後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ミステリーツアー(2)ある農園でジャガイモを掘り、オホーツク海の岸辺のあるホテルに泊まる

2015年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は北海道へのミステリーツアーの2回目の連載記事です。
第一回と同じように写真に従って旅の内容をご説明します。
そしてその後で、北海道では有名ですが内地では有名でない江戸時代末期の北方探検家の松浦武四郎についてご紹介いたします。
彼は、アイヌの人達と共に生活しながら探検を続けました。アイヌを愛した明治期の官僚として、北海道という名前を付けた人です。そして北海道の地名の多くをアイヌ人の呼び方を尊敬し、アイヌの地名に漢字を宛ててつけました。その業績は今もなお生き続けています。
しかし明治政府のアイヌ民族へ対する圧政に反対して官僚を止めてしまいます。
明治政府に盾突いた官僚の事績は抹殺される運命にあるのは仕方が無いのです。ですから文部省検定の教科書には出てきません。しかし北海道の学校では必ず松浦武四郎について教えるそうです。そして北海道には彼の銅像や記念館が沢山あります。

それはさておき2日目のミステリーツアーは8:15時に新得町狩勝高原の「さほろリゾート」のホテルを出発しました。出発したらある峠に上がり眺望を楽しんで貰いますという説明しかありません。1時間ほど走りました。
下の写真がその峠からの眺望です。広い十勝平野の遥か向こうに太平洋が見えました。

その峠から東方向にある釧路湿原に続く畑作地帯を通ったらバスの上からあちこちに鶴が落穂をついばんでいる姿が見えます。鶴は一生同じ夫婦で過ごし子供も一緒だと言います。
下にその鶴の家族の写真を示します。真ん中の首がまだ黒くなっていないのが子供の鶴です。黒黒いのがその両親です。

さて今回のツアーで一番特殊だったのは主催した旅行社の契約農場でのジャガイモ堀でした。
下の写真はその農場に続く道です。

下の写真は家内が掘ったジャガイモです。ビニール製の手袋とアシブクロを付けて指で掘り出すのです。

下の写真は宅急便で自宅に着いたジャガイモです。左端の土が付いている箱のが彼女の掘った分です。

農作業をした経験のない家内がジャガイモを土の中から掘り出して興奮しているのです。大きいイモの周りに小粒のイモが沢山ついているのを見て感動しています。
私は戦争中のジャガイモ堀りをしたので今回は敬遠しました。
そのジャガイモの品種はキタアカリと言います。農場主が蒸かしたイモをサービスしてくれました。温かいイモが美味なのです。
今朝も家内が掘ったイモを蒸かしてバターを付けて食べましたが確かに美味でした。
このジャガイモ堀も秘密でした。それだけに一層楽しかったのです。
その後は農場の傍のレストランで昼食の十勝豚の丼とカツ丼を食べました。
下がそのレスランです。

午後は釧路湿原の西の畑作地帯と山の中をひたすら北に向かって1時間ほど走りました。
着いた所はある有名な湖でした。下の写真にその湖の風景を示します。

その湖からさらに北に走ります。次第に夕方になり夕日が沈みかけています。
下の写真にその夕日を示します。

しばらくして道を東方向に変えます。そして見覚えのある知床連山の西端の斜里岳が見えて来ました。ここで宿泊地がウトロではないかと想像がつきました。
ホテルに着いて見ると案の定、ウトロでした。
下の写真は翌朝、ホテルの「窓から撮ったウトロ港とその外側に広がるオホーツク海の風景です。

2日目のツアーで印象に残ったのは十勝平野の眺望と鶴の一家の姿でした。家内はジャガイモ堀の体験に興奮してそれが一番面白かったと言います。
3日目にはヒグマやエゾシカや北キツネを観ましたがそれは明日ご報告します。
さて松浦武四郎の生い立ちや北海道の探検と地名の命名のことは末尾の参考資料の、
(1)アイヌ民族を愛した松浦武四郎
(2)北海道の名前をつけた松前武四郎の生涯
で詳しく説明してあります。是非ご覧になって下さい。
そして全国を旅していると、その地方だけ有名な偉い人が沢山いることに気がつきます。
例えば五島列島に行くと人々が鉄川与助のことを自慢します。美しい天主堂や教会を沢山作った五島出身の大工の棟梁でした。棟梁と言うより教会建築家と呼んだ方がふさわしい人でした。
詳しくはhttp://allxa.web.fc2.com/a-map/jp_nagasaki/tetsukawa/tetsukawa01.htmlご覧ください。
一般的に中央政府の指示に従って大きな業績を上げた人々は文部省検定の教科書に乗り、学校でも教えます。しかしそれ以外の偉人は教科書では無視されるのです。何か寂しい文化ではないではないでしょうか?いろいろな地方に旅するとそんなことを考えさせられます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===========
(1)アイヌ民族を愛した松浦武四郎
http://matsusaka-machiaruki.jp/2012/11/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8-2/
「松浦武四郎」翁は北海道の名付け親として最近、北海道各地で記念碑が建てられるようになってきました。人権・観察眼・健脚・地図作製能力・アイヌの風俗画などで素晴らしい能力を発揮した人物でありながら、教科書の片隅にも載っていないことが残念です。しかし北海道では小学校のとき必ず松浦武四郎翁を授業で習うので みんな知っているそうです。道内に武四郎翁の碑が大小54か所もあり 、江差には武四郎翁を祀る神社もあるようです。
江戸時代末期の北方探検家の松浦武四郎翁は、アイヌの人達と共に生活しながら探検を続けました。差別心を持たない人権感覚に優れた官僚として、北海道の地名の多くを考えアイヌ語に漢字を当てはめていった業績は今もなお生き続けています。
(2)北海道の名前をつけた松前武四郎の生涯
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E より抜粋しました。
文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる[2][1]。松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。別書では、代々百姓で、父・桂祐の次男として生まれたとしている[3]。父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、文化的な素養を身に付けたとされる[4]。13歳から3年間、平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び、猪飼敬所、梁川星巌らと知己を得る[5]。

山本亡羊に本草学を学び、16歳から諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に[5]、弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し[5]、その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった[5]。安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。翌明治3年(1870年)に開拓使を批判して職を辞し、従五位の官位も返上した[6]。この間、北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺した。

余生を著述に過ごしたが、死の前年まで全国歴遊はやめなかったという。天神(菅原道真)を篤く信仰し(天神信仰)、全国25の天満宮を巡り、鏡を奉納した[5]。好古家としても知られ、縄文時代から近代までの国内外の古物を蒐集し、64歳のときには、自分を釈迦に見立て古物コレクションに囲まれた「武四郎涅槃図」を河鍋暁斎に描かせている[7][8]。また、明治3年(1870年)には北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描き、晩年の68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った。

明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去[2][1]。
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上記のミステリーツアーで行った場所
(1)初めに行った峠は狩勝峠でした。
(2)農場と昼食の食べた所は「丹頂の里」でした。
(3)午後に行った湖は阿寒湖でした。
(4)泊まったホテルはウトロ港前の知床グランドホテル北こぶしでした。