後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

イスラム諸国は日本の友好国!・・・おまり大きな声では言えない事実

2013年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の仮想敵国は中国です。昨日のアメリカの国務長官と防衛庁長官と日本の外務大臣と防衛大臣との会談でこの認識が確認され中国の軍事力増強へどのように対抗するかを相談したのです。尖閣諸島の防衛は安保条約の適用範囲だということも再確認されました。

一方、韓国はアメリカの軍事同盟国なので日本の敵ではありません。歴史認識に関して日本へ嫌がらせをする不愉快な国ですが敵国ではありません。

今日から日本海で日米韓の3国による共同軍事演習が行われます。横須賀を母港としているアメリカの原子力航空母艦が釜山港に停泊しています。

ところで日本はエジプトやシリアやイランやパキスタンのようなイスラム諸国とどのような外交関係を続けているのでしょうか?

驚くことにほんとんど全てのイスラム国と日本は友好関係を続けているのです。

しかし日本のマスコミはこの友好関係をほんど報道しません。

アメリカを不愉快にさせたり、刺激しないように注意しているのです。何と言ってもアメリカは日本にとって最も重要な同盟国なのです。そのアメリカがイスラム圏の幾つかの国々と抗争を続けている以上、日本もその政策を支援せざるを得ないのです。

例えばイラン人は日本人を尊敬し、友好的な人々です。日本とは友好条約もありました。しかしアメリカのイランに対する経済制裁には日本も同調せざるを得ません。

イランに駐在していたある親しい日本人の話によるとイラン人は経済制裁にもかかわらず日本へ大変友好的だったそうです。

したがってイスラム過激派は爆弾テロなどで日本人を標的にしません。日本国内で暴れまわりません。日本人を友人と思っているのです。

何故でしょうか?

理由は以下のように3つあります。

(1)ヨーロッパのキリスト教の国々は11世紀、12世紀に十字軍を中近東に送り込み、現在のベイルート、ヨルダン、シリア、イスラエル、などなどの土地に数多くの十字軍国家を作り、残虐な統治をし続けたのです。

その説明は昨日の記事、日本人には理解しにくい11世紀、12世紀の十字軍・・・十字軍が築いた中近東の城 で致しました。

日本ははるか遠方に存在する国だったので勿論、十字軍は送れませんでした。この件に関して、日本は完全無罪です。

(2)日本は仏教国なので一神教のキリスト教とイスラム教との間の戦争には完全に中立的な存在なのです。

(3)イギリスの18世紀の産業革命以後に、圧倒的な武力を持つようになったヨーロッパ諸国とロシアが、中近東のイスラム諸国を保護国や植民地にしました。

その憎いロシアを日本は日露戦争で敗ったのです。ロシアに権益を奪われていたイランをはじめイスラム諸国が拍手喝采をしたのです。

そして第二次世界大戦では日本は勇敢にもアメリア、イギリスに立ち向かい、大きな損害を与えたのです。

日本は敗けましたがこの大戦争のお蔭で、インド、パキスタン、エジプト、イラン、イラク、ヨルダン、サウジアラビアなどなどの諸国が独立国家になれたのです。

当然のことながら、これらの国々は日本へ深く感謝しています。

サンフランシスコ講和条約の後、日本はこれらの国々と友好的な外交関係を築き、それを維持しています。

以上のような事情を勘案すると、日本人はもっともっとイスラム圏の人々に親近感をもって友人として付き合うほうが良いと思います。

例えばイランには16件の世界文化遺産があるのです。もっと日本人が観光旅行に行っても良いのではないでしょうか?

下に16件のイランの世界文化遺産のなかから3件を選んで、その文化遺産の写真をお送りします。

日本人がもっとイスラム教の国々と交流を深めるように祈っています。それが世界の平和共存に大きな貢献をすると信じています。

Persepolis_24112009_1126321
上はペルセポリスの遺跡です。ダレイオス1世が建設に着手したのは紀元前520年と言われています。

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上はイランのエスファハーンにあるイマーム広場です。

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上はタブリーズの歴史的バザール施設 です。

上の3枚の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3です。


竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」(3)イタリアの地域主義

2013年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム

一頃、北部同盟Lega Nord)という政党がありました。北イタリアの人達はなんで北の俺達が稼いだものをドブ(溝)に捨てるように南に使うのは馬鹿げている。北で稼いだものは北で使わせて貰おうというのがこのLega Nordです。2006年の9月15日にLega NordはヴェニスでおごそかにPadagna共和国の独立を宣言しました。Padagna(パダニア)というのはPo河流域という意味です。

Po河流域は映画「苦い米」で有名になった豊かな米作地帯であり、TMI(帝人マンテロ工業;ポリエステル繊維後加工会社)のあったVercelli工場は田んぼの真っ只中にありました。米ばかりでなく小麦などの穀倉地帯でもあり、酪農も盛んです。

