後藤和弘のブログ

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不破 祐先生を偲ぶ会、日本の工学教育、そして技術者の世界

2014年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム

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東北大学工学部金属工学科の鉄冶金学講座の教授だった「不破 祐先生を偲ぶ会」が5月25日に神田学士会館でありました。参集者はこの鉄冶金学講座の卒業生、研究者、そして不破先生が顧問をしていた新日鉄の技術者たちの総数81名でした。私はこの講座の前の教授の的場幸雄先生の頃の卒業生でしたが不破先生にも大変お世話になったので出席しました。

上の写真はこの会の主催者であり、不破先生の後に教授に就任した井口泰孝先生(右)と日野 光兀先生(左)が司会進行をしている様子です。

二番目の写真は開会前から、会場の隣の応接間を埋め尽くした参加者の様子です。

不破先生や井口先生や日野先生は教育者、鉄冶金研究者として立派な業績をあげた方々です。その一端は不破先生の略歴として、参考資料の方にご紹介してあります。

この記事ではもう少し広い視野から日本の工学教育の素晴らしさや技術者の世界の温かい人間的な絆について書いて見たいと思います。

さて日本の工学教育の特徴とその素晴らしさです。

その教育方法は戦前の旧帝国大学の時代に確立された専門別の研究室(それを講座と言います)が全責任をもって完全な専門技術者の養成をする方法なのです。すなわち工学教育の仕上げと技術者の送り出しは専門別の講座の教授の責任で実行されてきたのです。

例えば全国の鉄鋼製錬会社の大部分の技術者は7つの旧帝国大学と東京工業大学の中に設置された鉄冶金学講座の卒業生なのです。

現在はこの古い講座制による工学の専門教育は少し開放的になりましたが高度な専門教育の良い伝統は脈々と流れているのです。

工学の専門教育は鉄冶金に限りません。例えば光通信工業分野の技術者は伝統的な大学に設置された電子工学科の光通信学講座の卒業生なのです。同じように日本の原子力発電分野の技術者の大部分は大きな大学の原子力工学科の卒業生なのです。

このような責任体制が明瞭な日本の工学教育の質の高さと日本の技術者の優秀さが戦後の経済の高度成長の原動力になった事実は否定しようがありません。

余談ながら私が東北大学の鉄冶金講座の大学院で修士教育を受けた直後に、オハイオ州立大学の金属工学科はその博士課程へ無試験で受け入れてくれたのです。

アメリカの講義のレベルは確かに高いものでしたが、日本の高度な専門教育を受けて行くと、悠悠とついて行けるレベルだという経験をいたしました。

今回の「不破先生を偲ぶ会」で感動したもう一つのことは日本の鉄鋼製錬技術者たちの非常に温かい人間的な絆です。不破先生は定年後10年以上の長きにわたって新日本製鐵の顧問として後進の育成に心血を注いだのです。その関係で出身大学に限らず新日鉄の製錬技術者が多数参集してくれたのです。

私自身も新日鉄へ招んでくれたり、共同研究をしてくれたりと文字通り親身の世話になった鉄鋼製錬の技術者の方々と20年ぶりのお会いすることが出来たのです。自分自身の忘備録としてその数人の名前をここに列記することをお許し下さい。

特に思い出の深いのは平岡照祥さん、梶岡博幸さん、大橋徹郎さん、溝口庄三さんです。

その上、1962年から1966年まで東京大学の鉄冶金学講座で一緒だった東京大学名誉教授の佐野信雄さんとは本当に久しぶりにお会い出来たことは感激でした。

日本の技術者は専門別の学会に所属していて一生お互いに温かい人間的な絆を持っているのです。鉄鋼製錬技術者は日本鉄鋼協会の春秋の研究発表大会で会い、一緒に懇親会で親しくなるのです。

このような人間的な絆は日本文化の特徴です。聖徳太子が「和をもって尊しとなす」と言われて以来連綿と続く日本の美しい伝統文化なのです。

そんなことを考えさせる「不破先生を偲ぶ会」でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料:不破 祐先生の略歴=============

不破先生は1915年に熊本に生まれ2013年に逝去されました。享年98歳でした。熊本の五高を経て、1941年の東北大学金属工学科を卒業されました。1946年には助教授になられ1954年から1957年までアメリカのMITに留学されました。

1962年に鉄冶金学講座の教授に就任され1979年に定年退職されました。

その後、1994年までの15年間を新日本製鐵株式会社の参与と顧問を歴任され、鉄鋼製錬現場の技術者の育成に盡したのです。

この間、日本学術振興会、日本鉄鋼協会、日本金属学会などの要職を務められました。

MIT 時代の恩師 J.Chipman先生、友人をはじめ世界中に非常に多くの親友を持たれ,堪能な語学力を駆使して鉄鋼製錬学の分野における日本の地位を高めることに大きく貢献したのです。また数多くの技術者の海外留学の行き先きを探し、推薦状を書き、親身の面倒をみたのです。

この国際的な貢献にたいして海外から数々の名誉称号が贈られました。一つだけ書きますとアメリカのNational Academy of Engineeringでは、日本人ではじめての会員として推挙されたのです。

このような学問的な活躍だけでなく不破先生はスポーツがお好きで、東北大学の陸上部の部長をされたり、ご自分ではマラソンがお好きで青梅マラソンにはよく参加せれていました。このような情熱的だった不破先生のご冥福心からをお祈りしてこの稿の終わりと致します。