異国の魅力とそこに住み着く人々(1)私とハンガリー
シリーズ記事「異国の魅力とそこに住み着く人々」を始めるにあたって:
ブログやSNSなどのインターネットで知り合った方々の生き方に興味を持ち、メールの交換をしたりお会いしたりしています。
異国の風土や人間そして文化にひかれ、ながく住み着いている個性的な人々を紹介する目的で今回このシリーズ記事を始めました。
第一回目の記事ではハンガリーに住んでいる盛田常夫さんを取り上げました。(盛田さんは、ハンガリーから内容豊かな日本語のHPを発表しています。http://morita.tateyama.hu )
ハンガリーは日本ではあまり知られていない国です。そこで何故ハンガリーに住み着くことになったのでしょうか?と聞きました。間もなく、「人生の節目と友人たち」という長文の随筆を添付してメールが返ってきました。抜粋をブログへ掲載する許可も頂きました。
読みやすくするために小見出しをつけ、目次も作りました。文章には手を入れていませんが、長くなりすぎるので一部省略してあります。
目次に従って何処からでも読めます。でも盛田常夫さんの香高い文章のとりこになり全部読むことになるかも知れません。
目次:
1、厳寒のハンガリー空港へ独り降り立つ
2、でも以前にハンガリーに来ていた
3、東京にある高岡市の学生寮での思い出
4、2年間のハンガリー留学
5、最初のハンガリー漂着から10年後、再びハンガリーに住み着いてしまう
6、大使館で親しかったある外交官の死
7、遥かにハンガリーで知った草柳文恵さんの自殺
8、草柳文恵さんのハンガリーでの思い出
9、逝く人々への思い
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1、厳寒のハンガリー空港へ独り降り立つ
初めてフェリヘジ空港へ降りたのがちょうど30年前の1978年12月19日。まだ31歳だった。ハンガリーのことなど何ひとつ知らずに、大学の喧噪から逃れようと、文部省の交換給費生の資格をとって留学した先が、たまたまハンガリーだった。本当のところ、どこでも良かった。赴任した法政大学の無法状態とも言える騒乱から身を引き、静かな場所で読書三昧したいというのが本音だった。ほとんど人気のない、寂れた田舎の空港に足を入れ、どこか間違った世界に降り立ったのではないかという錯覚に襲われたのを覚えている。
2、でも以前にハンガリーに来ていた
今から振り返えると、この地域に縁があったようだ。これに遡ること10年。1968年、大学3年時の夏、21歳になる直前に300名を超す日本の大きな代表団の英語の通訳として、ソ連とブルガリア、ルーマニアに旅行した。1カ月ほどの旅行を終え、新潟沖に戻ったところで、ソ連軍(ワルシャワ条約軍)のプラハ侵攻のニュースがラジオから流れた。その当時はまさか将来、この地域に関係して仕事をすることになるとは想像もしなかった。この年の初めからヨーロッパでは学生運動が盛り上がっていたが、日本でも秋から大きな喧噪・騒擾状態に入った。1968年はプラハ侵入やヴェトナム戦争激化で反戦運動が高まっただけでなく、世界各地で大学生が大学や街頭で大騒動を起こし始めた年として知られる。1969年1月初めの東大紛争の終結からこの年一杯まで、日本の多くの大学で休校状態が続いた。このあおりで東大入試が中止となる異常事態も生じた。
3、東京にある高岡市の学生寮での思い出
当時、私は郷里の富山県高岡市が設立した学生寮に住んでいた。国際基督教大学のゴルフ場に隣接する土地に、富山の田舎町が学生寮を所有していた。毎朝、ゴルフ場を小走りに横切りながら授業を受けに行くのだが、いつも遅刻して、アメリカ人教師にもう1回遅刻すればE(落第)だと脅されたものだ。
この学生寮は1学年10名程度の所帯で、住人のほとんどが高岡高校出身者だった。多摩地区の大学だけでなく、都内のいろいろな大学に通っていた。だから、大学の情報はいろいろ集まってきた。
