後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ミステリーツアー(1)とある空港に着陸し、とある山の中に泊まる

2015年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム
旅行業の会社はいろいろな魅力的なスケジュールを考え数日間のパック旅行として参加者を募集します。訪問する観光地の組み合わせが面白く、参加費が格安なので何度も参加しました。
普通は、訪問先の観光地やホテルが個人ではなかなか行けないような所もあり、老境の楽しみです。
このパック旅行は行き先やスケジュールを詳細に明記し募集するのが普通です。しかし行き先も宿泊場所の観光地の名前も一切秘密にして募集するミステリーツアーというものもあります。
宿泊日数と参加費だけを公表し。いきなり何月何日の何時に空港のある場所に集合するのです。旅はそこから始まります。航空券を渡されるので、とりあえ行き先の空港は判ります。しかしそれ以後の宿泊地やスケジュールは一切秘密です。
ミステリーツアーの魅力は思いもかけない美しい風景や普通のパック旅行では行かない観光地に行くのが楽しいのです。その上謎解きのクイズのよう面白さがあるのです。
今日は今回参加したミステリーツアーをクイズ風に書きますので、皆様も何処に行って、何処に泊まったかなどを想像なさって下さい。正解はこの記事の一番末尾に示します。
それでは今回のミステリーツアーを写真にしたがってご説明いたします。
下の写真は羽田を飛び上がった飛行機から見た美しい上空の風景です。

渡された航空券から帯広空港に降りることだけは判りました。広大な千歳空港でなく小さな帯広空港は、私共の好きな空港なので心が弾みなります。
下の写真は着陸した空港の風景です。白樺林を見ただけで、ああ北海道は良いなと!感じます。

そこからバスに乗り、あまり遠くないある観光地に行くと言うのです。下の写真は途中見た北海道らしい大地の広がりです。

下の写真は着いた場所です。廃線あとに小さな駅舎があるだけです。皆様、もうお分かりですね。

下はその駅舎の近くにあった紅葉です。

駅舎や記念の車両を見学した後は今夜のホテルに向かいます。下の写真のように北海道の大地に夕日が沈み、徐々にあたりは暗くなりやがて真っ暗闇になります。

周囲には人家が無く、真の闇です。平地から山に入りました。一時間以上も暗闇の中を走っていると次第に心細くなり不安になってきます。しかし行き先は教えてくれません。
心細い思いを我慢しているとやっと下の写真のような洒落たホテルに着きました。
下の写真は翌朝、ホテルの窓から撮った写真です。

