後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日のミサーイエスがパルティマイという盲人を見えるようにした奇跡

2009年10月25日 | うんちく・小ネタ

キリスト教の新約聖書には実に数多くの個人の名前が具体的に出てきます。今日のミサの朗読の最後は、マルコによる福音10・46-52でした。

盲目の物乞いの名前が出て来ます。ティマイの子供のパルティマイという名前です。

道端に座って物乞いをしています。

イエスが通り過ぎようとすると大声を上げます、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と言い始めた。多くの人が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。

イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスの所に来た。 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

私は科学教育を受けました。化学反応の原理も知っています。熱力学という哲学的な科学法則もしっています。全て合理的に証明できる話ばかりです。しかしその一方でイエス様の行った奇跡は全て信じています。証明が不可能でも信じています。

信じればイエス様が喜ぶに違いありません。そうすると自分も豊かな気持ちになれます。話は飛びますが、各地に弘法大師が杖を突いたら泉がわき出たという奇跡話が残っています。その話を信じて真顔で説明してくれる人に時々会います。私もその話を一緒に信じます。他人が信じていることを尊敬する。これが重要なことではないでしょうか?(終わり)


第二次大戦中にローマ法王のピオ12世はナチからユダヤ人を守ったのです

2009年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム

フランシスコさんから下記のコメントを頂きました。ファイテング・ナンさんのHPを開きピオ12世にお関する部分を転写しました。

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Ave Maria,

ピオ十二世教皇聖下の名誉を守り続ける、ファイティング・ナンと呼ばれる方のページです。

http://www.sistermargherita.com/

But Pius, once internationally acclaimed as "saintly," is now widely vilified. So, Sister Margherita has gone on the offensive. She has several titles in print on the subject of Pope Pius, including a biography, Pope Pius XII: Architect for Peace. Two books tackle head-on the history of the Holocaust in Italy and the Pope's role. Consensus and Controversy: Defending Pope Pius XII, and Yours Is a Precious Witness: Memoirs of Jews and Catholics in Wartime Italy make a strong case for the active role the Vatican and Italians took to save many Jews. Her latest book is Shepherd of Souls: A Pictorial Life of Pope Pius XII.

Even in her autobiography, The Fighting Nun: My Story, she devotes more than two chapters to setting the record straight. The British historian John Cornwell in his book, Hitler's Pope: the Secret History of Pius XII, claims the Pope's silence during the Holocaust condemned thousands of Jews to death by the Nazis. He further argues that Pius cut deals with Hitler in order to save German Catholics from persecution by the Nazis. Ultimately, Cornwell condemns Pope Pius as an anti-Semite who was a willing agent to Hitler's master plan.

"Absolutely untrue!" bellows the tiny nun. (She has argued with Cornwell on several occasions on radio and television.) Was Pope Pius silent? No, actually he spoke out officially on several occasions against Hitler and the actions of Nazi Germany. Moreover, those official statements had violent repercussions in Germany and Poland: in Dachau alone, 2,800 priests were imprisoned. More than half died there. What Pope Pius determined was that the Church, and Rome, could do more good by acting quietly besides speaking officially against Hitler. To that end, convents, monasteries, even the Vatican itself, on the Pope's orders, were opened as havens for Jews. One amazing photograph in Sister Margherita's collection shows a dozen young Jewish mothers holding their infants in what is captioned "The Nursery." The tapestry visible in the background has the Pope's coat-of-arms: the Pope gave up his private quarters to house these women and their babies.

As a member of the Religious Teachers Filippini, Sister Margherita has access to the sisters of her order in Italy who participated in the sheltering of Jews. They share stories of setting up their cots throughout the convents, including the basements, so Jewish families could have the small bedrooms.

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大宮司弘昌著、「初めてのロシア沿海州昆虫エコツアー」その五

2009年10月25日 | 旅行記

<shapetype id="_x0000_t75" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" stroked="f" filled="f" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"><stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f></formulas><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock></shapetype><shape id="図_x0020_8" alt="ハンター小屋外観" type="#_x0000_t75" o:spid="_x0000_s1027" style="MARGIN-TOP: 7.75pt; Z-INDEX: 1; VISIBILITY: visible; MARGIN-LEFT: 160.8pt; WIDTH: 242.7pt; POSITION: absolute; HEIGHT: 186.75pt; mso-wrap-style: square; mso-wrap-distance-left: 9pt; mso-wrap-distance-top: 0; mso-wrap-distance-right: 9pt; mso-wrap-distance-bottom: 0; mso-position-horizontal: absolute; mso-position-horizontal-relative: text; mso-position-vertical: absolute; mso-position-vertical-relative: text"><imagedata o:title="ハンター小屋外観" src="file:///C:DOCUME~1gotouLOCALS~1Tempmsohtmlclip11clip_image001.jpg"></imagedata><wrap type="square"></wrap></shape>ハンター小屋    

