後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

趣味としての宗教あれこれ(9)廃仏毀釈で日本の風景が変わった

2014年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム

明治元年から4年にわたる「廃仏毀釈」運動が全国に荒れ狂ったのです。そのヒステリックな民衆破壊運動で多くの貴重な文化遺産が姿を永久に消してしまったのです。その結果、江戸時代まで続いた神社仏閣の風景がすっかり変わってしまったのです。

その実例として長野県の戸隠山の風景を取りあげて見ましょう。

神仏習合の戸隠山顕光寺の数十の堂宇が破壊され消えて無くなりったのです。

そして戸隠山顕光寺というお寺は消滅し、戸隠神社になったのです。

明治維新の前には戸隠神社は存在していなかったのです。下に2011年に撮った写真を示します。

220_2 この写真は戸隠神社の奥社へ続くクマスギの参道です。

2011年7月2日にこの道を歩きながら私は明治元年の廃仏毀釈の様子を想像していました。

注意深く見るとこの並木の左右の背後に四角形の広い空き地が規則正しく並んでいるのです。それは異様な光景でした。

瞬間的に、これは廃仏毀釈運動で焼きつくされたお寺の焼け跡だと直感しました。

この杉並木の所にはお寺の数十のお堂が広がっていたのです。現在のような杉の大木が並んではいなかったのです。

狂気の群衆が戸隠山顕光寺を襲い、打ちこわし、焼きつくしを働いたのです。

数十の御堂にこもっていた僧侶は、仏像や美術品を抱いて長野県一帯の寺へ身を寄せたのです。

明治維新以前の江戸時代の戸隠山は顕光寺の門前町として宿坊や商店が立ち並び繁盛していたのです。

1612年に江戸幕府から千石の朱印状を貰いに、現在の奥社の所に本堂を構え、杉並木を植えたのです。そして戸隠山に散在していた経堂や講堂や阿弥陀堂などなどを整理統合して杉並木の両側に集めたのです。それは壮観な眺めだったに違いありません。

以下にもう一つの実例を示します。それは山梨県富士吉田市にある北口浅間神社の例です。下に2011年に撮った写真を示します。

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この北口浅間神社は江戸時代の末期までは、浅間大菩薩を祀る神仏習合の宗教施設だったのです。

それが明治維新直後の廃仏毀釈で仏教関係の施設や文化遺産が徹底的いに破壊しつくしたのです。それは驚異的にも徹底した破壊活動でした。ですから上の写真は江戸時代の様子ではなかったのです。江戸時代にはもっと絢爛豪華な仏教的な建物が取り巻いていたのです。

廃仏毀釈運動は明治元年(1968年)3月13日に発した太政官布告「神仏分離令」に端を発しています。それが明治維新という驚天動地の時期にヒステリックになった民衆の理由不明の不満と結びつき愚かで野蛮な打ちこわし運動になっていまったのです。

神道だけが良くてあとは全て悪いという単純化が運動を一層激しく燃え上がらせたのです。

ですから日本の全国の神社仏閣の風景が様変わりしてしまったのです。

宗教を趣味にしていると神社仏閣の風景の変化まで想像出来て興味がつきません。

なお余談ながら、その攻撃対象は神仏習合の佛教寺院や仏像に限りませんでした。

1865年、長崎の大浦天主堂でフランス人神父へ信仰告白をした隠れキリシタンも血祭りに上げられたのです。

浦上村の村民数千人が逮捕され、西日本の金沢、福井、萩、姫路、岡山、松山、高知、鹿児島などなどの刑務所へ分散留置されたのです。棄教し、神道を信仰するように拷問を受けたのです。

この事件は「浦上4番崩れ」という名前で有名な事件になったのです。勿論、「浦上4番崩れ」は江戸時代の末期に起きたのですが刑の執行は明治政府の裁判官が決定し、明治政府の刑務所へ送られ、拷問にあったのです。

その思想的な背景に「神道をもって新しい大日本帝国を作る」という思想が強くあったのです。その故に「廃仏毀釈」と深く関係があったと見るのが正しい歴史の見方と思います。

近代日本でようやく宗教の自由が認められ始めたのは明治4年以後の事です。

しかし天皇陛下の宗教を、仏教を否定して神道だけと明確に定めたのは明治天皇の時でした。そして第二次大戦のときの軍事国家では神道が中心的な宗教の役割を演じたのです。

現在の平成の時代になっても日本の天皇陛下一族の宗教は神道です。仏教とは縁が無いのです。

以下に廃仏毀釈の被害状況を研究した2つのブログのURLをご紹介しておきます。http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43.htm と

http://www.plantatree.gr.jp/oragafuji/maps/list.cgi/itsuwa/arekore/?52 です。

初めのブログには参考文献も5編ついています。立派な研究報告書です。

ご参照頂ければ幸いです。


夢多き人々の旅立ち(4)テレビ番組制作にロマンを求め続けた村木良彦君

2014年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム

村木良彦君が2007年11月に死んだ。筆者の中学の同級生です。月日の経つのは早いもので もう6年以上もたってしまったのです。

村木君は演劇部の仲間でした。大川君や佐藤徹君も同じ仲間でした。この仲間達とは高校卒業以来、ときどき会って来ました。お酒を一緒に飲みました。

しかし村木君だけ6年ほど前に旅立ってしまいました。

TBS社でテレビディレクターと活躍し、1969年にTBSから独立してテレビマンユニオンを作りました。その創立メンバーとして有名になります。

テレビマンユニオンでは「遠くへ行きたい」、「世界不思議発見」、「海は甦える」など歴史的に名を残す作品のプロデューサーの仕事をしました。名番組を続々と送り出したのです。

村木君は何時も物静かにしていますが、テレビ界の視聴率第一主義、金銭主義に強く反発して、常に良質の作品を作る夢を追い続けたのです。

彼のお葬式は2007年の12月に芝の増上寺で、テレビマンユニオン社葬で行われました。

彼の同僚の追悼文の朗読を聞きながら彼の視聴率第一主義へ強く反対していた様子がよく判りました。彼の情熱の炎が燃え続けた一生でした。夢の多い人生でした。

このブログでも村木良彦君の追悼文:あるテレビマンの死 を掲載しました。

村木君はあの世に居ます。もうこの世では会えません。しかしテレビの画面にテレビマンユニオンの字が出る度に村木君のことを思い出します。

彼とは中学校からの友人でしたから、彼の家にも何度も遊びに行きました。

同窓会で何度も会って話しましたが、彼は自分の仕事のことは一切話さないで、ニコニコ笑ってこちらの話を聞くだけでしした。

テレビ業界でも誰にでもやさしく、穏やかで、決して怒らなかったそうです。

ただ金銭第一主義には強く反発し、視聴率だけを狙った番組制作には終生反対していたそうです。何時も良質の番組をつくる情熱に溢れていたのです。

日本のテレビ番組の質的向上の夢を求め続けてきたのです。

そんな彼でしたが突然の病に倒れ旅立ってしまったのです。

時々、昔、仙台にいたころ村木君の家へよく遊びに行ったことなどをを思い出しながら彼を偲んでいます。

下に先週撮って来た仙石原湿生植物園の櫻の花をお供えいたします。

それはそれとして、今日も皆様の健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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