国際基督教大学は2度の長期休校で、4年の在学期間中、実質3年しか大学に通っていない。大学卒業が1970年5月で、一橋大学大学院入学が1970年4月という履歴になっている。紛争当時は東大駒場キャンパスに通い、名物教授の授業を聞いて歩いた。りに旧交を温めた。
4、2年間のハンガリー留学
話は1978年12月に戻るが、冬のハンガリーは暗かった。到着してすぐにクリスマスになったが、すべての店が閉まってしまったのに驚いた。とにかく物がない時代である。ようやく探したレストランで「ステーキ」という文字を見つけたので注文したら、生のひき肉が出てきたので困ってしまったのを覚えている。しかし、春がきて明るい日差しを受けるようになると、それまでの暗い印象が一変した。英語と日本語の専門書を50冊も持参して、それを片っ端から読むつもりだったが、それでは面白くないと思い始め、辞書を片手にハンガリー語の専門書を訳し始めた。ハンガリーには国際的に知られる数理経済学者が何人かおり、そのうちの一人がコルナイ・ヤーノシュだった。留学当時、コルナイに関心はなかったが、留学が終わる頃に、後にセンセーションを巻き起こす「不足の経済学」(Economics of Shortage)が出版された。
5、最初のハンガリー漂着から10年後、再びハンガリーに住み着いてしまう
1980年に留学を終えて大学にもどったが、最初のハンガリー漂着から10年経た1988年8月に、再び長期滞在することになった。カーダールが引退し、ハンガリー共産党(社会主義労働者党)に大きな変化の兆しが見られるというので、在ハンガリー大使館で最初の専門調査員として赴任することになった。当時のM大使は変わり者で、「俺が頼んできてもらったわけではない。本省が勝手に送り込んだ人材だ。大学の先生など、大使館には要らないから、俺は知らない」という態度で、無視を決め込んでいた。もっとも、無視された方が気楽で、直属の部下にあたる公使初め、館員全員の方は繰り返される大使の横暴に困っていた。
6、大使館で親しかったある外交官の死
その後、渡辺伸さんはアルジェリア大使時代にすい臓がんが見つかり、若くしてお亡くなりになった。学究肌で真面目な渡辺公使のことは今でも忘れられない。渡辺さんの方が私よりもはるかに学者らしかった。
7、遥かにハンガリーで知った草柳文恵さんの自殺
2008年9月初め、インターネットのニュースを見て仰天した。草柳文恵さんが自殺したという。それも高層マンションのベランダから首を吊ったというのである。そういえば最近はメディアに出ていないとは思っていたが。乳癌で苦しんでいたというが、発作的な自殺は薬の所為ではないだろうか。
8、草柳文恵さんのハンガリーでの思い出
北海道テレビの東欧取材で文恵さんがハンガリーを訪れたのは1989年10月。もう記憶が確かではないが、何かの伝で日本の制作会社から私に電話がかかってきて、取材のアテンドを頼むということだった。文恵さんは故草柳大蔵氏の長女で、青山学院の学生時代にミス東京に選ばれた才媛である。どれほどの才女なのか興味があった。ところが、ハンガリーに到着した翌日、彼女は腰痛で動けなくなった。痛風発作の症状によく似ていたが、とりあえずテレビクルーは街の取材に出掛け、私は彼女をレザー光線によるハリ治療に連れて行くことになった。
数日の短い時間だったが、楽しい時間を過ごさせてもらった。快活ではっきりした口調の物言いは今でも耳に残っている。その後、何度か電話で話をしたり、手紙をいただいたりした。まことに見事な達筆であった。私は専門調査員の仕事を終えた後、しばらくして大学を辞職し、ハンガリーに舞い戻ったので、連絡が途絶えてしまった。私が知っているあの文恵さんが自殺なんかするわけはないと思う。骨太で大柄な彼女の体が、骨と皮だけになっていたという記事も読んだ。闘病生活が苦しかったのか、人生が終わったと考えたのか。それにしても、あのような発作的な行為は薬の所為ではなのか。年老いて娘に先立たれた母上の心情を察すると、言葉もない。
9、逝く人々への思い
父母や年長の友人が次々に世を去っていくだけでなく、私よりも若い才女たちも急ぐように去っていく。これから追悼のことばを認める機会が増えていくことだけは間違いない。合掌。