@銃を持つ自由と代償
オハイオの州都コロンバスでよく行ったバーでは、インディアンの男がバーテンダーをしていた。日本人と同じような風貌ということもあって親しくなり、あるときピストルの話になった。カウンターの下からピストルを出して「悪い奴はこれでズドンだ」。「チョット見せてくれ」と私。「今、弾を抜くから待ってくれ」と言って、リボルバーを器用に回しながら弾を抜いて渡してくれる。ずしりと冷たい銃が手を押し下げる。
「こんな物を持っているから銃による犯罪が多いのだ。禁止できないの?」「銃を持つ自由はアメリカ人の基本的な権利である」「麻薬の自由もあるの?」「麻薬は健康によくないので禁止している。しかし、どんな薬でも飲む自由は原則的には個人の権利だ」「日本ではピストル保持は禁止で、銃による犯罪は非常に少ない」「そんな国では、ほかの色々が規制も多いに違いない」
ピストルや銃を禁止すべきだと言うと、ほとんどのアメリカ人は反対する。自由には大きな代償が伴うと断言して、それ以上議論は発展しない。銃は大型ショッピングセンターの釣り用具、狩猟用具売り場に無造作に陳列してある。釣りのための入漁券を買いに行くと、ライフル銃を買って狩猟を始めないかとしばしば勧誘された。
@原爆投下を正当化
ビールの飲み会ではどんな話題でも自由である。ただ感情的になるのだけはご法度。アメリカ人の同僚に「原爆は残酷な兵器なのに、なぜ広島や長崎へ落としたのか?」と問う。多くのアメリカ人同様、友人の教授は「早く終戦にさせて日本人の無駄な戦死を防ぐためだった」と答える。
「それにしても放射能被害は残酷ではないか?」「それは戦争が悪い。開戦宣言なしに真珠湾を攻撃し戦争を始めたことが元凶だ」
大部分のアメリカ人は「真珠湾攻撃した日本は広島と長崎でその代償を払うのが当然」と信じている。この牢固たる信念を変えることができない。開戦を事前にアメリカ政府に通告したという歴史的事実を説明しても無駄である。個人的には親切でニコニコ明るいアメリカ人同僚がこの話題では考えを変えない。
アメリカ人には熱心なキリスト教徒が多い。この同僚もそうである。しかし、長崎のカトリック教会の真上に原爆が落ちたということは知らなかった。多くのアメリカ人はそれを知らない。話すと沈黙する。しばらくして「この話題はもう止めよう」と言った。
その後、この同僚と真珠湾攻撃と原爆投下の話はしなくなった。しかし、親切な態度にはなんの変化もなかった。
戦争になれば宗教は無力になる。ドイツの町の中心には必ず大きな教会がある。その石壁や扉の上の方を見ると、機関銃の弾痕が点々と残っている。ハンブルグ、ニュルンベルグ、ベルリンのような大都市の教会はほとんど損害を受けている。
アメリカ空軍による無差別絨緞(じゅうたん)爆撃は、教会も軍需工場も民家も差別しない。大浦の天主堂だけ助けるという発想を期待するのは無駄である。