスウェーデン、ノルウエイ、フランス、デンマーク、スペインなどの国々も参加し、領土拡大を狙った国際戦争でもあったのです。
この戦争は、道義もルールも皆無な傭兵が主体で行われました。
この傭兵たちがドイツの農民を殺し、略奪をしつくしたのです。ドイツ全土が傭兵たちによって荒廃させられたのです。
そして戦争には残虐も付きものです。各地で木の枝に吊るした死体があったそうです。
人間の領土欲、権力欲、殺戮欲などの低次元な欲望が恥も外聞もなく発揮された戦争でした。ですから私はこれを、「ヨーロッパ文化の闇」の一つと言うのです。
末尾に少しだけ参考資料を付けました。
 
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料=========================

The_hanging_by_jacques_callot1
2番目の写真は三十年戦争時の虐殺を描いたジャック・カロによる版画『戦争の惨禍』(1632年)です。
 
三十年戦争は名前の通り30年間絶え間なく続いたのではなく、数ヶ月から2年程度の小康状態を挟んで断続的に続いたのです。当時はほとんどの軍が長期間統制しにくい傭兵によって賄われており、国王直属の常設軍隊は稀であったからです。しかし、戦争が長引くとインターバルの期間は次第に短くなり、三十年戦争の最終段階では13年間にもわたる戦闘が繰り広げられたのです。

この戦争は4つの段階に分類することができ、後になるほど凄惨さを増していった。この4段階にわたる戦争はそれぞれハプスブルク帝国に対抗する勢力ないしは国家の名前をとって下記のように呼ばれている。

  • 第1段階:ボヘミア・プファルツ戦争(1618年 - 1623年)
  • 第2段階:デンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625年 - 1629年)
  • 第3段階:スウェーデン戦争(1630年 - 1635年)
  • 第4段階:フランス・スウェーデン戦争(1635年 - 1648年)
三十年戦争は新教派(プロテスタント)とカトリックとの間で展開された宗教戦争と捉えられることが多いが、それはこの戦争の単なる一側面に過ぎない。
この戦争が単なる宗派対立による宗教戦争ではないことは、戦争勃発当初から明らかであった。
衝突した勢力:
新教徒勢力
スウェーデンの旗 スウェーデン (1630?)
フランス王国の旗 フランス王国(1635?)
デンマークの旗 デンマーク=ノルウェー (1625?1629)
ボヘミアの旗 ボヘミア王国 (1618-1620)
ネーデルラント連邦共和国の旗 ネーデルラント連邦共和国
ザクセン選帝侯領の旗 ザクセン選帝侯領
Flag of The Electoral Palatinate (1604).svg プファルツ選帝侯領 (-1623)
Brandenburg Wappen.svg ブランデンブルク=プロイセン
Coat of Arms of Brunswick-Lüneburg.svg ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領
イングランド王国の旗 イングランド王国 (1625-30)
Flag of Transylvania before 1918.svg トランシルヴァニア公国
反ハプスブルク家諸勢力
 
ローマ・カトリック勢力 (ハプスブルグ家側)
( Catholic League (Germany).svg カトリック連盟 ハプスブルク君主国の旗 オーストリア大公国 ボヘミアの旗 ボヘミア王国 (1620-) )
スペインの旗 スペイン帝国
Flag of the Habsburg Monarchy.svg 王領ハンガリー
Flag of the Kingdom of Croatia (Habsburg).svg クロアチア王国
デンマークの旗 デンマーク=ノルウェー (1643?1645)
   
 

「驚いたドイツ人の趣味、大きな電気機関車を所有する趣味」

2025年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム
近代国家は個人を尊重し、個人の自由を守る社会で出来ています。個人の権利を可能なかぎり拡大し、保護する社会です。
欧米で暮らした経験のある日本人はしみじみと「嗚呼、日本は まだまだだ!」と思い知ることに何度も遭遇します。
今日は大きな電気機関車を所有し運転する趣味を持っているドイツ人をご紹介したいと思います。
蒸気機関車を一人で運転するのは難しいものですが、電気機関車なら一人で運転する趣味ができそうです。
そんな究極の趣味を楽しんでいる女の人がドイツにいるのです。バーバラ・ピルヒさんという当時51歳の女性です。

1番目の写真はバーバラさんが個人所有していた電気機関車に似たドイツの電気機関車の写真です。
バーバラさんが持っている電気機関車は1944年製で158-2という番号が付いた機関車です。2008年にドイツ鉄道という大会社から購入しました。
何時もはドイツ鉄道のある駅のレールを借りて、そこに停めています。
そしてドイツ鉄道の委託契約に従って貨物列車を牽引してドイツ中を走り回ります。
それが彼女の趣味なのです。
日本では考えられない趣味です。
それがドイツでは何故可能なのでしょうか?
簡単に言えばドイツでは個人を尊重し、個人の権利と自由を可能な限り尊重する社会だからです。
その上にバーバラさんは以前にドイツ鉄道の機関士だったのです。大会社で働くより個人の機関士として自由に走りたいと思い、2001年に会社を辞めフリーの機関士として独立したのです。
そして2008年にはドイツ鉄道から1944年製の電気機関車を一台購入したのです。
ドイツ鉄道はバーバラさんの貨物列車の正確な牽引技術を信頼して、貨物列車の牽引輸送を契約によって発注しているのです。
バーバラさんはただ走り回るだけが趣味ではありません。この1944年製の古い電気機関車を保守、管理し将来、鉄道遺産として博物館に動態展示されるように情熱を注いでいるのです。
以上は2018年2月20日の読売新聞の朝刊の「マイ機関車、独走」という記事の抜粋です。 なおバーバラさんが実際に運転している動画は下記に出ています。
http://kageno53.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/br194-7ffb.html
クリックしてご覧下さい。

