先日の10月18日はカトリックの年間第29主日で「世界宣教の日」でした。カトリック小金井教会の山本量太郎主任司祭さまの説教も「世界宣教の日」に関する話でした。小金井市には宗派の違うキリスト教会が11くらいあります。山本司祭さまの呼び掛けで教会の牧師さん達が集まって色々な相談をしました。そして今年のクリスマスには小金井市の市民が気軽に近所の教会へ行ってお祈り出来るように準備をしているそうです。教会の住所やクリスマス礼拝の時間を書面でお知らせすることになったそうです。信者でない人々がクリスマスパーティの前に手近な教会に行き、家族の平安をお祈りする。そして帰って家族が揃ってクリスマスの御馳走を楽しむ。
家族が揃って、あるいは若いカップルが気楽に教会へ寄る。よく聞くクリスマスソングを楽しみます。それからクリスマスパーティをする。こんな流れも楽しいと思います。信者である必要はありません。
この小金井市の11の教会の新しい試みは、「宗派にとらわれない開かれた教会」をめざしています。そして信者でない人々にもキリスト教に親しんで貰おうという目的があります。宣教活動の一つです。
キリスト教の信者は誰でも「宣教の義務」を持っています。信者一人一人が自分で良く考えて宣教活動をしています。しかし宣教師という言葉から、「押しつけがましい」とか「しつっこく勝手に喋る」などという事を連想する人も多いと思います。これは宣教の失敗の結果、人々にそういう印象を植え付けてしまったのです。
宣教は絶対に押し付けてはいけません。このブログでも私はキリスト教の宣伝をしています。何度もしました。ただし読者に不快感を与えないように細心の注意を払って来ました。
例えば、この記事の前にヨゼフ・ピタウさんのことを紹介しました。イタリア人ですが引退後は日本へ帰国しました。この地に骨を埋めるつもりです。ある外国人が日本が好きになり、そこに終の棲家を持つ。その国の土になる。この事実は全ての日本人が嬉しいことです。そのことを私は重大だと思います。彼が有名大学の学長をしたとか、バチカン本部で大臣のような役職にあった、などという経歴は全く重要でないのです。
「彼がどれだけ深く、強く日本人を愛しているか?」、これだけが一番重要なのです。彼が宣教師として信頼出来るか否かは、その日本人への愛によって判明します。私は確信しています。ピタウさんは恥ずかしくない本物の宣教師なのです。
いい加減な生活をしている私がキリスト教の説明をしても誰も信用してくれません。そこで私は本物の宣教師を時々ご紹介しています。先日ご紹介した、ペトロ岐部さんもそのつもりでご紹介しました。カトリック小金井教会の山本量太郎神父様も本物です。
私は仏教徒も無宗教の方々もほんの少しでもご興味を持って頂けるように書いています。カトリク信者から見ても、偉い人はやっぱり偉いと思います。このブログでよく取り上げる玄奘三蔵法師などはその例です。鑑真もそうです。弘法大師も私は尊敬しています。
皆様が、少し、そうですホンの少しでもこのブログの宗教関係の記事を読んで頂ければ非常にうれしく思います。どうぞこれからも宜しくお願い申し上げます。(終わり)