後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

川越藩の三富新田と薩摩芋で建てた江戸時代の大きな農家

2015年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム
農村風景は心を和ませてくれます。稲穂の香り、何処からとも流れてくる焚火の香りにはいつも懐かしい思いをします。それは美しい日本の原風景です。
農業をしたことの無い私はただ眺めるだけですが、何時もある疑問を考えています。
この美しい農村風景は何時、誰が、どのような努力をして作ったのでしょうか。
この疑問に明快に答えてくれる場所があります。それは昨日も行ってきた埼玉県の三芳町です。
埼玉県の指定旧跡になっている「三富新田」が現在は三芳町という名前になっているのです。その町の中心の通りを車で走っていると「さつま芋販売中」とか「本物の川越芋を味わって下さい」とかいう看板が幾つも出ています。そうですこの辺一体は薩摩芋の名産地なのです。
江戸時代の開発当初は水田が出来ないので苦労しました。しかし薩摩芋の導入によって成功した農村です。
その三芳町の中心部分に薩摩芋で財をなした江戸時代の農家が展示してあります。大きくで裕福そうな島田家です。
昨日撮って来た写真を示します。

上の写真のように非常に大きな農家です。

上の写真のように軒先が深くいろいろな道具が置いてあります。

上の写真は側面の様子です。

上の写真は現在の三富新田です。畑には里芋が生えていました。薩摩芋は収穫が終わって荒れた畑だけが広がっていました。

この花の写真は三芳町へ行く途中の道端で撮りました。
さてこの三芳町はどのように開拓され出来上がった町なのでしょうか?
元禄7年(1694年)に、この土地は、幕府評定所の判断で川越藩の領地になりました。
これにより当時の川越藩主柳沢吉保は新田開発を推進し、開発が行われたのです。
開発が始まってから2年後の元禄9年(1696年)に検地が行われ、上富91屋敷、中富40屋敷、下富49屋敷の合計180屋敷の新しい村々が人工的に出来上がったのです。これが三富新田です。「富」の由来は「豊かな村になるように」との古代中国の孔子の教えに基づくものと言われています。
余談になりますが柳沢吉保は私の山小屋のある山梨県北杜市柳沢の出身で江戸幕府で老中になった人です。
三富の地割は、水に乏しく栄養が少ないという厳しい自然条件を克服するためのいろいろな知恵が詰まっています。
例えば、屋敷の周りには、竹・カシ・ケヤキなどが植えられました。竹は農具や生活に使うものを作る竹細工の材料になります。カシは農具の柄になり、その実は飢餓のときの非常食になります。ケヤキは建材として大切に育てられました。これら屋敷林を育てたことにより、保水力が上がったと考えられています。
現在、三芳町に行くと江戸時代の欅が亭々と聳え、樹木の実に美しい町なのです。その樹木の景観に魅かれ何度も行っているうちに島田家の展示も見つけたのです。
この旧島田家住宅は江戸時代文化・文政期(1804~1829)に建築されたと考えられる茅葺屋根の民家住宅です。三富の開拓が、さつまいもの導入により豊かになったことを証明してくれる大型の家屋です。近郷農民の子弟を集めて寺子屋を開設していた時期もあるそうです。
場所は埼玉県入間郡三芳町上富1279-3(電話:049-258-0220)です。
アクセスは「三芳町旧島田家」を検索すると出ています。
考えてみると江戸時代は各藩が新田開発を盛んにした時代だったので全国各地に三芳町のような新しい農村が沢山あると思います。
皆様のお住まいの地方にはどのような新田開発の歴史があるでしょうか?
お知らせ頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)