さて次の日はこのホテルを8:15時に出発しましたが行き先は一切秘密です。
続きは明日書きます。
ところで今日見た大平原の畑作農地は誰がどのようにして作り上げたのでしょうか?
着陸した帯広や十勝平野の開拓は驚くことに依田 勉三と彼のつくった晩成社が民間事業として行われたのです。
彼は大志の人でした。明治15年、帯広村(帯広市)を含む十勝平野を開墾予定地と定め政府から未開地一万町歩を無償で払い下げを受けたのです。
一町歩とは3000坪です。一万町歩は3000万坪です。如何に広大な土地だったかがご理解出来ると思います。
そして10年間の辛苦の末に、明治25年頃には状況が漸く好転し食糧は足り、小豆・大豆の収穫も成功したのです。
明治35年にはバター工場を創業しました。他にも缶詰工場・練乳工場等も作ったのです。
このようにして、勉三と晩成社が手掛けた事業は何れも現在の十勝・帯広に根付く産業となったのです。大正4年に勉三は亡くなります。
しかし大正5年には晩成社の経営は上手く行かず事実上は活動を止めます。そして昭和7年に解散しました。
この依田勉三の開拓精神は尊敬すべきものでした。東北海道の人々は依田勉三を絶対に忘れません。
しかし一方、そこに住んでいたアイヌ民族にとっては明治維新は苦難の歴史の始まりでした。そしてアイヌ民族は消滅したのです。私自身は少年の頃、アイヌの小年の友人を持っていました。それだけにアイヌ民族の歴史も忘れられません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============
依田 勉三と晩成社による北海道の開拓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%9D%E7%94%B0%E5%8B%89%E4%B8%89
依田 勉三は、嘉永6年(1853年)生まれ 大正14年(1925年)に亡くなりました。北海道開拓者せした。
北海道開墾を目的として結成された「晩成社」を率い帯広市を開拓した。開墾に関わる業績から緑綬褒章を受章している。北海道神宮開拓神社の祭神。
明治14年(1881年)8月17日に北海道に渡った勉三は函館から胆振、函館に戻り根室に向かい釧路国・十勝国・日高国の沿岸部を調査し、苫小牧・札幌を経て帰途につく。
明治15年(1882年)には郷里の静岡で佐二平・園・善吾と勉三を発起人に、晩成社を設立し資本金を5万円とした。政府から未開地一万町歩を無償で払い下げを受け開墾しようというのである。学友の鈴木と鈴木の父・鈴木親長と共に横浜港から北海道に向かい札幌県庁にて開墾の許可を願い十勝に向かった。7月16日に十勝国河西郡下帯広村(帯広市)を開墾予定地と定め鈴木銃太郎と鈴木親長は帯広に残り勉三は帰国した。その頃の帯広にはアイヌが10戸程と和人が1戸あるのみだった。静岡では渡辺勝が移民の募集をした。
明治16年(1883年)4月に13戸27人が集まり横浜を出港した。4月14日、函館に着いた一行は海陸二手に分かれ帯広に向かい、1ヶ月後の5月14日に帯広に到着した。
帯広の開拓
明治16年(1883年)、帯広に入った一行をまず鹿猟の野火が襲い、次にイナゴの大群が襲った。食糧としてアワを蒔き付けするも天候の不順やウサギ・ネズミ・鳥の被害に遭い殆ど収穫できなかった。
明治17年(1884年)もまた、天候が優れず開墾は遅々として進まず、開拓団の間に絶望が広まっていた。勉三は米一年分を大津(現在の豊頃町)に貯蔵したが帯広への輸送が困難な状況であった。食糧不足を打開するため、当縁郡当縁村生花苗(おいかまない、現在の広尾郡大樹町)に主畜農業を経営する。
明治18年(1885年)には農馬を導入し羊・豚を飼育しハム製造を目指した。馬鈴薯澱粉を研究し、農耕の機械化を試みるが何れも上手く行かず、当初の移民は3戸にまで減少した。
明治25年(1892年)頃には状況が漸く好転し食糧は足り、小豆・大豆の収穫も目処がつくようになった。

当初晩成社の設立に当たっては15年で1万町歩の土地を開墾しようとの目標を掲げていたが、目標には遠く及ばず30町歩を開墾するのに10年を要す有様であった。
明治25年(1892年)11月の佐二平・勉三兄弟の叙勲から奮起し晩成社の事業を拡大した。会社組織を合資会社とし社名を晩成合資会社と改める。函館に牛肉店を開業し当別村に畜産会社を作る。帯広には木工場を作り然別村(現在の音更町)に牧場を開いた。
明治30年(1897年)に社有地の一部を宅地として開放すると多くの移民が殺到した。

明治35年(1902年)にはバター工場を創業。他にも缶詰工場・練乳工場等もあった。勉三と晩成社が手掛けた事業は何れも現在の十勝・帯広に根付く産業となったが当時晩成社の経営は上手く行かなかった。
大正5年(1916年)に売買(うりかり、今の帯広市南東部)等の農場を売却する事によって晩成社の活動は事実上休止する。
大正14年(1925年)には勉三が中風症に倒れ、9月には勉三の看病をしていた妻が亡くなり、12月12日、勉三は帯広町西2条10丁目の自宅で息を引き取った。享年73。勉三の死後昭和7年(1932年)に晩成合資会社は解散し、翌年の昭和8年(1933年)帯広は北海道で7番目に市制を施行した。勉三は、その死の間際「晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には…」と述懐したという。以下省略。
訪問先の正解:
最初に訪れた場所は「幸福駅」です。
泊まった場所は蕎麦の生産で有名な新得の北にある「さほろリゾート」のホテルでした。住所は北海道新得町狩勝高原です。