また北イタリアは各種の製造業が栄えています。FIATOlivettiで有名なトリノ、ミラノ、ボローニアの工業地帯,良港をもつジェノヴァの工業、またヴェネチアの近くの石油化学コンビナートのメストレなどがあり、もし北イタリアが独立したら、ドイツやスイスより国民所得の高い国が出現し、英国やフランスに取っては脅威になります。

帝人が技術援助したモンテフィブレのAcerra工場はナポリの郊外ですから、ミラノに住んでいた私にはAcerra付近の貧しさを目の当たりにして、南北格差というものを身をもって実感しました。Acerra工場がニンニク畑と羊の放牧地の跡であることはモンテプロジェクトのところで説明済みです。

ドイツも東西が統一されて西が東を今でも担がなければならないように、イタリアは宿命的に北が南の面倒を見続けなければなりません。前述のように、イタリアは都市国家の寄せ集めなのですから、どうしても地域主義になります。イタリア人は自分の出身地を誇りに思い大切にしています。イタリア人である前に、シチリア人であり、ヴェネチア人であり、またボローニア人なのです。北部同盟は政党レベルが堂々と行った独立運動ですが、シチリアの独立運動とか、Friuli(ヴェネチアの北部)の独立運動とかが有名です。

ここではFriuliの独立運動について説明します。第二次世界大戦後、オーストリアがナチスドイツから分離独立した時、Friuliではオーストリアへの復帰運動がありました。この地域はオーストリアと接しており、ハプスブルグ家の領地だったのですが第一次世界大戦の後、イタリアがオーストリアから分捕った地域なのです。従って、ここの住人はオーストリア人で、背が高く、勤勉で生活水準も高いのです。しかし、イタリアでは南部振興のために税金が高いので不満がある訳です。第二次世界大戦後、何年かゴチャゴチャやっているうちに、Friuliの人達はオーストリア復帰運動を止めてしまいました。何故でしょう、イタリアでは彼等は高所得層に属するのです。しかし、オーストリアに帰って下手をすると低所得層に落ちるかも知れないから、それならイタリアで威張っていた方がいいということになりました。

もう一つ別の例では、ピサの20Kmほど南にあるLivornoという港町の話です。中世時代ピサは四大海運都市国家(他の三つは、ヴェネチア、ジェノヴァとAmalfi)の一つでした。直線距離で50Kmのフィレンツェとは頻繁に戦争をしていました。フィレンツェのメデイチ家は各地と貿易をやっていましたから港が欲しいのですが、一番近くの海岸にあるピサは使えませんから、ピサの領土を避けて、廊下のような道をLivornoまで作って、Livorno港から交易をやっていました。でも、ピサの目と鼻の先では宿敵のフィレンツェのメデイチ家がお金儲けをやっているのを黙って見逃す筈がありません。当然ピサはLivornoを襲撃します。そのためメデイチ家ではLivornoには前科者やならず者を住まわせました。現在でも、ピサとリヴォルノは仲が悪く、リヴォルノの人達は背筋をピンと伸ばしている人が多いと思います。西部開拓時代のフロンテイアの人達を思わせるものがあります。

もう一つ地域主義の典型的な実例を挙げましょう。ミラノ駐在員も2年くらい経った頃、モンテフィブレと帝人の会議の席でモンテ側が私に花を持たせようと、「竹内さん、ミラノの生活も2年になればイタリア料理の素晴らしさは分かるでしょう。」と水を向けてくれました。そこで私は胸を張って「イタリアの国境の外ではイタリア料理は食べないことにしています。」と答えました。モンテフィブレの人達はそうだ竹内もイタリア料理の良さ分かって来たなと皆で拍手をしてくれました。ところがです私の向かいの席に座っていたのが法規部長のRighiさんでポツリとしかも聞こえよがしに言いました「ボローニア以外ではイタリア料理は食べません。」と。彼のお祖父さんがボローニア大学の物理学の教授で、なんと無線通信のマルコーニを教えたという生粋のボローニアっ子です。ボローニアっ子の彼にとってイタリア料理はボローニア料理だけなのです。Gardasee11

この4枚のイタリア北部のガルダ湖の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%80%E6%B9%96です。

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竹内義信氏の略歴:1958年、東北大学、応用化学科卒業。1960年大学院を修了。総合化学会社の帝人の研究所に就職。その研究所が彼の生涯の仕事場になったのです。その研究所からアメリカの大学へ留学し、博士号をとります。そして帰国後数年してから、今度はイタリーのミラノに派遣され4年間在住しました。大会社の研究所にいる優秀な研究者がよくたどる経歴でした。