後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ミレーの落ち穂拾い、その落ち穂を落として置いた人の話

2009年10月22日 | インポート

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上に示したのはミレーの「落ち穂拾い」という絵で、誰でも知っています。「晩鐘」と「種まく人」の3枚は特に有名で、「種まく人」は山梨県立美術館にあるので原画も見ることが出来ます。

この「落ち穂拾い」の内容について私は73歳になる今まですっかり間違った理解をしていました。勤勉で節約を美徳とする農民が畑に落ちた麦の一粒まで大切に拾い集めている図と思い込んで居たのです。そうではないのです。小作人は落ち穂を拾い食べることを地主から許さられていたのです。全収穫量の1割以下の落ち穂なら小作人が食べても良いことになっていたようです。こんな哀れ小作人へ同情して隣の自作農がわざと落ち穂をそのままにして小作人へ与えていた場合もありました。昨日の読売新聞の10ページ目の「時代の証言」に、ヨゼフ・ピタウさんの幼少の頃のことが書いてあります。ピタウさんはイタリヤの農家に生まれました。父は信仰が厚く、周囲の貧しい人々のために自分の畑の落ち穂をそのままにして置いたそうです。さらに実った小麦の一部を刈り取らずに貧しい人々へ与えていました。母もお菓子を作ると必ず病人やお年寄りへ届けたのです。届ける役はペタウ少年とその一人の姉と5人の弟の役目でした。

ピタウ少年はそのような家庭に育ち、7歳の時から村の教会の神父さんのお手伝いを始めます。そして9歳のとき神父になる決心をしたのです。1928年生まれの彼が宣教のために日本の土を踏んだのは1952年、24歳の時でした。彼はイタリヤの農村の地主と哀れな小作人の関係を見て暮していました。日本へ来ても封建制を歴史に持つ日本人の考えがよく分かります。彼の宣教活動を支えて居たのは貧者に優しい父の思い出、母の無限の優しさ、そして村の神父さんの愛情だったのかも知れません。ピタウさんの昨日の談話録には、幼少の頃を話す時の楽しさが行間に溢れています。決してカトリックは良い宗派ですよ、などという言葉が一言半句も出て来ません。

ピタウ少年の父のように優しい人が貧しい小作人の為に落ち穂をそのままにして置く。それを拾い集める小作人の様子を描いた絵が「落ち穂拾い」なのかも知れません。

ミレーの「晩鐘」は貧しい農民の信仰の厚さを描いた美しい情景画です。ピタウ少年の育ったイタリアの農村もそのような場所だったのでしょう。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 藤山杜人


大宮司弘昌著、「初めてのロシア沿海州昆虫エコツアー」その三

2009年10月22日 | インポート

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7月14日(採集初日)

 7時、夜明けである。天気は良さそうだ。周囲を探索してみる。このバンガローは原生林の中の1軒家で、見える範囲の人工物は前の広場と昨夜村から登ってきたダート道のみである。原生林は多様な広葉樹の間にチョウセンゴヨウマツやトドマツのような針葉樹が混じった混交林である。地形は東西の緩い傾斜地で、前方(東)には右から稜線が張り出し、日の出を遮っている。

<shapetype id="_x0000_t75" coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" filled="f" stroked="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe"><stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f></formulas><path o:extrusionok="f" gradientshapeok="t" o:connecttype="rect"></path><lock v:ext="edit" aspectratio="t"></lock></shapetype><shape id="図_x0020_2" o:spid="_x0000_s1026" type="#_x0000_t75" alt="russia-3" style="MARGIN-TOP: 100.75pt; Z-INDEX: 1; VISIBILITY: visible; MARGIN-LEFT: 160.8pt; WIDTH: 245.3pt; POSITION: absolute; HEIGHT: 187.6pt; mso-wrap-style: square; mso-wrap-distance-left: 9pt; mso-wrap-distance-top: 0; mso-wrap-distance-right: 9pt; mso-wrap-distance-bottom: 0; mso-position-horizontal: absolute; mso-position-horizontal-relative: text; mso-position-vertical: absolute; mso-position-vertical-relative: text"><imagedata src="file:///C:DOCUME~1gotouLOCALS~1Tempmsohtmlclip11clip_image001.jpg" o:title="russia-3"></imagedata><wrap type="square"></wrap></shape> 9時、日が射し始める頃には、気温はすでに高く、待ちかねたように蝶が飛び出す。広場やバンガロー周辺で、是非採りたいと思っていたシロモンコムラサキ、ベニホシイチモンジ、オオキイロミスジなどが、それこそ朝飯前に採れてしまった。これらは日本にはいない極東の特産種で、もちろん私も初めての採集で感激である。特にベニホシイチモンジの幼虫は松類を食べる変わり者で、またある文献では珍品扱いになっており、採りたい候補No.1であったが、ここバンガロー周辺では普通種のように飛んでいる。 

