後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ちょうど5年前の今日はこんなブログの記事を書いていました

2013年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム

懐かしいヨットの写真

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群馬のカヤシマさんのヨットを見ましたので写真を撮らせて貰いました。20年前に琵琶湖で買って霞ヶ浦へ陸送したヨットです。1988年から1998年までの10年間乗りました。その後、群馬のカヤシマさんが、ご自分で船底からキールまですっかり塗り直し、新品同様の状態にして乗っていらっしゃいます。

カヤシマさんを沖で見かけましたのでラクス・マリーナへ行って帰港をお待ちしていました。

昔、あまり手入れもしないで乗っていた艇を大切に使っているカヤシマさんへ敬意を表したくて突堤の上で待っていました。Yamaha19という名前のヨットです。個人的な興味だけの写真を掲載して恐縮です。(終わり)撮影日時:10月7日夕方、

・・・5年前は、まだ体力があって26フィートのクルーザー、Luna3世号に乗っていました。しかし2年前の75歳の秋にヨットも潔ぎよく、すっぱり止めました。体力は年々衰おえていきます。それも自然の摂理なのです。・・・・・


戦後、占領軍の行った教育制度の大改革・・・新制中学校卒後62年目の同期会

2013年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、仙台で新制中学校の市立愛宕中学校の卒業後62年目の同期会がありました。懐かしさに胸があつくなり、楽しいひとときでした。

これだけ書いて終わりにしてはブログの有する公共性や社会性が皆無になります。

そこで戦後、占領軍の行った教育制度の大改革とは何であったのかを若い人々のために書き残したいと思います。制度改革の表面的なことよりも教育の現場でどのような混乱と急変があったのか生徒の目から紹介したいと思います。

形式的な変化は、明治維新から敗戦まで続いた古い学校制度を全て廃止して、全く新しいアメリカ的な学校制度にしたのです。それは占領軍の絶対命令でした。

古い制度では小学校までが義務教育でしたが、占領軍は急遽、3年制の新制中学校を全国の津々浦々に作り、中学校卒までを義務教育にすることを厳命したのです。

膨大な数の新制中学校の校舎を急遽作る必要に迫られたのです。

始めは兵舎を改造したり、小学校の教室をやりくりしてしのぎました。机も椅子もありませんから生徒は床板の上に座り、ミカン箱を逆さにして机として使ったのです。

昭和22年に新制中学が開校し、我々はその2期目の昭和23年に仙台市立愛宕中学へ入学しました。

当然、校舎も机も椅子も皆無です。そこで近くの荒町小学校の空いた教室を借りて、板床の上に座り、ミカン箱を机代わりにして勉強したのです。

そして1年生の終わりころの冬に愛宕神社のそばの遠藤山の上に新しい校舎が完成しました。そして生徒全員で出来たての椅子を頭の上に載せて荒町小学校から3キロメートルほど離れた新校舎まで運び込みました。大変疲れましたが自分の家が新築したような気分で楽しかったものです。

さて一番驚いたのは先生方が新しい民主教育に興奮していたことです。

それまでの小学校は師範学校卒業の堅苦しい先生だけでしたが、新制中学校は急いであちこちから先生を揃えたので種々の先生がいました。

空中戦の経験のある戦闘機乗りの先生もいましたし、魏志倭人伝に詳しい歴史の先生も居ました。そして情熱的に演劇などの部活動を指導してくれた先生もいました。宝塚音楽学校を出た音楽の先生もいました。皆が軍国主義を止めて新しい文化国家を建設するという情熱に燃えていたのです。

教える内容はアメリカの三権分立の政治体制や民主主義とはどういうものかをいろいろな方法で教えてくれました。

歴史教育では、あからさまに天皇制度は批判しませんが魏志倭人伝にある卑弥呼を女王とする日本の古代の小国家を丁寧に教えてくれたのです。

それで戦争中に小学校で教わった皇紀2600年という日本の天皇の歴史は全くでたらめで架空のことかが良く分かりました。

アメリカ流のホームルームが始まりいろいろな討論会が行われました。学級委員も生徒会の委員も先生の指名ではなく級友相互の選挙で決めるようになったのです。

それは戦争中の国民学校の教育から見ると驚天動地だったのです。

それは共産党の影響下の日教組が学校を支配する随分と前のことでした。

まだまだ貧しい日本でしたが新制中学校の先生方は新しい日本の建設に興奮し、情熱的に生徒を教えたのです。きっと先生方と、生徒の目はキラキラと輝いていたと思っています。

日本の学校にもそんな時代があったのです。

さて昨日の同期会は昨年と同じ杉下成美君が幹事役で丁寧な準備を経て開催されました。昨年の同期会のことはこのブログの記事、深い悲しみと、深い喜びの混じり合った感動・・・卒業後61年目の同窓会 にあります。 

今年も同じように楽しかったので、以下に写真を用いて簡単に記録しておきます。

下の写真は新幹線が懐かしい仙台平野に入ったときの風景です。

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10時40分に仙台着、同期会は11時30分から一番丁の三越のそばのシェルブールというレストランであります。時間に余裕があるので駅から名掛町、大町のアーケード街を西へ歩いて一番丁へぶつかりました。そこから一番丁を北へ向かってあるき三越の手前左の会場のレストランに11時25分に到着しました。下の写真は大町のアーケード街です。

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そして男女あわせて24名の出席で楽しい同期会が3時間続きました。

下の写真はその様子です。

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年齢、77歳、78歳、の後期高齢者が元気に談笑している様子は感動的でした。

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さてそのうちに昨年の、さいかち川沿いに櫻木を植える老境の幸せ・・・昔の同級生の静かな人生 という記事でご紹介した庄子公男君がそばに来て、植樹した桜の苗木に花の咲いた様子を示す写真を一枚くれました。大変嬉しい話なので昨年の冬に植樹した苗木の写真と花が咲いている今年の春の写真を並べて下に示します。

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尚、仙台に関する思い出の記事は末尾に示しました。クリックして、合わせてお読み頂ければ戦前、戦後の仙台市の様子が分かります。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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追憶の中の我が仙台(4)思い出のなかの故郷を探す旅

私の一生は邯鄲の夢(1)幼少時に遊んでくれたおじさん、おばさんは皆いなくなってしまった

私の一生は邯鄲の夢(2)仙台の大空襲と昔の故郷の消滅