後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

暗い雨の日はこんな写真をみて気を晴らしています

2009年01月09日 | 写真

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今日の東京は寒い暗い雨の日です。山梨の山林の小屋の回りは雪が積もっているようです。根雪になるのでしょう。

こんな日は晴天の下でヨットを快走させている写真を眺めて気分を明るくしています。右前方からの風を2枚のセールに受け快走しています。クローズホールドという帆走術です。岩壁から家内が撮ってくれました。昨年のある秋の日のことです。

現役で仕事のお忙しい方々にとってはお天気のことを考える暇もありません。羨ましいような気もします。でも悠々自適の境地も良いような気もします。

明日は全国的に晴天になるという予報です。つまらない話をして恐縮でです。

(終わり)


亡き人々が心の中で生きている、その(4)ゴッドファーザーへの追憶

2009年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

30年以上前、アメリカ映画の名作といわれる「ゴッドファーザー」が公開された。映画音楽も哀愁にみち、美しいメロディーなので有名になる。家族を愛し、友人を信じるイタリア系マフィヤの親分の悲しみと怒りを描いた名作である。

ゴッドファーザーとはカトリックの洗礼を受けるときの後見人であり、洗礼を受ける人が男なら代父、女なら代母という。従ってゴッドファーザーとはこの代父のことである。

私のゴッドファーザーは山本大二郎先生である。家内のゴッドマザーは教会で神父様の生活の世話をしていらした荒垣さんの奥様がして下さった。

1972年にカトリック立川教会で塚本金明神父様から洗礼を受けた。

代父なって頂いた山本大二郎先生はある有名な大学の化学の教授であった。1975年までの3年間、立川教会で日曜日毎に会いした。いつも変わらぬ温顔で、「お元気ですか?」とお声をかけて下さる。

1975年、小金井にも教会が出来て立川へは行かなくなる。しかしそれから30年近く年賀状を頂いた。年賀状には毎年必ず多摩山地の珍しい山野草の花の写真がついている。デジカメも無い時代で年賀状に写真をつける人は居なかった。少なくとも私へくる年賀状では唯一枚だけである。毎年その年賀状を頂くのが楽しみで、家内と一緒によく話をした。もう亡くなって何年にもなるが、私の心の中には山本先生のニコニコとしたお顔が生きて住んでいる。

おる時、カトリック小金井教会へ新しい主任司祭様が赴任した。私のゴッドファーザーの山本大二郎先生のご子息の山本量太郎神父さんである。毎日曜、神父様の説教を聞きながら代父のことを追想している。

家内の代母の夫の新垣氏は沖縄出身のカトリックで、作曲の才がある。カトリックの本部へ転勤になったあとは数多くの作曲をし、宗教音楽の活動をしている。日曜日毎に歌われる聖歌のなかに時々新垣さんの作った曲が混じっている。歌うたびに立川でお会いした若々しく、新婚夫婦のようだった夫妻の様子を思い出す。住みついた心の中では人間は年を取らない。

小学校、中学校、高校の先生方、大学で研究の指導をしてくれた恩師、あるいは職場で親身のお世話を頂いた恩人たち。皆、この小さな心の中に住み着いている。

今日は宗教の世界での恩人についてご紹介致しました。(続く)


異国の魅力とそこに住み着く人々(2)タイ、ネパールのとりこになって25年

2009年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

この私のブログではバンコックとカトマンズに家をもって25年以上住んでいるHikarunoさんのことを何度もご紹介してきました。アジアのいろいろな言葉に通じ、観光客の行かないような市井に住んで、人々の哀歓を描いた文章が素晴らしいのです。

経済的には決して恵まれていない人々の心の豊かさを抒情的に、美しく、読みやすく書いた文章が胸をつきます。高度成長をした日本人が失ったものの大きさを静かに教えてくれます。Hikarunoさんは久しぶりに帰国して先月、東京で「インド刺繍とサリーの展示会」をしまた。開場の日に訪れて、つい2時間も話し込んでしまいました。文章は人を表すという通り、素朴で親切な人でした。決して難解な議論をしたり知識を自慢しません。品性の良さを感じました。今日は2ケ月の日本生活のあとでバンコックの自宅へ帰ったころの日記と写真を2枚ご紹介します。(転載の許可は昨日頂きました:http://asiancloth.blog69.fc2.com/ )

====Hikarunoさんのバンコックへ帰った感想日記========

新年も2日目を迎え、のんびり過ごすことにした。
2ヶ月近く履いていなかったサンダルで2日間歩き通したものだから、あしの裏が痛い。
バンコクでもカトマンズでも 大半はサンダルで歩くことが多いのだが、2ヶ月の晩秋から冬の日本の滞在ではサンダルというわけには行かず、革靴を履いていた。
そのために馴染んでいたサンダルが馴染まなくなっていた。
歩かない日本の生活で太ったということもあるのだろう。この足の痛さも通過儀礼である。
31日の深夜2時過ぎに部屋につき、部屋の片付けも、バッグの中の荷の整理もそのままだったので少しずつ片付け始める。
日本の気候から暑いバンコクの気候にはまだ慣れておらず、疲れも溜まっている。
前日A 氏もMBKセンターでバンコク地図とバス路線図を買い求めたし、バンコクでの動き方にも慣れバンコク市内の移動を楽しんでいるだろうと思っていると2時過ぎにA氏から電話がかかってくる。バンコク最後の日なので一緒に食事でもという話だった。午後3時にA氏の滞在するホテル前で待ち合わせの約束をする。
センセーブ運河を走る水上バスに乗るのも楽しいかと思い、誘うと「まだ乗っていない」と言う。
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センターから近いサファン・フアチャン乗り場から水上バスに乗り込み、終点のバーンラムプーを目指す。
すぐ近くにヨーロッパ人の家族が乗り込むが、彼らのすぐそばにある運河の汚水よけのビニールシートの上げる紐を引っ張ろうとせず、運河の汚水が船内に入り込んでくる。さすがに乗っていたタイ人もこれには困り、紐を引くように教えている。

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バーンラムプーに船は到着し、すぐ近くのプーカオ・トーン(黄金テンプル)に行くが、ここもタイの人たちの詣でで混雑を極めている。
いつもは人の姿も少なく、寺の屋上でバンコク市内を見渡すことも出来るのだが、諦めて下に下りる。運河沿いにはビルマ軍の侵攻を防ぐための要塞がある。
その横には王室のための舞踊、音楽を演ずる人たちが住むことを許された古い集落がある。ラーマ3世の時代、150年前から住み着いているようだ。
この近辺にはラーマ3世によって建てられたいくつかの寺院がある。
その寺のわき道の一角に洒落たタイ風な喫茶店があり、そこで休憩と考えていたが、正月休みのせいか、閉まっていた。
旧王宮を囲むオンアン運河とマハナーク運河を結ぶ細い運河ロッド運河に沿って歩くと、そこは古くから住み着いているバンコク庶民の生活場所だ。
貴族の屋敷を囲むように小さな木造の家が密集している。1932年の立憲革命以後住み着いた人々の集落である。庭のない家に住む集落の人々にとっては通りは生活の場所であり、交流の場所でもある。そこには生き生きとした人々の自由な生活の匂いがあふれている。(終わり)

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