後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

この料理店を見るたびに賢治の「注文の多い料理店」を思い出す

2015年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム
田圃の上の山林の境にこの料理店が建っています。もう随分前に都会から引っ越してきた夫婦がしている西洋料理の店です。

この料理店は私の山小屋の近所にあります。秋になるとその周囲で、ススキの穂が白くなり、コスモスやシオンが咲いています。ですから毎年、秋になると必ず写真を撮りに行きます。

上のような写真を撮りながら何故か、宮沢賢治の「注文の多い料理店」を思い出します。童話の料理店はもっと深い山の中にあるのですが。
「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」も思い出します。
このテラスという西洋料理店は「西洋料理店 山猫軒」とは違います。お客にいろいろ注文を出しません。
しかし何時もお客があまりいないので淋しいのです。つい賢治の作品を思い出します。
「注文の多い料理店」のあらすじは下のようなものです。
イギリス風の身なりで猟銃を構えた2人の青年紳士が山奥に狩猟にやってきたが、獲物を一つも得られないでいた。やがて山の空気はおどろおどろしさを増し、山の案内人が途中で姿を消し、連れていた猟犬が2匹とも恐ろしさに泡を吹いて死んでしまっても、彼らは「2千4百円の損害だ」、「2千8百円の損害だ」と、表向き金銭的な損失だけを気にする。しかし、山の異様な雰囲気には気付いたらしく、宿へ戻ろうとするが、山には一層強い風が吹き、木々がざわめいて、帰り道を見つけることができない。途方に暮れたとき、青年たちは西洋風の一軒家を発見する。そこには「西洋料理店 山猫軒」と記されており、2人は安堵して店内へと入っていく。 入ってみると、「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはごしょうちください。」という注意書きがあるのに気付く。これを2人は「はやっている料理店で、注文が多いために支度が手間取る」という風に解釈して扉を開けると、そこには「髪をとかして、履き物の泥を落とすこと」という旨の注意書きがあるだけだった。以後、扉を開けるごとに2人の前には注意書きが現れる。中には「金属製のものを全て外すこと」といった少し首をかしげる注意書きもあったが、「料理の中に電気を使用するものがあって危ないからだ」というように、2人はことごとく好意的に解釈して注意書きに従い、次々と扉を開けていく。
しかし、扉と注意書きの多さを2人がいぶかしんだ頃、
いろいろ注文が多くてうるさかつたでせう。お気の毒でした。
もうこれだけです。どうかからだ中に、壷の中の塩をたくさん
よくもみ込んでください。

という注意書きが現れ、二人は顔を見合わせ、これまでの注意書きの意図を察する。
以下省略。続きは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A8%E6%96%87%E3%81%AE%E5%A4%9A%E3%81%84%E6%96%99%E7%90%86%E5%BA%97にあります。
そしてこの山郷の風景を見ながら「風の又三郎」を思い出します。又三郎もこのような田舎に転校して来た不思議な少年でした。
夜になり星空の輝きを見ると「銀河鉄道の夜」を思い出します。その物語は水死した親友を探しにいくカンパネルラの幻想的な鉄道の旅です。不思議な乗客が次々現れては消えていきます。淋しい悲しい、そして美しい物語です。
毎年、秋になり山小屋に行くとこの風景を見て宮沢賢治のことをあれこれ想うのです。
私の年中行事の一つです。
皆様は宮沢賢治の作品がお好きでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====つい参考資料を追加したくなります=============
短編集『注文の多い料理店』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A8%E6%96%87%E3%81%AE%E5%A4%9A%E3%81%84%E6%96%99%E7%90%86%E5%BA%97より。
短編集としての『注文の多い料理店』は、1924年に、盛岡市の杜陵出版部と東京光原社を発売元として1000部が自費出版同様に出版された。発行人は、盛岡高等農林学校の1年後輩にあたる近森善一となっている。書名には「イーハトヴ童話」という副題がついている。岩手在住の図画教師だった菊池武雄が描いた挿絵が付された。定価が1円60銭と比較的高価だったためもあり、ほとんどが売れ残った(当時の映画入場料は30銭ほど)という。
収録作品は下記の9作品である。
『どんぐりと山猫』
『狼森と笊森、盗森(おいのもりとざるもり、ぬすともり)』
『注文の多い料理店』
『烏の北斗七星』
『水仙月の四日』
『山男の四月』
『かしわばやしの夜』
『月夜のでんしんばしら』
『鹿踊りのはじまり』
これに、自らの創作姿勢と生き方について言及したと見られる『序』が添えられている。いずれも、末尾に年月日が付されており、それによるとこれらの作品は1921年から翌年の前半にかけて完成している。思うように売れなかったことに加えて、作品の評判も芳しくなかったため、賢治はその後に構想を立てていた一連のイーハトヴ童話集の出版を取りやめてしまった。このため、賢治の生前に出版された彼の単行本は詩集『春と修羅』と本作品集の2冊のみである。以下省略。