日本語を勉強してからやって来たのです。
日本のカトリック信者の指導のためという訪問目的は一切言いませんでした。
江戸時代に殉教した全ての人々の霊に祈る巡礼の旅だと言うのです。ですから長崎へ行ったのです。
そして長崎にはアウシュビッツで友人のために命を捧げたコルベ神父が働いていた修道院を訪問し祈ったのです。
その姿勢はカトリックの一信者として巡礼をしている姿でした。その謙虚さに多くの日本人が感動しました。
左の写真は1981年にローマ法王のヨハネ・パウロII世が日本に来た時の写真です。
キリシタン殉教の地、長崎へ巡礼に行き、その折に長崎教区の神学生を神父に叙階する式をしてくれたのです。神学生の頭の上に手を置いて、叙階をしている写真です。
1981年の日本訪問の折には昭和天皇に会い、広島や長崎や東京で大規模なミサを開催しました。仏教界の代表者とも懇談しました。
日本でのミサは全て完璧な発音の日本語でしたのです。ただし発音だけで、意味は分からないと自分でも言っていたそうです。
昨日、ヨハネ・パウロ2世がカトリック教会の犯した大罪に対して謝罪したと書きましたが、書き落とした謝罪項目を以下に追加しておきます。
(1)フィリッピン、中南米に対して剣と武力を用いてキリスト教を広めた罪を謝罪した。 また十字軍の戦いも武力を用いた罪を認め謝罪した。
(2)第二次対戦中ナチスドイツの占領地での大量虐殺へ対してキリスト教が十分な抵抗をしなかったことを認め謝罪した。(私が追記すると、ソ連領内に侵攻したドイツ軍は1000万人のロシア人を殺戮したのです。)
(3)ドイツのユダヤ人への差別虐殺の責任の一端はキリスト教会にもあると認め謝罪した。
それはそれとして、ついで日本人の代表的なカトリック信者の高山右近にについて書いて置きます。
彼は武力で成り上がってきた猛々しい戦国武将です。終いには高槻城を有する大名になりました。しかし一旦カトリックを信じた以上節を曲げません。秀吉は、「棄教しなければフィリピンへ追放する」 と脅かします。
権力も財産も捨てて、彼は悠然と帆船に乗り込みフィリピンへ行きます。武力で秀吉へ抵抗して討ち死にするのが武士道の筈です。それをしないで平和的な道を選びました。フィリピンでは大歓迎されたようですが、一年後に病死したと伝わっています。
昨日、ヨハネ・パウロ2世の列聖の記事を掲載しましたところ、反響が大きかったので、追加としてこの記事をお送りしたと思います。(終わり)