後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

秋が深まりゆく山郷の風景の写真を撮ってきました

2015年10月05日 | 写真
昨日、午後に家を出て甲斐駒の山麓の小屋に泊まってきました。
山小屋は冷え込み、薪ストーブが楽しかったです。

今朝は清春美術館近辺に遊び、「八ヶ岳の風」というレストランで昼食をとりました。

秋が深まりゆく山郷の風景の写真をお送りいたします。一部の写真は家内が撮りました。 写真をお楽しみいただけたら嬉しく思います





















横山美知彦著、「ある幼な友達との惜別」

2015年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
 終戦の前後に家内は群馬県の山里の下仁田町に疎開していました。その縁で私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。
上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。現在の下仁田町は昔の日本そのままのようなたたずまいです。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。
その横山さんがときどき山里に暮らす四季折々の随筆や写真を送って下さいます。 今日は先週の末に、横山さんから送って頂いた文章をご紹介いたします。
写真は下仁田町です。
====横山美知彦著、「ある幼な友達との惜別」=======
平成27年7月、例年より早目に梅雨が明けて、夏の日差しが照りつける季節に入った24日、掛川正弘君が亡くなった。享年78歳、数年の闘病生活の末だった。彼とは小学校に入る以前からの友だった。
昭和18年秋、東京板橋に家族五人で住んでいた私は太平洋戦争が増々激しくなり、既に東京上空に米軍の爆撃機が襲来を始めていた様相を父が察知して、早めに田舎への引き揚げを考え、下仁田仲町内に家を確保し、引っ越しして来たのだが、都会の建物と違い家が広すぎた。  
数か月後、小学校裏に手ごろの家を見つけ、二軒長屋の東側の八畳に六畳、三畳ほどの板の間に台所の付いた家を借り、生活が始まった。その後二人の弟、妹が生まれ家族は七人となった。
 そこは西牧川が目の前を流れており、北側の前方に妙義山を眺める事の出来る絶景な場所だった。私は高校を卒業して都会に出るまでの約12年間を過ごした。

掛川正弘君(私はマーちゃんと呼んでいた)は、兄弟の多かった(8人兄弟)中の末子で、下仁田町内では珍しい農家であり、母親は「蚕」を飼育し、その繭から糸を紡いで「機(はた)」を操り立派な絹の反物を完成させていた。
マーちゃんの家は、正確には家畜小屋を除いて三棟の建物があり、農家本来の役をそれぞれ果たしていた。
一番古い昭和の初めからの建物は、入り口が東向きで、広い庭を隔てて新しい母屋が有り、入り口は古い建物から見ると北側で、建物の左側やや奥まった先に「蚕家(かいこや)」があり、二階は「蚕」を飼育する本来の「蚕家」で、一階は入った所に「機織り機」が据え付けてあった。

古い建物は、私の記憶では入り口を入るとやや広い土間があり、上がり框(かまち)の先の「囲炉裏(いろり)」が日夜(にちや)火を絶やすことなくゆっくり燃えており、鉄瓶が「じざい鍵」に吊るされ湯を滾(たぎ)らせており、常に家人の口をうるおすお茶の準備が備わっていた、そんな記憶がある。
「囲炉裏」の右先は厨房と云うか昔風の流し場と泥に稲わらを加えて練りあげて家人が作った竈(かまど)があった。

家族の多かった掛川家の日常の食事の世話を一手に引き受けていたのは、二番目の姉(残念ながら名前を忘れてしまった)で私が遊びに行くと必ず作り置きの何かを手に握らせてくれた。
特に印象にあるのは自家製の「味噌」を加え、小麦粉に重曹を入れて「囲炉裏」に焙烙(ほうろく)を乗せ、その上で焼いた「焼きもち」だった。これは旨かった。
 私にとって戦後の物のない時分のこの食べ物は一生記憶から遠ざかることのない最たるものだった。
掛川家の庭の周辺には、「梅」「ぐみ」「柿」の木があり、他に「こんめ」(小梅ではなく、「さくらんぼ」より小ぶりの甘い赤い実をつける木)の木があり、出来秋には、その木によじ登って赤く熟した実を口に頬張るのが楽しみだった。「ぐみ」の実はやや渋みがあったが、これも子供にとっては楽しみの木の味だった。
  