 9時半、屋外で朝食が始まった。するとベニホシイチモンジをはじめとする各種の蝶が食卓の回りを飛び回り、時には食卓に止まったりして、まさにエコツアー満喫である。

 このままこの付近で日がな一日いてもいいと思ったが、U氏が場所を変えればまた違うものが採れるというので、私と友人の蝶組はU氏の案内で移動する。ノルウェー人夫妻は別行動で深い森を目指したようであった。我々の車は、ダート道を30分ほど下り、昨夜は分らなかったが橋のない川を渡渉し、まもなく売店のあるふもとの村に。さらに10分ほど走り、再度川を渡渉すると荒地と林が交互に現れる農道があり、この農道沿いがポイントである。

 さっそく私としては初物のシロジャノメが採れた。いや採れたなんてものじゃない。見える範囲どこまでもキャベツ畠のモンシロチョウのように無数に舞っている。

 さらにチョウセンキボシセセリとチョウセンジャノメも、どこにでも溢れている。これらの両種はヨーロッパまで分布しているのに、対岸の日本にはいない。アジア大陸と日本列島は約1万5千年前の氷河期には陸続きで、日本と極東地区には共通種が多い。しかしこの両種のように、大陸にいて日本にいないのは、氷河期が終わり日本列島が大陸から分離した後に土着したという説明になるのだろう。いつどこから来たかはさておき、蝶の密度は日本の何倍~10倍である。人口密度が低く(沿海州全体で12)自然度が高いということであろう。この付近は気温が高く、雨も多いので、ヨモギが背の丈に達している。しかしこの平らな荒地は何だろうか。整地したように平で、溝や段がある。手付かずの自然ではない。かつての牧場か農地が、使われなくなり、自然に還ったものである。そういう目で見ると、この辺にはそのような荒地が多い。

 道にできた水溜り周辺には蝶の吸水集団ができている。そんな中に1頭だけ違うのがいる。初めて見るハマベシジミである。こんな内陸にいるのだから、「ハマベ」には違和感があるが、ハマベシジミとはいかにもロマンチックな名前ではないか。命名者に敬意を表したい。

 あれほどいた蝶が、2時を過ぎると急に少なくなる。帰りの迎えの車は4時にやってきた。そしてダート道の途中で降ろしてもらい、日が傾きかけた中を5kmほど徒歩で採集しながらバンガローを目指す。午後の5~6時はまた蝶が多く、特産種のスジグロミスジなどを採集。(続く)


メキシコの帆船をご紹介します

2009年10月22日 | インポート

昨日、ジェット機の写真をご提供下さった、葉山町のOY子さんが、今度はメキシコの帆船の美しい写真を2枚ご提供して下さいました。ヨットのお好きな方はお楽しみ頂けると思います。この帆船は「クワウテモック」号といい、メキシコから日本へ帆走して来ました。横浜開港150年を記念して6月2日に一般公開されました。1981年建造で、名前はアステカ帝国最後の皇帝に由来します。

日本・メキシコ友好400周年記念の一環としてメキシコから3ケ月かけて横浜港へ初入港しました。

初代の帆船日本丸は1930年英国、ラメージ&ファーガソン社製の帆船で4本マストです。クワウテモック号は3本マストで一回り小さいヨットですね。船型からこれもイギリスの設計図を使っていると思います。ご存じの方は教えて下さい。(終わり)

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