(上の鎌倉の質素なお寺、明月院の開山堂です。私が好きなお寺です。写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9C%88%E9%99%A2です。)
老境に至ると知人友人の死に直面することが多くなります。
お世話になった方。幼少の頃可愛がってくれた人。親切にしてもらった近所の方々。生涯を通して親友であり大切だった人。兄弟姉妹の関係だった人。愛する親子の関係にあった人。妻や夫として一生を一緒に過ごした人。
旅立った人々とのこの世での関係はさまざまです。
どのような方でも亡くなれば、「ご冥福をお祈りします」と言い、亡くなった人の冥界での幸福をお祈りいたします。
お祈りすることは人間の美徳です。その祈る姿を故人は空の上から見て幸せな気分になります。そしてただ祈るだけでなく、その故人の死に本気で寄り添うことが重要なのです。
死に寄り添うとは、故人の全てを許し、同情することです。そして自分がどのように行動すれば故人が喜んでくれるかという視点から深く考えることが一番重要なことです。
愛する家族が急に亡くなったからといって何時までも悲嘆に暮れていたのでは故人は幸せになれません。
何故、急に亡くなったかとその原因をくよくよ考えたりすると自分も傷つけることになります。故人は決してそれを望んでいません。
お墓参りをしたり、綺麗なお花を供え、線香を上げるのは良いことです。そしてそれをしながら故人と会話をします。一体どのような行動をしたら故人が喜ぶか聞いてみるのです。気が動転して変なことをしていないかも故人へ聞いてみると良いものです。
返事をしてくれない故人との会話で一番重要なことは故人があの世で生きていて、空の上からいつも自分を見守っていてくれていると信じることです。信じれば答えが聞こえてくるのです。
よく仏教を知っている人が言います。人の生も死も一切が空です。ですから悲しむことは愚かですと言います。あるいは故人がキリスト教徒だった場合にはイエスさまが天国に上げて下さるから心配要りませんなどと言います。
しかしそんなセリフは遺族へ言ってはいけません。本当に悲しんでいる時は宗教は無力です。遺族の感情を傷つけます。
悲しい時には徹底的に悲しむほうが良いのです。悲しみぬいた先に一条の灯りが見えるのです。悲しみながらあの世に生きている故人と話をするのです。「私がどのようにすれば貴方は幸せに感じますか?」と一心に聞くのです。
私は、こんなことを、万一、家内が先に旅立った場合のために用意して考えています。
どこか間違っているでしょうか?ご意見を頂ければ嬉しく思います。(続く)