春、秋には蚕を育て、桑の葉を「蚕家(かいこや)」に運ぶ手伝いを上の兄達がしていた。蚕(下仁田地区では親しみをこめて<おこさん>と呼んでいた。)は卵から蛾(が)、蛹(さなぎ)、幼虫となり、その幼虫が桑の葉を思う存分た食べ、あんなに小さな生き物から、あの繭が出来るのかと不思議に思ったのが蚕を最初に見た時の印象である。蚕は「蚕(かいこ)籠(かご)」(畳一畳ほどの竹で編まれた籠を何枚も使う)にいっぱいに撒かれた桑の葉をそれは感心するほどよく食べる。静かに耳を立てると他では絶対に経験出来ない、神秘的な音を立てながら昼夜関係なく彼らは桑の葉を食べる。「もぞもぞ」か「さくさく」か他に例えを探せない音が聞こえるのだ。70歳を過ぎた現在でも私の耳の奥に残っている。
 桑の葉を大量に食べた蚕は、やがて身体の色が白色から透明に近い色(?)に変わる。触ると「マシュマロ」の様な感触だ。此の頃になると口から糸を出す様になり、繭になる時期も近い状態なのだ。
 家人はそれを経験から悟り、彼らが糸を吐き出し繭にしやすくさせるべく「まぶし」(蚕の家=何度も使える段ボール等で作ったもの)を設置する。
 「まぶし」に家人が手で蚕を適当に静かに置いてやると、不思議にそれぞれが我が家を見つけ、糸を吐き出し繭を作る。卵が生えてから25日前後で蚕は自分の吐き出した糸の中に埋もれてしまう。
 私も毎日見ていたわけではないので、詳しくは知る由もないが、完成された様子を家人が確認して、ひとつひとつ丁寧に「まぶし」から取り外し一か所に集める。きれいな光沢のある繭が山の如く積まれる。
機械での作業と違い各農家での手作業であり、出来上がった時の喜びは格別であったに違いない。昔は多かれ少なかれこの様な作業で繭を作り出荷したり絹織物を家で作っていたのだ。
 明治5年、富岡製糸場の様な近代的な大量生産の可能な工場によって生産されて行くのだが、その元は各農家の弛まぬ努力によって受け継がれて来たこと、貴重なものである。終戦後も農家では蚕を飼い、絹織物の製作や、国策の一端の外貨獲得に尽力して来た。これは70年前の記憶を辿ってまとめたもので、違いや誤りがあるかと思うが容赦願いたい。
そんなわけで「マーちゃん」も家族の日常の行動を目にして手伝いをして来たが、中学卒業後直ぐに上京し、田舎の親戚の伝手(つて)で池上本門寺の近くの「こんにゃく」の製造、通称「こんにゃくのねり屋」に就職した。彼にとってこれが都会での生活の一歩だった。その後は盆、暮れ位に帰郷した時に顔を合わす程度で日常は同じ都会に居ても会う機会は殆どなかった。
彼は辛抱強く「こんにゃくのねり屋」の仕事に精を出し、その後座間市内に土地を買い自営を始める。真面目な性格であったこと、田舎から嫁を貰い、順調に上がって行き、神奈川県の蒟蒻組合の役員になるまでに成功した。 
平成に入り50歳を過ぎた頃から体に異常をきたし幾つかの「癌」の手術をして何とか頑張って来た。息子が二人居たが「ねり屋」は継がず、仕事は一代で終わると同時に、息子の商売の「バイク」関係の店に自宅を鞍替えした様だ。
二年前に自動車の免許も返上し、帰郷はバス、電車を乗り継いで奥さんと一緒に楽しそうに帰って来た。そして今年5月に夫婦で来たのが最後となってしまった。
 15歳で田舎を出て、63年間の都会生活を満喫し、7月24日神奈川県内の掛りつけの病院で78年の生涯を終わった。
不思議と人間は、特に地方出身者は、場所が代わっても自然に近くに居を構える様だ。近くに数人同窓生が居り、すぐに田舎の同窓生に連絡があった。
数年前まで大和市に居て現在富岡市に転居しているA君からの電話で、告別式の行われる葬儀場(大和市)に同行し焼香させてもらった。
棺に収まった彼はきれいな顔をしていた。自然に「マーちゃん!」と声が出た。
昔、川原で遊んだ幼い頃を思い出しながらのことでもあり、それ以外は声にならない永遠の別れの瞬間でもあった。(平成27年7月28日)