この記事はいろいろな事を考えさせます。
近代国家では個人を尊重し、個人の権利と自由を可能な限り尊重する社会から成り立っています。
この記事を見ると日本はまだまだ個人の権利と自由が制限されている社会なのだと新ためて認識されます。
日本では列車の牽引は個人に任せては危険だと考えます。そして個人の権利を自己規制してしまうのです。
個人を信頼しないのです。
日本では危険な場所には看板が立っていて、「立ち入り禁止」と大きく書いてあります。
ドイツの看板は、「危険!入るなら自己責任」と書いてあります。ドイツでは危険な場所に入るのは自由なのです。日本では入るなと命令しているのです。

さてドイツの機関士は自分の子供を運転室に乗せても良いという規則もあります。
昔、ドイツに住んでいた時、運転室に子供が乗った列車と何度も行き違い、吃驚しました。
ドイツでは機関士は職人社会のマイスターなのです。親方なのですす。マイスターは苦しい遍歴徒弟の時代を経てやっとなれるのです。したがってマイスターにはそれなりの特権があります。子供を運転室に乗せるのには、そんな伝統的な背景があるのでしょう。
そしてドイツの職人社会では子供が親の仕事を継ぐことが尊重されます。
今日ご紹介した電気機関車を個人所有しているバーバラさんの父親も機関士だったのです。こんな背景もあって電気機関車の個人所有が可能だったと考えられます。
同じ近代国家と言っても日本とドイツの社会の相違の大きさに驚いています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ヨーロッパの悲惨な戦災とマックス・プランク研究所の思い出」

2025年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム
第二次世界大戦でヨーロッパの大都市はドイツ軍によって徹底的に破壊されました。その荒廃した都市の写真をご覧下さい。
1番目の写真はドイツ軍によって破壊されたソ連のミンクス市です。写真はインターネットからお借りしました。
2番目の写真はドイツ軍の空襲下のロンドンです。
3番目の写真はドイツ軍によって破壊されたチェルブルクです。
ドイツでは 1945年4月30日ヒトラー自殺し、 1945年5月7日ドイツが西側の連合国軍に降伏しました。 1945年5月9日にはドイツがソ連に降伏して第二次世界大戦が終わりました。
各国の戦死者数はソ連の1450万人が図抜けて多く、ドイツの280万人がこれに次いで多くなっています。中東欧のオーストリア、ポーランド、ルーマニアも、それぞれ40~85万人と多かったのです。
第二次世界大戦は歴史上もっとも大規模にヨーロッパ諸国を荒廃させたのです。ヨーロッパの悲惨な戦災です。
さて私のドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。
マックスプランク研究所で得た体験を書きます。研究所の写真を示します。
4番目の写真はあるマックス・プランク研究所です。写真は幾つもあるマックスプランク研究所の一つです。いろいろな分野のマックス・プランク研究所がドイツの各地に散在しているのです。
私は以前のアメリカ在住の影響もあり、共産党の中国は嫌いでした。また、第二次大戦中の中国を「支那」と蔑視する文化の中で育ちましたので、中国に対しては内心深く軽蔑していました。
しかし、マックスプランク研究所である専門書を共同執筆したプルシュケル氏の言葉が私の考えを根底から変えたのでした。
「日本人は中国人を軽蔑しているが、ドイツ人は中国を軽蔑している日本人を信用も尊敬もしないよ。もっと東洋と西洋の文化と相互交流の歴史を考えて、東洋の利益を考えるべきと思う」
プルシュケル氏は東ドイツにある村に住んでいました。ロシア軍が侵入した時に村人は皆殺しに遭い、1人だけ生き延びて西ドイツに逃げ、研究所の主任研究員になった人です。
このような男が「日本人は中国人と信頼関係を維持したほうがよい」と言うので、深く考え直すキッカケになりました。
その後、1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学院の周栄章教授に会った時、この話をしました。周氏との出会いが後に中国へ行くキッカケになりました。周栄章さんは2004年に亡くなりました。
中国の首相、周恩来が死んだ時、中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止しました。1981年に北京に行った私に周栄章さんが声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。このようにしてドイツ人のプルシュケル氏の話しをキッカケにして私の中国人との深い交流が始まったのです。ドイツ人のプルシュケル氏が私の浅薄な考え方を変えたのです。

それにしてもドイツ人は第二次大戦で悲惨な体験をしたものです。その原因はヒットラーの野望でした。ロシアに深く攻め込んで2000万人ものロシア人を殺したのです。

平和な21世紀に感謝しています。感謝こそが平和を守る礎なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========================
マックス・プランク協会 - Wikipedia より、

世界最高峰の学術研究機関であり、前身のカイザー・ヴィルヘルム協会時代も含め、37人のノーベル賞受賞者を輩出している(2021年10月現在)。84の独立したマックス・プランク研究所(Max-Planck-Institut)を傘下に収める。 

マックス・プランク協会の研究対象は、下記の3分野に大別される。
  • 生物・医学分野
  • 化学・物理学・工学分野
  • 精神科学・社会学・人間科学分野
年間予算は18億ユーロ。連邦政府および州政府の公的資金で賄われている。マックス・プランク協会は戦前のカイザー・ヴィルヘルム協会の後継機関であり、高名な物理学者であるマックス・プランクに因んで名付けられた。
マックス・プランク協会は、84の独立したマックス・プランク研究所(Max-Planck-Institut)を傘下に収める。
著名なマックス・プランク研究所にはアインシュタインが所長を務めたマックス・プランク物理学研究所などがある。