後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

大宮司弘昌著、「初めてのロシア沿海州昆虫エコツアー」その四

2009年10月23日 | 旅行記

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<shapetype id="_x0000_t75" coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" filled="f" stroked="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe"></shapetype><stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas></formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f><path o:extrusionok="f" gradientshapeok="t" o:connecttype="rect"></path><lock v:ext="edit" aspectratio="t"></lock><shape id="図_x0020_6" o:spid="_x0000_s1026" type="#_x0000_t75" alt="カリポゴンーR" style="MARGIN-TOP: 15.5pt; Z-INDEX: 1; VISIBILITY: visible; MARGIN-LEFT: 271.35pt; WIDTH: 133.05pt; POSITION: absolute; HEIGHT: 235.65pt; mso-wrap-style: square; mso-wrap-distance-left: 9pt; mso-wrap-distance-top: 0; mso-wrap-distance-right: 9pt; mso-wrap-distance-bottom: 0; mso-position-horizontal: absolute; mso-position-horizontal-relative: text; mso-position-vertical: absolute; mso-position-vertical-relative: text"></shape><imagedata src="file:///C:DOCUME~1gotouLOCALS~1Tempmsohtmlclip11clip_image001.jpg" o:title="カリポゴンーR"></imagedata><wrap type="square"></wrap>7月15日(移動日)          

 今日は空港経由でハンカ湖近くのハンター小屋までの移動日である。これほど蝶の多い場所を1日で次へ移動するのは惜しいが、実はノルウェー人の奥さんが今日帰国し、替わりにモスクワの蝶屋が到着することになっており、空港送迎のついでに次の場所へ移動しようというわけである。次の場所、ハンカ湖の近くはさらに自然度が高く、大形稀少カミキリのカリポゴンやコエレステスルリボシカミキリが期待でき、蝶も違う種が期待できるという。というわけで、8時に全員荷物をまとめ、空港に向かう。空港では待ち時間が2時間ほどあり、そばの荒地に入ってみると、ここにもシロジャノメとチョウセンジャノメが沢山いる。12時、モスクワのA氏が到着合流、出発。

 A氏は年のころ50歳、本職は細菌学で、極東の蝶を採るのが少年時代からの憧れであったと嬉しそう。道程の中ほどで、川岸に下りて昼食。ドライバーS氏は食器・調理器一式を積み込んでおり、食事の段取りの手際がいい。トマトおよびきうりのぶつ切り、ソーセージ、サラミソーセージ、チーズ、スライス状のパン・黒パンおよびコーヒーか紅茶が昼食の定番で、6人分が15分くらいで揃う。後片付けにも無駄な動きがない。

走り出して間もなくタイヤパンクである。天気は薄日、復旧に20分ほどかかるとのことで、ネットを持って歩きだすと、U氏の警告が発せられた。70m先の橋の下に黒クマの死骸がある。これは虎の仕業で、付近に虎がいるかも知れないので、あまり遠くに行かないこと。怖いもの見たさに橋に近ずくと死臭が立ち込め、死臭に惹かれて蝶が20頭ほど飛び回っている。美しい花の蜜を吸う蝶がいる一方、死体の腐敗液を吸うのも蝶である。橋の下には長さ1mほどの黒クマの皮があったが、頭部と中身はすでに失せている。背筋が寒くなる光景である。

