後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

水木りょう著、「高橋竹山」と「三波春夫」その3、完結編

2009年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム

前記したように、竹山師は私がまだ幼少(小1)年のあたりから我が家の道場(教室)に来るようになった。同時にこの頃は、青森労音の佐藤氏のお世話により、全国を回って演奏活動が出来るようになった。つまりボサマをせずに生活が成り立つようになったのだった。全国を歩くうちに、津軽三味線の価値や名声が上がって、若い人がどんどん聴くようになり、とくに渋谷の「ジャンジャン」においては、ニュージャズ感覚で流行し、レコーディングも次々と行われて、あるTV番組のドキュメントで「寒撥」が放映されたことから反響が高く次々といろんな受賞につながっていくのだった。
一方、戦地から帰った文司は浪曲家として全国を回る。そして同じ芸人として活躍していた女性と結婚する。その後時代が急激に近代化して行く中で、文司は三味線一つだけの浪曲に限界を感じていた。
流行歌手としての道を開くために訓練・稽古する至誠はあまりに熱心で、回りが圧倒されるほどだった。この頃「三波春夫」と改名し、紋付はかま姿で立ち振る舞いなども研究して、観客の度肝を抜いた。
こうしてデビューの「ちゃんちきおけさ」と「船方さんよ」が大ヒットをとばした。
また新しい試みを次々と打ち出し、舞台狭しと芝居と唄を織り交ぜたスケールの大きなテーマを歌ったものが殆どで、東京を初め全国の歌舞伎座での公演は大成功を収めていく。
こうした歴史の中で当然、三波と竹山は舞台か、テレビなどで顔を何度か合わせただろう。そんな中で二人がどういった思いで見つめたことだろう。
片や押しも押されぬ浪曲あがりの華やかな舞台演歌歌手。片や押しも押されぬ三味線を独創楽器まで押し上げた努力の名人。
なにがあったのだろうか?知る人ぞ知る謎の問題である。
の記述はあくまで憶測でもしかして?の推測である。
 ある舞台で三波が浪曲を唄うことになり、その打ち合わせで三波が、大先輩の竹山に失礼なことを注文した(竹山は伝統ある浪曲を変に変える三波に反発?)
 三波はものすごい歴史の研究家で、自分が歌い上げる歴史上の人物をまるで見てきたかのように熱く語る人であったので、それを竹山が横で見てたか、あるいは彼自身にもうるさいほど話した聞かせたのか・・・
いずれにしても三波は前向きで、日本が大好きで歴史も大好きで、日本が社会主義的な方向にいくのを恐れて、日本の真の行く末は古来からの神道主義にあるとみた三波は、ことあるごとに芝居や唄にそれを表現していった。
一方竹山は盲目によって虐げられた生活を余儀なくし、戦争によってさらにどん底の人生を送ってきた。信じられるものは国家ではなく、自分しかない、忍耐と恥と罵倒からの反発で自ら学んでいった人生観は三波の生き方とは相反するものであったのかもしれない。

 三波春夫の声は、研ぎ澄まされた中にも明るく大らかで、10のもの7か8の力でゆったりと楽に唄いあげる声はもうマイクいらずで、会場の外にまで響き渡るといわれている。
 高橋竹山の音色も、いわゆる津軽の叩き三味線ではなく、弾く奏でるような優しい撥さばきで、あのような美しい音色が人々の心を魅了した。共に名人位まで高めた芸である。時節が時節なら、または竹山が目が見えていたら、二人はきっと仲のよい友人であったやもしれない。
竹山の伴奏で春夫の声で浪曲が聴きたかったと思うのは決して私ばかりではあるまい。残念である。
1989年、病しらずの竹山も前立腺肥大で入院、持ち直して演奏活動をつづけ、1998年今度は喉頭癌で2月87歳の生涯を閉じた。また三波も1999年あたりから体調を崩し、2001年4月、やはり前立腺癌で77歳の生涯を終えたのだった。
ご苦労様でした。竹山さんの葬儀は行きましたが、墓参がまだですが、盟友の米国在住の「村正・クドー氏=画家」と共に帰青したら墓参に行く約束をしています。
また三波春夫さんとは面識はないが、生まれ故郷の新潟県長岡市に彼の石碑があるというので是非行ってみたいとおもっております。
        完 
  ありがとうございました。