後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

山郷、下仁田町に昔と変わらず山車が勢揃いする諏訪神社の秋祭り

2015年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム
全国の過疎地では神社の祭りが途絶えているそうです。御神輿を担ぐ人や山車の準備をし、それを引く人がいないのです。
村の鎮守さまの祭りという風物詩が一つ、また一つと消えて行くのは淋しいものです。
しかし群馬県の山あいの町、下仁田町の諏訪神社の秋祭りは7台の豪華な山車が勢揃いして、天保年間(1830~1844)から続く昔のままの賑わいで、今年も10月10日と11日に行われました。
終戦の前後に家内は群馬県のこの下仁田町に疎開していました。その縁で私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。
上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。昔の日本そのままのような町のたたずまいです。
このような山あいの小さな町で京都や高山のような豪華な山車が7台もあることが不思議です。
そこで少々調べてみました。
そうしたら諏訪神社の歴史が面白いのです。
昔からあった八幡神社が戦国時代に諏訪神社と変わったのです。その頃、武田信玄が下仁田町を占領し、自分の領地だった諏訪盆地の由緒ある諏訪神社を勧進して名前を変えたのです。
その後、江戸時代になって、諏訪神社は天保8年(1837)に再建されたのです。
その時の棟梁は信州諏訪市の矢崎善四郎とその弟子たちでした。
拝殿・本殿の壁面や虹梁は彫刻でうめ埋められていいます。彫刻師の腕が偲ばれる諏訪の大隅流の技を伝える傑作なのです。
本殿、拝殿の彫刻は、さだかではありませんが、遠く飛騨の国の工匠の作とも言われています。従って豪華な山車は飛騨の高山から伝承さたものとも考えられます。
この下仁田町の諏訪神社の見事な彫刻は3枚の写真で示します。
そして下仁田町の秋の祭りの様子は横山美知彦さんの送ってくれた3枚の写真と、彼自身の文章で示します。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。
======秋の風物詩・・・祭りと山車:横山美知彦=====
10月半ばになると、昼間の澄み切った秋の空の終わりに、夜の帳が足早にやって来る。お祭礼の提灯の明かりが何となく気分を、幼かった頃に引き戻してくれる。
かすかに見ることの出来るその明かりは、いったい何を私に訴えようとしているのだろう。そして何を教えようとしているのだろうか。遠くから静かに聞こえて来る笛や太鼓の独特な音は、私を特別な世界に引き入れてくれる。
町内を引き回す「山車」には、触れることさえ出来ず、上ずった気持ちとは裏腹に、遠巻きに眺めるのがやっと、と云う希望の叶えられないもどかしさを胸に秘めていたことなど、少子化の現在では想像さえ出来ない。山車の上から聞こえて来る笛、鐘、太鼓の音が、乱れる様に祭りを盛り上げる。山車の周りに取り付けられた、組々の提灯が左右に揺れる。正面の高い所に座した、町内自慢の人形も、山車の動きに合わせるが如く僅かに揺れる。・・・深まりし秋の祭りの笛の音は遠き昔と変わることなし・・・
下仁田の町内に位置する、諏訪神社は元は八幡社であったとのことだが、諏訪の 諏訪大社(長野県諏訪市)を崇拝した甲斐の武田氏の勢力が、国境を越えてこの地に進出したときに、現在の社名に変えられたと考えられる。今年の例大祭も10月10日、11日の二日間、町中を賑わし事故なく終了した。町内には七基の山車がある。何処でもそうである様に下仁田町でも若者が減ってはいるが、幼い頃から親しみ、目にして来た祭りには、遠方に居住を移して後も自然に集まり、旧交を温め会い、胸をわくわくさせ、山車に群がり、掛け声をかけながら夜遅くまで綱を引く。こんな状態がこれからも永く続くことを願っている私も、その一人である。
(注:上の文章は昨年の10月に頂いたものを再掲載させて頂きました。)
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このようにして山あいの町の例祭も終わり、静かに秋が深まっていくのです。
今年の春に行った町の裏山の妙義山も紅葉が美しくなっているのでしょう。
皆様のお住まいの土地ではどのような秋祭りが行われるのでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)