 正式な名称は知らないが、U氏が「ハンター小屋スタイルのバンガロー」と説明したので、「ハンター小屋」と呼ぶ。原生林に点在し、伐採作業、土木工事、ハンティング、レジャー、緊急避難など多目的に使われる。

Photo  

我々が到着したこのハンター小屋には管理人が常駐しており、宿泊OKとのことでほっとする。しかもなぜか無料だという。条件は一つ、我々と食卓を共にし、同じものを食べたいと。U氏にそっと彼はどういう立場の人かと聞いたが、U氏も知らない。彼の同居は犬2匹、猫1匹、ニワトリ10羽である。電気水道はなく、もちろんシャワーもなく、トイレは50mほど離れている。建物は2階建て、外壁は丸太で内装との間は厚く、断熱材がしっかり入っているのだろう。窓は小さく2重である。1階は入口に調理台、続いてダイニングと広間がある。ダイニングにはテーブル、椅子6脚、暖炉、ベッド1があり、広間にはベッド3、ソファー2がある。シーツや毛布は持参しており、寝るのに問題はない。2階は2室で奥が管理人の部屋である。そこには電池のポータブルテレビがある。

 この地域は平坦な低地(標高200m)で、落葉広葉樹林帯である。しかし広範囲に伐採の手が入っており、巨木はほとんどない。小川や水溜りが多く、蚊は非常に多く悩ましい。室内にも入り込むので、夜に蚊取り線香を炊いたら、S氏から喉が痛む、蚊は大したことないと言われた。我々は直ぐ刺されるが、彼らは肌を出していても余り刺されない。どうして刺されないのかと聞いたら、皮膚に毒があるんだと言われてしまった。答えようのない奇問であたか。我々は蚊がいては寝れないので、蚊取り線香は宵の口に点け就寝前に消すことにした。

 ここで食事について、後で判ったことも含め記しておく。朝食は夜明けが7時なので、9時ころになる。メニューは昼に川岸で摂ったものとほぼ同じだが、適宜生にんじん、生ねぎ、生いんげん等の野菜や茹でじゃがいも、ピクルスや昨夜の残りものが追加される。バター、塩、砂糖、マヨネーズ、コンデンスミルクはあるが、なぜか蜂蜜、ジャムはない。

 昼食は、移動日は前記のように簡単に途中で摂る。採集に出た時は、外では摂らず遅くなっても帰ってから摂る。雨で外出できないときは時間があるので、スープ、卵焼き、煮込み等が作られる。

 日暮れは10時なので、ディナーは9~10時開始である。スープ、じゃがいもの他に鶏のから揚げ、ボルシチ、肉野菜の煮込み/炒め、鱒のバター煮込み等1品が付く。食材は2日毎くらいに買出ししており、他に森から採れるキノコが頻繁に登場した。ご飯も時々炊かれ、チャーハンのようなのも出される。

<shape id="図_x0020_7" alt="ハンター小屋前のツアーメンバー" type="#_x0000_t75" o:spid="_x0000_s1026" style="MARGIN-TOP: 38.75pt; Z-INDEX: 2; VISIBILITY: visible; MARGIN-LEFT: 170.85pt; WIDTH: 231.15pt; POSITION: absolute; HEIGHT: 177.5pt; mso-wrap-style: square; mso-wrap-distance-left: 9pt; mso-wrap-distance-top: 0; mso-wrap-distance-right: 9pt; mso-wrap-distance-bottom: 0; mso-position-horizontal: absolute; mso-position-horizontal-relative: text; mso-position-vertical: absolute; mso-position-vertical-relative: text"><imagedata o:title="ハンター小屋前のツアーメンバー" src="file:///C:DOCUME~1gotouLOCALS~1Tempmsohtmlclip11clip_image003.jpg"></imagedata><wrap type="square"></wrap></shape> Photo_2

ビールとウォッカは毎晩、時には昼も飲んだが、話の良き潤滑剤である。話題は場所柄、虎、ヒグマ、黒クマ(ツキノワグマ)、蛇、昆虫、きのこ等、罪がなく健全である。特に虎と熊の体験談は毎日でも面白く飽きない。興味深い話をいくつか紹介する。ここの虎はアムール虎と呼ばれ体長3m、足跡は登山帽ほどもある。猛獣3種の強い順は虎>ヒグマ>黒クマであるが、人間に対する危険性の順は黒クマ>ヒグマ>虎となる。虎は数も少なく(第1級の保護獣)極めてセンシティブで、ガイドU氏も未だ見たことがない。黒クマは人里近くにも多く狩猟の対象である。最もアグレッシブで、極東地区で毎年1~2名の犠牲者が出る。黒クマの天敵は虎で、夜は虎に追われるためか人里に出没する。この周辺にも毎晩現れるが、それは犬が吠えるので判る。事実我々の滞在中は毎晩2回ほど2匹の犬が激しく吠え、翌朝柔らかい土にはクマの足跡が残っていた。次に森でクマに出会ったらどうするかである。対話路線で説得するように話しかける、病気で食えないことをアピールして奇声を発するなどが優れており、死んだふりをするのはクマが死肉も食べるので俗説でないか、後ろを向いて逃げるのは逃げるものを追う本能を呼び覚ますという具合である。ただこの種の話しには誇張や創作が付きものなので、その点を念頭に聞く必要がある。クマには個性があり決め手はないようで、私は日本で入手した鈴を身に付けていたが、牧場付近では羊と誤認される恐れがあるかも知れないという。またテーブルのそばの2重窓の外側のガラスは割れており、これは虎が中を覗こうとして立ち上がり、前足を窓に掛けた時に割れたものとのことであった。中にいた人は凍りついたことであろう。

