◎旅人のもてなしはサウナで
北国のスウェーデンを旅すると、荒涼とした風景に夏でも心身ともに冷える。そんな旅人をもてなすのは熱いサウナである。昔からの習慣と聞く。1972年秋、ストックホルム工科大学へ三ケ月間行った折、大学のゲスト用サウナへ二度ほど招待された。
サウナは、極北の香り高い白木で内装されている。隣に談笑する部屋が付いていて、同じ白木のテーブルと椅子があり、酒を飲みながら裸で談笑する。
酒は雑穀を発酵させ蒸留した透明な強い酒。ロシアのウオッカや中国東北地方の白酒に似ている。この蒸留酒に、学生が自宅の裏庭で摘んできたラズベリーやコケ桃の実の汁を入れて風味を付け、大きなボールに入れる。それを木製の大さじで各自グラスに取る。
つまみはバルト海で捕れる小形のロブスターを真っ赤にゆでたもの。それだけである。
サウナに入る作法は、まず全員一斉に裸になる。脱衣室を兼ねている談笑部屋の隅にある籠に脱いだ衣服を入れ、バスタオルを持って入る。熱すぎると叫ぶ者、もっと熱くしようと焼け石に水を掛ける者の笑い声で大騒ぎになる。十分暖まったら談笑する部屋に出て、酒を飲み、ロブスターを割り、勝手な話をする。
よく出た話題はドイツ人の悪口であった。忘れられない話として、バルト海三国の悲劇的な話があった。
@バルト3国の悲劇
スウェーデンの対岸、バルト海の東岸にかつて三つの独立国があった。エストニア、ラトビア、リトアニアである。1917年、ロシア革命が成功すると、ソ連に吸収されてしまう。1940年、ドイツ軍の電撃作戦で三国は蹂躙(じゅうりん)され、その北のレニングラード郊外までドイツ軍は攻め込んだ。
多くの難民が出る。しかし三国住民はソ連もドイツも嫌いだ。逃げる先はフィンランド、スウェーデン、ノルウエー、さらに遠く北米や南米へ。
サウナで酒を酌み交わし談笑した学生の中に、エストニアから逃げて来た学生が二人いた。当時は冷戦が厳しい状況を示し、ソ連が間もなくフィンランド国境を突破し、バルト海を渡って攻めて来るとのうわさが流れていた。
スウェーデンに来ると、ソ連の脅威が肌で感じられる。しかし、楽観的な学生はNATO軍の守りが堅いので心配ないと主張していた。こんな議論の中、エストニアの二学生は沈黙を守り、最後に一言「バルト三国は必ず独立する。そうしたら帰国する」とつぶやいた。
1989年、ゴルバチョフ書記長のおかげでベルリンの壁が壊され、やがてバルト三国はそろって独立した。その後消息は伝わってこないが、あの二人はエストニアへ帰ったと信じている。
歴史の展開は予想を超える。第一次、第二次の両大戦でその強度で有名になったスウェーデン鋼は世界の鉄鋼技術の手本になっていた。
1972年晩秋、北極圏にあるキルナ市のスウェーデン鋼の会社を訪問した。そのころ、スウェーデン鋼の技術は日本にも普及し、キルナの会社は斜陽になっていた。豪華なゲストハウスは森閑とし、お客は筆者一人。マホガニーで内装された食堂で夕食を摂っていると、中年のウェイトレスが入って来て「私はこれで帰りますが、食事が終わったら食卓はそのままにして、サウナへ是非入っておやすみください」と言う。
サウナは一段と立派である。前室には、ピンク色の強い酒とライ麦の粉を煎餅のように焼いたものがチーズともに皿に乗っている。旅人へサウナを提供するのがスウェーデンの誇らしい伝統であることが分かる。豊かな気持ちになって眠りにつく。(終わり)
沖縄に行かれた由、小生も一昨年夏に行きました、何も暑い時期にと思いますが、耐暑訓練みたいなものです。でもやはり沖縄は本土(この言い方はまずいのかも)とは何かにつけて違う様に思いました。ある意味エキゾティックなところもあり、もう一度来て見たいとも思いました。でも南部で巡った「平和の礎」とか「ひめゆりの塔」をみるにつけ、沖縄が如何に戦争の辛酸を舐めたか、県民が如何に大きな犠牲を払ったのかが、痛いほど解りました。今平和ボケしてのほほんと暮らしている我々は大いに反省すべきと思いました。「偽」の世の中なんてどう言うことなのですかね。
投稿 zebra1192 | 2007/12/23 18:15