後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

みずからの歴史の転換に直面する日本人(5)中国人と韓国人の侮蔑用語を平気で使う最近の日本人の民度の低

2014年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

歴史の転換期にはそれまでに無かったいろいろな社会現象が起きるのです。それは覚悟の上なので仕方が無いと諦めています。

しかしどうしても我慢出来ない悲しい現象の一つに最近の日本人がしきりに使う侮蔑用語の低劣さです。

韓国人や中国人を蔑み貶める呼び方を使うのです。それは戦前、戦争中の侮蔑用語や差別用語とは異質の新しい用語なのです。

中国人や韓国人を憎むのは個人の自由です。心の中で蔑むのも仕方がありません。

しかし自分の人格をも傷つけるような侮蔑用語を公然とネットのページに書きつける人が多いのです。

ネットでは匿名なので酷い呼び方を個人的に考えて平気で使います。

反中国や反韓国のネットのページに、最近、特に多く目につくのです。そのような下品な言葉を使わないで中国や韓国の何処がいけないのか堂々と書くべきです。

日本人はもっと誇り高い民族だった筈です。もっと民度の高い民族だったはずです。

最近、みずからの歴史の転換に直面している日本人たちが、右翼化を急ぐあまり下品な侮蔑言葉を使うのです。そんなことをしなくても時代が変われば歴史も転換するのです。

中国人や韓国人と対抗して争うのも個人の自由です。しかし日本人の誇りを捨てて民度まで下げる差別用語や侮蔑用語は使うべきではありません。

彼等の人格を尊重し、交流を深めるべきです。日本には昔から美しい富士山と桜花がありました。歴史の転換期にあたって、今日この頃感じていることを書いてみました。

下に山梨の山郷に咲く桜花の写真を掲載します。今年の4月に撮った写真です。

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世の中の不公平と不幸(2)子供の死が両親の離婚を引き起こす二重不幸

2014年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

人々の幸福は皆同じようなものです。仲の良い家庭があって生活に困らない程度の収入があれば良いのです。これは世界共通のことです。

しかし不幸な状況は個人個人まったく異なります。その上内戦が絶えない国と平和な国では不幸の原因もその状況も全く異なります。

ですから「世の中の不公平と不幸」という連載記事は際限が無くなりそうです。

しかし幾つかの類型的な不幸の原因を取りあげてみたいと思います。

今日は子供の突然の死が原因になる不幸について考えて見ます。

最愛の子供が突然、急病で亡くなったり交通事故で亡くなることもあります。あるいは自殺することもあります。誘拐されて命を落とすこともあります。

残された両親にとってこれほどの不幸はありません。食欲も無くなり夜も悶々として眠れません。こういう時は慰めの言葉も、宗教も一切無駄です。静かに静かに見守ってあげるだけです。

子供の死はその悲しみを両親が支えあって凌ぐだけです。残された夫婦は以前よりもっと深く愛し合い、その不幸を乗り越えなければなりません。多くの場合はそうなります。

しかし稀には残された夫婦がいがみ合い、攻撃し合い離婚する場合も多いのです。それまで真面目に働いていた夫も働く生きがいも無くなります。数年して気がつてみたら多摩川の河川敷で段ボールの家に住んでいたのです。それに近い話を聞いたことがあります。

この現象は子供の死、離婚、そして社会人失格という不幸が二重、三重に襲って来た現象です。

その原因はたった一つです。子供の死の原因をあれやこれやと悶々と考えることが唯一の原因なのです。すると自分が傷つき、夫を攻撃し、しまいには憎しみ合って離婚してしまうのです。離婚された夫も生きがいを失い多摩川に住み込んでしまうのです。

息子が高校生の時自殺しました。母親は自分の育て方が悪かったせいだと自分を傷つけます。父親が厳しすぎたからだと夫を攻撃します。そして離婚するのです。

息子が自殺した原因を考えてはいけません。本当の原因なは本人にしか分かりません。本人すら分からないのかも知れません。原因なんか存在していないのです。

原因があって結果があると思えば不幸がますます襲ってくるのです。

子供の死は悲しむべきです。徹底的に悲しみましょう。しかし原因など一切考えないで死を受け入れるようにします。残された家族同士が支え合うように努力しましょう。

宗教にすがるのも無駄かも知れません。しかし下の写真のようなお寺を散歩すると少し気分も平穏になるかも知れません。

日本は仏教国なのでお釈迦様の教えを思い出すのも良いかも知れません。

この世のものは全て儚いものです。どんな人にも死が訪れるのです。その死の時期は人間には分からないのです。ですからこそ儚いものなのです。その原因を考えることほど愚かなことはありません。それは弱い人間の迷いなのです。

それこそが無明の世界なのです。煩悩にとらわれた迷妄の世界なのです。

私はカトリックです。キリスト教では神様が呼び寄せてくれたと教えます。残された家族がそのように信じれば神様は絶対に悪いようにはしないのです。

しかしそれにしても世の中は不公平なものです。不幸が無数にあるものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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(写真の出典:http://jp-isan.com/eiheiji.html

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(写真の出典:http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eiheiji15s4592.jpg

永平寺で一番感激した場所はこの写真の長い、ゆるやかな階段です。修行僧が大切そうに磨いています。この階段をゆっくり登っていくと自然、自然にお釈迦様に近づいて行くように感じるのです。そして神々しい本堂の景観が急に広がっているのです。それは訪れた永平寺で何度も感動した場所でした。