人々の幸福は皆同じようなものです。仲の良い家庭があって生活に困らない程度の収入があれば良いのです。これは世界共通のことです。
しかし不幸な状況は個人個人まったく異なります。その上内戦が絶えない国と平和な国では不幸の原因もその状況も全く異なります。
ですから「世の中の不公平と不幸」という連載記事は際限が無くなりそうです。
しかし幾つかの類型的な不幸の原因を取りあげてみたいと思います。
今日は子供の突然の死が原因になる不幸について考えて見ます。
最愛の子供が突然、急病で亡くなったり交通事故で亡くなることもあります。あるいは自殺することもあります。誘拐されて命を落とすこともあります。
残された両親にとってこれほどの不幸はありません。食欲も無くなり夜も悶々として眠れません。こういう時は慰めの言葉も、宗教も一切無駄です。静かに静かに見守ってあげるだけです。
子供の死はその悲しみを両親が支えあって凌ぐだけです。残された夫婦は以前よりもっと深く愛し合い、その不幸を乗り越えなければなりません。多くの場合はそうなります。
しかし稀には残された夫婦がいがみ合い、攻撃し合い離婚する場合も多いのです。それまで真面目に働いていた夫も働く生きがいも無くなります。数年して気がつてみたら多摩川の河川敷で段ボールの家に住んでいたのです。それに近い話を聞いたことがあります。
この現象は子供の死、離婚、そして社会人失格という不幸が二重、三重に襲って来た現象です。
その原因はたった一つです。子供の死の原因をあれやこれやと悶々と考えることが唯一の原因なのです。すると自分が傷つき、夫を攻撃し、しまいには憎しみ合って離婚してしまうのです。離婚された夫も生きがいを失い多摩川に住み込んでしまうのです。
息子が高校生の時自殺しました。母親は自分の育て方が悪かったせいだと自分を傷つけます。父親が厳しすぎたからだと夫を攻撃します。そして離婚するのです。
息子が自殺した原因を考えてはいけません。本当の原因なは本人にしか分かりません。本人すら分からないのかも知れません。原因なんか存在していないのです。
原因があって結果があると思えば不幸がますます襲ってくるのです。
子供の死は悲しむべきです。徹底的に悲しみましょう。しかし原因など一切考えないで死を受け入れるようにします。残された家族同士が支え合うように努力しましょう。
宗教にすがるのも無駄かも知れません。しかし下の写真のようなお寺を散歩すると少し気分も平穏になるかも知れません。
日本は仏教国なのでお釈迦様の教えを思い出すのも良いかも知れません。
この世のものは全て儚いものです。どんな人にも死が訪れるのです。その死の時期は人間には分からないのです。ですからこそ儚いものなのです。その原因を考えることほど愚かなことはありません。それは弱い人間の迷いなのです。
それこそが無明の世界なのです。煩悩にとらわれた迷妄の世界なのです。
私はカトリックです。キリスト教では神様が呼び寄せてくれたと教えます。残された家族がそのように信じれば神様は絶対に悪いようにはしないのです。
しかしそれにしても世の中は不公平なものです。不幸が無数にあるものです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
(写真の出典:http://jp-isan.com/eiheiji.html)
(写真の出典:http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eiheiji15s4592.jpg)
永平寺で一番感激した場所はこの写真の長い、ゆるやかな階段です。修行僧が大切そうに磨いています。この階段をゆっくり登っていくと自然、自然にお釈迦様に近づいて行くように感じるのです。そして神々しい本堂の景観が急に広がっているのです。それは訪れた永平寺で何度も感動した場所でした。