後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

あなたに沢山のバラの花(の写真)をお贈りいたします

2014年05月24日 | インポート

春バラも終わりかけました。昨日、近所のバラの栽培上手な家のバラの花々の写真を撮らせて頂きました。本物でなく恐縮ですが、写真だけでもお贈りいたします。
お楽しみ下されば嬉しいです。

ついでに薔薇の詩人を調べて見ましたら大手拓治の詩を見つけました。下に示します。

「薔薇の誘惑」
ただひとつのにほひとなつて
わたり鳥のやうにうまれてくる影のばらの花、
糸をつないで墓上(ぼじやう)の霧をひきよせる影のばらの花、
むねせまく ふしぎなふるい甕(かめ)のすがたをのこしてゆくばらのはな、
ものをいはないばらのはな、
ああ
まぼろしに人間のたましひをたべて生きてゆくばらのはな、
おまへのねばる手は雑草の笛にかくれて
あたらしいみちにくづれてゆきます。
ばらよ ばらよ
あやしい白薔薇のかぎりないこひしさよ。

(詩の出典は、http://nemurusyura.blog46.fc2.com/blog-entry-105.htmlです。)

大手 拓次(おおて たくじ、1887年11月3日 - 1934年4月18日)は群馬県碓氷郡西上磯部村(現安中市)、磯部温泉の温泉旅館・蓬莱館の家に生まれる。同県の安中中学校、高崎中学校、早稲田大学第三高等予科を経て、1907年9月、早稲田大学文学部英文科に入学。この頃より詩を発表しはじめた。1912年卒業。卒論は「私の象徴詩論」。

卒業後しばらくは、詩作のほかこれといった仕事をせず、貧窮に甘んじていたが、1916年にライオン歯磨本舗に就職。以後、生涯をサラリーマンと詩人の二重生活に捧げた。学生時代以来の左耳難聴や頭痛に悩まされ、その後もさまざまな病気で通院、入院を繰り返すなど健康状態は概して良くなく、最後は結核によって亡くなった。

生涯に書かれた詩作品は2400近くにのぼる。作品の発表を盛んに行っていたものの、生前に詩集が発刊されることはなかった。友人や詩壇とのつきあいに乏しく、生涯を独身で通したため、彼に関する偏見や誤解は、生前も死後も強かった。死後(1936年)に刊行された詩集『藍色の蟇』に寄せられた、北原白秋や萩原朔太郎の文章に見られる「亜麻色の捲毛に眼は碧い洋種の詩人」「仏蘭西語の書物以外に、日本語の本を殆ど読んで居ない」「永遠の童貞」などはその典型である。

( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%89%8B%E6%8B%93%E6%AC%A1より。)

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牧歌的な仏教国、タイで起きたクーデターが欧米流民主主義の限界を示す

2014年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム

タイにはプミンポン王がいて国民に尊敬されています。

憲法9条には軍隊はこの王様を最高司令官と規定しています。王様の軍隊という意識が強い国なのです。

このタイで5月22日に軍事クーデターが起き、インラック前首相と現閣僚全員やデモ隊の主導者達が拘留され、タイの国家運営はプラユット陸軍司令官がすることになりました。

国民を放り出した際限の無い政争に終止符を打ったのです。喧嘩両成敗を王様の軍隊が行なったのです。

これはタイの欧米流民主主義が軍隊によって蹴散らかされてしまったのです。

このような事件はタイでは日常茶飯事で過去すでに19回起きているのです。

このタイでの社会現象は欧米流の民主主義がアジア諸国ではその欠点が現れ、それが政治的制度の中に強固に根付かないことを示しているのです。

論を進める前に古都アユタヤの仏教寺院の風景写真を3枚示します。

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(3枚の写真は、和田フォトギャラリー感動写真集(宮嶋茂撮影)http://wadaphoto.jp/ayu1.htm より転載させて頂きました。)

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そもそも欧米人の間違いはギリシャ時代に端を発する民主主義が最善の政治体制であり、世界中の全ての国々がこの政治体制を持つべきだと主張することにあります。主張どころか強制し従わなければ経済制裁もしかねないのです。

欧米流の民主主義はイスラム文化圏では受け入れらていません。トルコはイスラム文化圏なのでEU加盟国には入れてくれません。

当然ながら共産主義国家にも受け入れられていません。

そして穏健なヒンズー文化のインドや仏教国ではその国特有の伝統文化と混淆し、欧米流の民主主義が変化して根付いているのです。

タイでは「欧米流の民主主義」と、「王様が小乗仏教徒を治めるという伝統文化」が混淆しているのです。

王様が治める国ですから王様の軍隊が時々社会の前面に出てくるのです。政治を任せていた人々が、国民の生活を忘れ、際限もない争いをしていれば、喧嘩両成敗をしなければなりません。タイ人にとっては自然なことです。

それがタイの軍事クーデター現象なのです。

それを欧米の尻馬に乗って軽薄な批判をしてる日本の新聞には失望を禁じ得ません。それより日本の民主主義の欠点を反省すべきです。民主主義を導入する過程で何処が意図的に曲げられたかを考えるべきです。

欧米で暮らしていると彼の地の民主主義がもっともっと個人の自由と尊厳を守っていることに気がつきます。日本の制度は確かに欧米流になっています。しかし民主主義の根底にある自由と平等の精神が根着いていないような感じがします。

制度は素早く真似するが、その根底にある精神は導入しないのが日本の欧米化の弊害なのです。

今回のタイのクーデター事件を見ながら感じたことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料===============

「インラック前首相拘束し軍施設に移送 出頭対象は100人超」http://sankei.jp.msn.com/world/news/140523/asi14052320130010-n1.htm より。

2014.5.23 23:55
タイのインラック前首相(ロイター)

タイのインラック前首相(ロイター)

 【バンコク=岩田智雄、シンガポール=吉村英輝】タイで22日に起きた軍のクーデターで、全権掌握を宣言した「国家平和秩序維持評議会」は同日深夜、評議会議長のプラユット陸軍司令官に首相権限を付与したと発表した。司令官は当面の間、事実上の首相代行となる。評議会は23日、タクシン元首相派の政治家や反政府デモの活動家らに出頭を命令し、バンコクの陸軍施設に同日出頭したインラック前首相を拘束した。

 事実上の戒厳司令部である評議会は、出頭に応じない場合は逮捕して訴追すると警告。現地報道によると出頭対象者は100人を超え、23日はインラック氏やニワットタムロン首相代行ら約40人が出頭した。インラック氏は同日、タイ中部の軍施設に移送された。

 評議会はまた、出頭対象者を含む155人に、許可なしに出国することを禁じた。タイではクーデターを受け、インラック氏らタクシン一族が国外逃亡するとの臆測が流れていた。

 一方、評議会は23日、軍との22日の会合出席後に拘束していた民主党のアピシット党首らを解放した。反政府デモ隊の「人民民主改革委員会(PDRC)」を率いるステープ元副首相や、タクシン氏を支持する「反独裁民主統一戦線」(UDD、通称・赤シャツ)の一部幹部らは、現在も拘束下にあるもようだ。

 プラユット司令官は、治安を確保しつつ、国際社会の非難やタクシン派の反発を意識して、早期の民政移管を目指すとみられる。

 軍当局は23日もバンコクなどで、UDDや反タクシン派の活動拠点で強制的にデモを解散させた。地元メディアによると、双方のデモ隊は同日中にバンコクの拠点から全員が退去したが、チェンマイ市などタクシン氏が地盤とする北部ではクーデターに反対する小規模な集会が開かれた。