後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

古い焼き物のお好きな方へ送る写真

2009年10月18日 | 写真

今日までの3日間、東京美術倶楽部で恒例の東美アートフェア 「古美術・茶道具・工芸 展」がありました。

国立駅南口そばの孤董館の主が義弟なので見に行きました。東京美術倶楽部ビルの3階と4階に94の骨董・古美術店がブースを出ていて、選りすぐりの名品を展示・販売していました。

孤董館のブースには大きい古伊万里の壺が数個並んでました。大きな壺は売れてしまったので写真は遠慮しました。下にそれ以外の古伊万里、柿右衛門、その他の焼き物の写真を掲載致します。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

ご興味のある方は孤董館のHP(http://www.kotoukan.com/index.html )をご覧下さい。

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日本が世界へ誇れる大旅行家のご紹介

2009年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム

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明治維新前の日本人の大旅行と言えば遣隋使、遣唐使、東南アジアで活躍した山田長政、そして天正の少年使節のローマへの旅くらいである。学校で習う歴史の教科書に出てくるので誰でも知っている。

ところが江戸時代初期にマカオ、ゴア、そして単身、紅海を北上し、中近東の砂漠を通ってイエルサレムへ参り、更に長馳、ローマまで往復した男がいた。帰国後は日本国内を司祭として回り、最後は岩手県の水沢で捕縛され、三代将軍、家光の膝元の江戸で殉教している。その男の名はペトロ岐部。2008年11月24日に長崎の列福式でローマ法王によって福者として認められた。遠藤周作の著作には詳しく紹介されているが、多くの日本人は彼のことを知らない。

マカオを出たのが1617年、ローマに着いたのが1620年である。3年間の長旅である。特に中近東はイスラム教の地域である。従者も居ない一人旅である。それでも中近東の地を安全に歩くことが出来た。砂漠の異民族のの助けがなければ旅は続けられない筈である。そのことをあれこれ想像してみる。岐部には異民族へ好意を持たせる人格的な力が溢れていたに違いない。話しは飛ぶが、唐の都からインドへ往復の17年間の旅をした玄奘三蔵法師のことを思い出す。途中の国々で手厚く迎えられたという。

岐部にも三蔵法師と同じような圧倒的な人徳がそなわっていたのだろう。そしてこの人徳は宗教とは無関係に異教徒をも感動させるのだろう。大旅行家や冒険家に必要なものは体力だけではない。

ローマに着いたのが1620年の6月、そして5ケ月後には司祭になってしまう。異例の早さである。そして、2年間、ローマの修道院で修行の後、彼は帰国の旅にでる。帰路は海路をとったが、特にルバング島からは漁船で密かに日本へ潜入して来た。キリシタン弾圧が一層厳しさを増していた1630年と言われている。1639年についに捕まり処刑された。52歳であった。以上が、日本が世界に誇れる大旅行家としての岐部の紹介である。

以下は殉教したペトロ岐部司祭の宗教人としての紹介である。

1620年から1622年までローマの修道院で司祭として活動していたが、その間にイエズス会を創立したイグナチオ・ロヨラと、日本へキリスト教を初めて伝えたザビエルの列聖式に参列する幸運に恵まれている。

ペトロ岐部司祭は大分県に1587年に生まれ、長崎の神学校を卒業し、1614年に徳川家康によって国外追放される。徳川の時代も三代将軍、家光になり、キリシタンの迫害や殉教が一層熾烈になってきた。その時にペトロ岐部司祭は隠れキリシタンの希望と慰めを与えるために日本へ潜入したのだ。

潜入後、9 年間も日本各地を司祭として巡回し、ついに水沢で捕まる。江戸で処刑されるが処刑したときの記録が残っている。「ころびもうさらずので しょけいした」という意味の文言が見える。1639年、52歳の時である。

彼の生き方はすべての日本人にも「誇り」となるだけの迫力を持っている。それがほとんど知られてない。ご参考になれば幸せです。(終わり)

引用文献:http://blogs.dion.ne.jp/mrgoodnews/archives/1822791.html?reload=2008-12-29T20:20:03

(上の挿絵は昨年、長崎でのペトロ岐部ら187名の日本人の列福式のときの会場の背景画です。)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。  藤山杜人