 橋のない川をいくつか越え6時ころ予定のハンター小屋に到着する。U氏が農作業中の管理人らしい人を探し出し聞いたところ、6名は泊まれないとのこと。実はツアーの計画段階で、バンガローは予約できるが、ハンター小屋は普通予約できないと言われ、理解できなかったが、今その理由が分った。ハンター小屋は言わば原生林の山小屋であり、フロントも電話もない。予約管理の責任を持てる人がいないので、先着順なのである。U氏がここを第1候補に選んだのは、この付近は巨木が多く彼自身昨年近くのニレの太い立ち枯れでカリポゴンを見たからである。そして来たついでにその立ち枯れに案内してくれた。カリポゴンがそうそう見つかるはずもないが、立ち枯れには径20mmほどの脱出孔が4~5ケあり、カリポゴンに一歩近ずいた感じである。ここに泊まれないとは残念だが仕方がないので、6km先の別のハンター小屋を目指す。ところがその道が想像を絶する悪路である。狭い、急傾斜、激しい凹凸、深い水溜り、張り出した木の根と悪条件の見本市みたいで、どうなることかと一同息を詰める。今にも立ち木に衝突しそうになったり、今度こそ谷底に転落かと取手を握り締める。こんな昼なお暗い原生林で事故か故障でも起きたら助けを呼ぶのは大変である。最徐行で進んでいると、前方20mを2頭の大きい黒クマが横切るではないか。そして20mほど先で止まり、樹間からこちらの様子をしばし伺ってから静かに消える。向こうもこちらが珍しかったのであろう。悪路は続いたが、S運転手は慣れたハンドルさばきで次々と難問をクリアーし悪路が終わった時にはゲスト一同から思わず拍手が沸きおこる。ここが悪路であることは、U氏も運転手S氏も承知していたが、夕刻も迫っていたのでショートカットしたのである。またこの三菱デリカはやや古いながら本当に頼りになる。この辺で見かける車は大形トラック以外全て日本製なのもうなずける。 そして程なく7時頃に次のハンター小屋に到着した。(続く)


秋になると落ち葉焚きの煙の匂いが懐かしく思い出されます

2009年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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昨日、久しぶりに山林の中の小屋へ独りで泊まりに行きました。着いてみると小川がいつもの水音をたてて流れています。静かに近づいて行くと大なヤマメが一匹ゆっくり泳いでいます。しばらくヤマメと遊んで居る間に、落ち葉焚きをすることを思いつきました。昔は都会でも、住宅のある地域では秋になると庭木の落ち葉焚きの煙が良い匂いを漂わせていました。車の来ない裏通りでは道端で落ち葉焚きをしていたものです。子供が囲んでヤキイモを焼いて居たりしたものです。焚火禁止になって随分になります。あの季節の風物詩は日本から消えてしまったのです。懐かしい匂いと情景でした。

山林の中の小屋で落ち葉を集め、下の写真のように落ち葉焚きをしました。昔の懐かしい風物詩をよみがえらせました。2時間も落ち葉焚きをしていました。

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次の日の朝に焚火をした場所に朝日が斜めに射して、朝霧がうすく漂っていました。コーヒーを入れて朝食をとり、南アルプスの夜叉神峠の紅葉の写真を撮りに出発しました。

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水木りょう著、「高橋竹山」と「三波春夫」その1

2009年10月23日 | インポート

水木りょうさんは趣味人倶楽部の私のマイフレンドです。青森にお住まいで趣味豊かな生活をしていらっしゃいます。先日から、非常に興味深いお話を書いていらっしゃったのでお願いをして、このブログで広くご紹介いたします。3部作です。続編は順次、掲載してゆきます。藤山杜人

