後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「仙台の愛宕中学校の友人たちの思い出」

2025年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台の愛宕中学校の友人たちの思い出を書きたいと思います。私は愛宕中学校をを1951年に卒業しました。
それそれから61年目の2012年10月に仙台市愛宕中学校の第二回生の同窓会が秋保温泉でありました。私は卒業以来61年目に初めて仙台の同窓会に出席しました。 若くして仙台を出てアメリカへ留学した私はそれ以来61年間仙台の中学校の同窓会へは不義理を重ねてきました。 今回をもって最後にしますという案内状に誘われて出席しました。61年目に再会した懐かしい友人が皆笑顔で迎えてくれたのです。2回生は全部で350人でした。その折に幹事が配った名簿に物故者の名簿がありました。分かっているだけでも既に76名もの人が旅立っていたのです。 その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。亡くなったことも知らなかった私でした。長い間疎遠にしていた私のお詫びとして以下の追悼文をお送りいたします。

 まず萩生田啓一君へ私の疎遠をお詫びします。君の家にはしょっちゅう遊びに行き優しい母上に随分とお世話になりました。北海道炭鉱に勤めていた父上にも親切にして貰いました。お霊屋下の奥の方に家があり近所に住んでいた宮内量君ともよく一緒に遊んだものです。 君が大学卒後、七十七銀行に入り、その得意先まわりの折に私の大学の実験室を訪ねてくれたことがありました。新しい職場に張り切っている様子でした。それが君に会った最後になりました。性格の優しい君に会えると期待しつつ同窓会に行きました。旅立ったことも知らなかった私をお許し下さい。

 内海範夫君。君は長身で知的な少年でした。 今回の大津波で流された宮城県の名取市の閖上港町から汽車通学していたので心配していました。同窓会に出ていた友人に君の事を聞きました。石巻日赤病院に医者として定年まで勤めていたそうですね。定年後、実家のあった閖上港町に帰って暫くして病気で亡くなったそうですね。ですから大津波が来る前だったのです。幸いだったのかも知れませんが何故か悲しいです。

 有路敏夫君。君の家は愛宕神社の山の中腹にありました。 何度も遊びに行きましたね。君は小柄な体に機敏そうな顔をしていました。よく走り回って遊んでいましたね。勉強は苦手だったようですがいつも数多くの友人が君の周りにいました。友達のめんどう見が良かったですね。何故か君のパーソナリティーが魅力的だったのです。今回の同窓会で多くの人が君の事を懐かしそうに話してくれました。 

我孫子遜君。美声でよくイタリア歌曲を歌って聞かせてくれましたね。 満州からの引き揚げで、都会的な雰囲気をまき散らしていましたね。 大学を卒業してからすぐに東京で一緒に飲みましたが、その後、君が証券会社で忙しくなり会えなくなりました。そして若くして病死したのです。その頃のことをよく知っている友人が同窓会で君の華やかな活躍ぶりを話してくれました。それにしても若すぎる死でした。君は実に印象深い人でした。 

村木良彦君。きみは10年以上前に亡くなり東京の増上寺でお葬式があり私もでました。 テレビマンユニオンを創り、テレビの有名な番組を沢山つくりましたね。 仙台時代は君の東八番町の家によく遊びに行きました。肺を病んでいた上品な母親がいましたね。中学校と高校では一緒に演劇部でよく遊んだものです。君はその後東京大学に入りました。そのころ訪ねて行った私へ大井町駅のそばでトンカツをご馳走してくれました。 仙台はまだ貧しい時代だったのでトンカツなど食べたことも無かったのです。あの美味しさを忘れません。それにしてもテレビ界では有名なプロデューサーとして活躍しましたね。このブログでも君の追悼文を前に掲載しましたよ。 

早坂清作君。君は喧嘩が強かったですね。 その君が何時も非力な私を守ってくれましたね。どういう訳か君は僕の保護者のようになってくれていました。貧しい時代で、世の中は殺伐としていました。学校でも喧嘩が絶えませんでした。現在のよう陰湿ないじめはありませんでしたが鉄拳がものを言う時代でした。 そんな学校で喧嘩の強い君が守ってくれたおかげで大変心強かったです。そのお礼を何時か言おうと思いつつ今回同窓会へ行ったのです。でも君は既に旅立ってしまっていたのです。 早坂清作君、私を守ってくれて有り難う。そのことは一生忘れないよ。

その他いろいろ追悼したい友だちが沢山いますが、この辺で止めます。 今日は既に亡くなってしまった76人の愛宕中学二回生のご冥福をお祈り致します。 そして亡くなったことも知らないもっと多くの愛宕中学校の2回生の方々の冥福をお祈りいたします。どうぞこの私の長い間の不義理をお許し下さい。 