 昆虫の話題の主役はその大きさ、風格、珍品度においてカリポゴンである。10種ほどの同属は全て南米産で本種のみ極東に棲息するのもミステリアスである。話が進むうちに管理人が、そのような虫なら昨日階段の踊り場に来ていたので、踏み潰して捨てたとのこと。翌朝早速、残骸がないか探したが、多分ニワトリがついばんだのであろう、すでに影はなかった。

 今日の収穫は、移動と天気が悪かったことで空港前のシロジャノメとシロモンコムラサキ少々であった。

 7月16日は終日雨。(続く)


水木りょう著、「高橋竹山」と「三波春夫」その2

2009年10月25日 | インポート

「高橋竹山」と「三波春夫」その2

前記のように、定蔵(竹山)はボサマとして出発し、惨めな思いを乗り越え、生きる術をみずから学習しながらも、三味線はうまくならないと駄目と自覚し、懸命に勉強を重ねて独特の音色を出すまでになったのに対し、文司(三波)は家族に支えられながらもまた13歳で社会に飛び出し、懸命に働いてまわりに可愛がられ、浪曲の勉強を続けていったが、浪曲で人に訴えるためには人間の喜怒哀楽を知ることが大切と学んだ。

その最たるものは満州での戦争への出陣だったろう。多くの危険にさらされながら生き延びたのは、、唄を唄って世に光を灯すために生まれた文司は強い運命でもって危険から守られたのだろうか。
定蔵もまたそうだった。
三陸海岸を行乞してるときに、大津波に遭っている。昭和8年の冬に地震のあと、宿屋の主人に教えられた通り、死に物狂いで裏山をよじ登って九死に一生を得た。それだってそのときに命を落としてたらその後の「竹山」の偉業はなかったのだ。やはり強い運に守られていたと、彼は言っていたそうだ。
そうして定蔵は苦しい戦争へ駆り出された兵隊さんのために、ある民謡や浪曲の一座とともに、満州へ慰問団として渡っている。
そこで若い「文司」に遭っていたに違いない。
おそらく文司は兵隊の中でも有名だったに違いないから、一座が現れたときに、隊長さんから「おい!文司、おまえ浪曲上手いから歌えよ!」と言われ飛び入りできっと唄ったかもしれない。
そのときに若き三波春夫と若き竹山との共演があってもおかしくないはず。
こうして運良く文司がシベリアの(抑留)から解放されて帰国して、本格的に浪曲を始めた。

一方定蔵はハリ灸の資格をとったもののお客はなく、新しい妻のためにもまた三味線での仕事を増やしていく。市川竹女(民謡師匠)の一座で興行に連れ立ったり、浪曲の伴奏をしたりしてるうちに、津軽民謡を編曲したり、全国に薦めるために新しく作曲したりしてた「成田雲竹=津軽民謡大御所」が定蔵に目をつけて連れ歩くようになった。そして「弥三郎節」や「リンゴ節」「十三の砂山」などの新曲に加え、古い津軽の伝統の曲に次々と伴奏を作曲せよと雲竹師から命がくると、即座に彼は見事にそれを作りあげるのだった。
こうして雲竹・竹山のコンビは不動のものとなっていく。竹山という名は雲竹師が名づけたものだった。
竹山はのちに「おじっちゃと遭わねば今のオラはながったじゃ」と言っている。厳しく育ててもらったので、父親のような怖くて尊敬できる師であったということであった。
昔は、とくに津軽の民謡はさげすまれていて、悲しいものだったり、或いは酒の席でドンチャン騒ぎの唄だったりであったのを、それをリズミカルに編曲したり、歌詞を上品なものに替えたりして工夫し唄いやすくしたのだった。いつも襟を正し、「酒の席でだらしなく歌ってはいけない」と弟子たちにも固く禁じさせた。
その弟子にその後全国大会で次々と日本一になる歌手が誕生している。そうして津軽民謡は名実ともに全国に広まっていったことは、雲竹師の偉大な功績に他ならなかった。しかもこの頃竹山師も三味線もただ伴奏のみならず、他の演奏家がしてたように、じょんから節やよされ節の前曲の下りを工夫し、曲弾きと称して三味線を一つの音楽のジャンルとして高めていった。もうボサマの竹山ではない。

つづく