========「高橋竹山」と「三波春夫」その1==========
 最初に三味線の名人「高橋竹山」を話したいと存じます。彼の生い立ちや偉業は私が書くまでもなく多くの方がネットで書かれていますので、それらを見ていただければ幸いです。
私は竹山師が生前、「三波春夫っていう歌手はありゃぁおらは好かねぇ」と聞いたことがあった 。どうして?なんで?それを聞かないうちに二人とも他界してしまったのである。私は両名とも大ファンであるから、二人の人生を辿りながら考えてみたいと思ったのである。
竹山(定蔵)は少年のころに目を悪くし戸田重次郎という南部出身でありながら津軽に住んで「ボサマ」をしてる師匠から三味線を習いました。そして一緒に津軽地方や北海道などを歩いて放浪行脚し、乞食同様の生活を、盲目の人間が生きていく術を学んだのであった。
「ボサマ」とはただの乞食とは違い、三味線などを弾いたり、歌ったりして芸を見せてそのお礼にいくらかのお金を頂戴するものであった。(門付けともいう)自分一人で歩くようになっていかにお金をもらうことが難しいか、恥ずかしいことか身をもって体験するのであった。
回りの人が、一人より一緒に芸をする相棒がいたほうがいいということで、定蔵は嫁さんもらって二人で門付けして歩いてたが、子供ができて妻も子もふびんで、実家に帰したそうだ。
それから彼は一人で放浪するが、同じ放浪にも泥棒もいりゃ、商売人もいた。映画で有名な寅さんみたいないんちきな薬売りなどとも共に歩いたりして助け合って生きていったようだ。
お金がもらえずに畑から野菜や果物を取ってたべたり、石をぶつけられ追いかけられたり、そりゃあひどいもので、乞食となんも変わらない自分にどれだけ惨めな思いをしたことであろう。
 一方、定蔵よりおよそ一回り(13年)遅く、本屋を営む家の三人兄弟の末っ子として誕生した文司少年(三波)が7歳の時、「腸チフス」で母親が亡くなった。しかし優しい父のもとで、民謡を教えてもらいながらすくすくと育った。後に父が再婚したが、継母も優しい人で子供達は元気に育っていった。しかし戦時中である。文司は13歳で上京、米屋、製麺所、で働きながら元来明るい少年は、行く先々で唄を唄ってはみんなを喜ばせた。しかし朝6時から深夜の2時までの仕事はつらいものだった。ふとんの中で故郷を想い、米の選別をしながら涙をこぼす文司であったそうだ。しかし真面目な彼は一生懸命働いた。多くの人々に励まされ、唄の勉強も続けていった。
16歳、浪曲の学校(夜間学校)へ入学することができ、頭角を現し初舞台。少年浪曲家(南條文若)として働きながら経験を積み、1年8ヶ月で落語でいう真打ち、一枚看板の歌い手として巡業に出る。
そして多くの人から助言や支えがあって南條は声の使い方や喜怒哀楽の心や絵の見方や、人間として何が大切かなどを指導していただいた。こうした点は大変恵まれていたのだった。しかし彼にも軍隊召集の赤紙がくるのだった。20歳、陸軍部隊として満州へ渡る。20年戦況不利のなか、ソ連軍が参戦、激しい戦いのなか不思議と彼は生き延びるのであった。戦友が腕の中で「お母さん、お母さん」とつぶやきながら息を引き取っていくのをどんな想いで彼は見送ったことでしょう。恵まれていた彼の人生はこの戦争で大変辛く悲しい経験を積むのであった。
 片や「ボサマ」の定蔵は戦争が始まるまでは、門付けだけではなく、民謡の一座と旅回りしたり、浪花節の伴奏したり、さまざまな経験を積んでいた。旅の途中で会った師匠から端唄を習ったり、当時の有名な演奏家のレコードを聞いては覚えたりして、研鑽を積んでいた。
そして大東亜戦争が始まる頃は、八戸の盲亜学校に入るのだった。30代も半ばの男が学校へ入ったことは当時でも珍事なことで、定蔵も恥じも外聞もなく頑張るしかなかった。
持ち前の機転のよさと、要領のよさで学校のために配給の分を手回しして有利に運んだり、学校の勉強よりそうした裏方に力をそそぐのであった。それが学校からも感謝され、彼は針灸・マッサージの免許を取得する。文司(三波)は多くの人に支えられて指導を仰ぎ、天性の明るさと真面目さで人生を掴んでゆく。定蔵(高橋)の方は誰に頼ることもできず、自分の力で土と埃にまみれながら、生きる術を会得していく。そしてその体験から金を得て芸を磨いていってチャンスをつかんでいく。
この二人は全く別の正反対のような道を進みながら、大きな成功の道へ向かっていくのだ。また定蔵が浪曲の一座と慰問で満州へ渡ったときに、或いはそこではじめての二人の出逢いがあったかもしれない。
つづく