1番目の写真は愛宕橋の上から広瀬川の下流を見た風景です。はるか向こうに宮沢橋が見えています。 そして2012年の10月14日に秋保温泉で一泊の同窓会があったのです。そして皆、77歳の喜寿になったので、今回をもって最後の同窓会にするというのです。 幹事長は懐かしい杉下成美君です。野球やバレーボールが上手だった彼の顔を鮮明に記憶しています。 私はこの最後の同窓会に出席してきました。 
2番目の写真は2012年の10月14日に秋保温泉で一泊の同窓会の出席者です。
今日は「愛宕中学校の友人たちの思い出」をお送り致しました。





「年老いて懐かしい仙台一高のこと」

2025年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム
年老いて懐かしく思うのは昔卒業した仙台一高でのいろいなことです。
私は昭和26に宮城県立仙台第一高等学校へ入学しました。先生たちはみな旧制の仙台一中の先生でした。新制高校が出来て2年目なので旧制の中学の先生がそのまま残ったのです。自由で民主的な仙台市立愛宕中学校から古い雰囲気の宮城県立の仙台一高に入ったのです。
印象的だったのは漢文とドイツ語の授業でした。旧制の中学の漢文の先生がいろいろな漢詩を朗々と謳います。ドイツ語の先生はリルケの詩をドイツ語で暗唱します。英語の先生はサマセット・モームの小説の原文を読ませます。
仙台第一高等学校の授業ははそういうものでした。
生徒たちは宮城県全域から集まった秀才です。旧制の教育はそういうものでした。
思い出の深いものは数々のクラブ活動でした。野蛮な応援歌の練習でした。
旧制の仙台第一中学校と仙台第二中学校の野球の試合は古くからの伝統だったのです。野蛮な応援歌の練習はそのためだったのです。
クラブ活動で海水浴場に近いある別荘に泊まり込んで毎日泳ぎました。上級生が厳しかったので辛い思いをしました。
クラブ活動として木工部に入りました。ところがそのクラブでは木工はせずに、松島湾でカッターを漕いだのです。カッターだけでなく細い艇身のスライデイングやフィックスを漕いだのです。スライデイングとは座席が前後に動く競走用のボートで、フィックスは座席が動きません。スライデイングやフィックスは東北大学の漕艇部から借りて来ました。東北大学の漕艇部はオリンピック出場めざしてスライデイングやフィックスを漕いだのです。
クラブ活動としての木工部では蔵王山にも登りました。中腹にテントを張り寒い夜を過ごしました。
仙台第一高等学校の校風は質実剛健でした。その質実剛健が懐かしいです。

今日は旧制の中学校のような仙台一高の思い出を書きました。

添付の写真は松島の風景と細い艇身のスライデイングやフィックスです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「老人になると昔の高校時代の友人がやたら懐かしく思う」

2025年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム
老人になると昔のことがやたら懐かしく思うものです。
今日は高校時代の友人の思い出を書きたいと思います。面白くないと思いますが、まあ一読してみてください。
私は仙台一高を卒業しました。その高校時代に2人の友人がいましいた。
一人の友人は野田君と言いました。彼はフルートを吹いていました。戦後のバラック建ての暗い彼の家の中で何度か美しいフルートの音色を聞かせてくれました。ガランとして貧しそうな家の中に澄んだフルートの音が響き渡ります。母子家庭だった彼の母は働いていたので家にはいつも誰もいませんでした。
フルートの曲目を聞くとバッハの「トッカータとフーガ」だと言います。
野田君は色の白い小柄な少年でした。無口で控え目な性格でした。その野田君とは高校卒業以来二度と会えません。消息不明なのです。
どんな人生を送ったのでしょうか。「トッカータとフーガ」のオルガン曲を聞くたびに野田君の事を思い出します。暗いバラック建ての家に響いたフルートの音をありありと思い出すのです。

もうひとりの友人は皆川君です。彼はフランスの象徴詩を読んでいました。当時大学生のあいだに流行っていた象徴詩です。彼は私に装丁の立派な象徴詩の本を一冊手渡して読んで見ろと言います。そしてその本を友情のしるしとして贈呈すると言うのです。そんなキザな言い方が似合ったハイカラな雰囲気の少年でした。
彼は私に象徴詩を読む楽しさを教えようとしたのでしょう。彼の赤みがかった髪がちぢれていてロシア人のような風貌をしていました。背丈も高くなんとなくヨーロッパ文化を連想させる雰囲気を持っていました。
高校卒業以来消息が分かりません。私の本棚には彼のくれた装丁の立派な象徴詩の本が一冊長い間残っていました。この記事を書くために2階の書棚を丁寧に見ましたが、このフランスの象徴詩集はもう見つかりませんでた。
時々この本の事を思い出し、彼の人生安らかなれと祈っています。

こうして老境に高校時代のことをもう一度考えなおして見ると、それは自分にとって楽しい青春の一こまだったことに気がついたのです。
別離の悲しみも思い出しますが、その別離も懐かしい美しい思い出になりました。

今日の挿し絵代わりの写真は大好きな箱根の彫刻の森で撮った風景写真です。このような彫刻の間をゆっくり散歩しながら野田君と皆川君のことを思い出していたのです。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)