後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

エマージェンシー・ラダーの実験成功

2009年01月13日 | うんちく・小ネタ

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海上でヨットの舵が壊れてしまったら、どのようにして港まで帰ってくるのでしょうか?Hootaさんはセイルのトリミングを上手に調整すると帰れると教えてくれました。実際にして見るとかなり難しい技術と分かりました。そこで緊急用の舵を手製で作りました。先日、実際に船上で使ってみました。舵を船体にしっかり取り付ける必要があることが分かりました。

そこで太い角材の先に舵を固定し、角材を船尾にロープでしっかり結びました。

今日は快晴でしたので霞ヶ浦へヨットを出して実験しました。手製の舵だけで港を出て、4ノットの速度で大回りに回頭し、また港の中へ帰ってきました。舵棒の握りの所にエクセテンション用の細い角材を付けたので、使い易くなりました。

これなら遠方から港まで帰って来れると思いました。実験後は係留して、2本のバックステイの間から舵を抜き取って、キャビン後方に仕舞い込みました。

Hootaさんのお陰で面白い遊びが出来ました。今日はついでにエンジンオイルを交換して来ました。ヨットの趣味では冬の間はペンキを塗ったり、エンジンの調整をしたりして係留したまま遊びます。(終わり)

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多摩の横山に、万葉時代と同じ風景を探す

2009年01月13日 | 写真

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多摩の横山という名前は万葉集の中の歌に出てくる。

「赤駒を山野にはかし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」

――宇遅部黒女―万葉集・巻20-4417―――

(意味:山野に放牧していた馬をどうしても捕まえることが出来なかったので、出征する夫を徒歩で出発させてしまった。尚、蛇足ながら巻20には数多くの防人にちなんだ歌がある

この歌は武蔵の国の防人(さきもり)の妻の歌である。武蔵の防人は、まず府中にあった国府に集合し、多摩川を南岸へ渡り、相模の国の国府があった現在の平塚市へ向かった。その道筋は現在の多摩市にある山々の南北に連なる尾根の上にあった。見晴らしの良い道である。

従って万葉集の歌にある多摩の横山とは府中から多摩川を渡り、相模の国へ出る途中の山々のことである。

現在、この尾根道は遊歩道として整備されている。この遊歩道を歩いて見ると、西には相模平野の向こうに丹沢の山並、その後ろに高く聳える富士山がよく見える。その右方向に目を転ずると武蔵の国が広がり、遠方に奥多摩の山々、さらに右奥には秩父の山が見渡せる。雑木林の尾根道は見える山々の風景から自分の歩いている位置が容易に分かる。

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ここに示した3枚の写真は1月11日午後に筆者が独り散策しながら撮った写真である。1300年前の万葉集の出来たころと同じ風景を撮ろうとして遠くにある高圧線や自動車道路が写らないようにした。

出征兵士は平塚から箱根を越えて、数十日、やっと難波の港へ出て船旅で九州の防備へ行く。一旦武蔵の国を出ると何年も故郷へ帰れない。疫病にかかって死んでしまう者も多いという。多摩の横山を歩いている間は暗澹たる気持ちだったに違いない。その暗い気持ちを表すように逆光を用い暗い写真にした。

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なお、多摩の横山のルートマップはhttp://www.ur-net.go.jp/tama/yokoyama/ にある。

(終わり)


涙を流しながらコントラバスを弾く上海の老ジャズマン

2009年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム

1982年、上海の旧租界にある酒場でジャズ演奏を聴いた。文化革命という内戦が終わりやっと平和がきて6年。下方と称し、遠くの農村へ追いやられていた知識人や芸術家がやっと、もとの職場へ帰って来た。それにしても大編成のジャズバンドである。

酒場の中央のフロアではゆっくりしたスウィングジャズに合わせて観光客がダンスをしている。アメリカの観光客らしい。

隣の席で、2、3人の女性が大声で話している。聞くともなしに聞いているとオハイオ州の農村から来た一行のようだ。20年前の昔、オハイオの大学にいたので、つい懐かしく話かけて見た。先方は喜んでいろいろ話始める。そのうちフロアの方を指してダンスをしようと言う。ダンスは苦手だが、ままよ!と立ち上がる。スローな曲なのでなんとか誤魔化していると、彼女が大きな声で無邪気に言う、「閉鎖的な共産主義中国も、ついに開放政策をとったのですね。冷戦でアメリカが勝利したからです。」

その勝利のお陰で昔の租界のバンドへこうして帰ってきたと言わんばかりである。

中国へ来て、そのような話題は避けたほうが礼儀と、ニガニガしく思いながらダンスを続ける。次第に演奏中のバンドに近づく。見ると後ろのほうでコントラバスを弾いている老楽士の皺よった顔がジャズに酔って輝いている。死ぬまでジャズは演奏出来ないと諦めて農村で辛い日々を過ごしてきたに違いない。それが多くの観光客の前で大編成のバンドを組み昔の仲間と一緒に演奏している。よく見ると黒っぽい頬の上に一筋の涙が静かに流れている。文革の間に餓死した仲間のことや辛いことを思い出しているのかも知れない。溢れる喜びと底知れぬ深い悲しみの両方を表している涙なのだろう。

改めてバンドの全メンバーの顔を注意深く見る。泣きながら 演演しているのはコントラバスの老楽士だけである。しかし皆の顔が「喜び」と「悲しみ」の両方で感慨深そうな表情をしている。ダンスを一緒にしている相手はそんなことを想像しない。あくまでも陽気に踊っている。

それからは、ジャズの生演奏を聴くたびに上海の酒場で見た年老いたジャズマンを思い出す。頬に流れる一筋の涙を思い出す。(終わり)