後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

チャイコフスキーの白鳥の湖、冬の猪苗代湖のロマン

2018年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム
冬になると全国の湖や河に美しい白鳥が極寒のシベリアから4000kmも飛んで来ます。そして暖かい日本で冬を過ごします。
以前に23年間、霞ヶ浦にヨットを係留していたので毎年冬になると純白の白鳥の群れがやって来るのを楽しみにしていました。
その中の一家4羽だけは霞ヶ浦に住み着いていて仲良くなったものでした。
人間は白鳥の姿にロマンを感じるのです。
チャイコフキーは有名な「白鳥の湖」を作曲し、数多くのバレエが日本で公演されてきました。
そしてサンサーンス作曲の「白鳥」も「瀕死の白鳥」という題で日本では何回も公演されています。日本人はこの2つのバレエが好きなのでしょう。
そこで、この2つのバレエの動画を次にお送りいたします。是非この美しい映像をご覧下さい。
チャイコフスキーの白鳥の湖、O Lago dos Cisnes (Swan Lake) - Final
https://www.youtube.com/watch?v=uauwx-cBd0s
サンサーンスの「白鳥」、The Dying Swan / Ulyana Lopatkina / 瀕死の白鳥
https://www.youtube.com/watch?v=82kWFGttaX8
白鳥にはオオハクチョウとコハクチョウの2種類がありますが日本に飛来するのはコハクチョウが大部分です。
コハクチョウはオオハクチョウより一回り小さいだけで生態はほとんど同じです。
食べるものは水草の葉、茎、地下茎、根、果実、落ち穂、マコモなどの植物で草食性の鳥なのです。
水に潜れないので魚や貝は一切食べません。逆立ちして水中に上半身を入れ、水底の草などを食べます。草食性なのに大きな体でシベリアから往復することは驚きです。
それでは冬の猪苗代湖のコハクチョウの写真を3枚お送りします。

この3枚の猪苗代湖の白鳥の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/y58122001/50010408.html です。



猪苗代湖の白鳥は10時過ぎの昼間になると周囲の水田へ飛んで行って長時間、根気良く落穂を拾って食べています。
ある時、そんな光景を見てガッカリしました。大きな水掻きのついた足でベタベタ歩き回り水田の泥にまみれた姿は、あまりにもバレエの白鳥と違うのです。所帯じみた姿だったのです。夕方になると寝る場所の猪苗代湖に帰ってきて羽根の泥を洗うのです。
こうして冬を日本各地で過ごしたコハクチョウは春になると産卵地のシベリアの湿原を目指して飛び立って行きます。
渡る時は一気に目的地へ飛んで行くのではなく、途中で食べる草木が芽生えるのに合わせながら休み休み飛んで行きます。
その様子は次の4番目の図面に示します。

4番目の写真は北海道で送信機を装着したコハクチョウの移動状況の図です。写真の出典、
http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/bird_flu/migratory/migration_route.htmlです。
平成23年10月30日に終了した調査は次のように行われました。
新潟県で越冬していた1羽は3月中旬から下旬の間に越冬地を出発して北海道に渡りました。サハリンを経由後オホーツク海を越え、5月中旬にロシア東部に上陸しました。内陸部を北上して6月上旬にロシア北東部の湿地帯に到着して春の渡りを終えました。その同じコハクチョウは9月下旬に秋の渡りを開始し、オホーツク海を縦断後アムール川河口付近を経て、10月下旬に捕獲地に到着しました。10月30日の時点で同地に滞在しています。
その他の2羽は北海道で越冬していました。この2羽は4月下旬から5月上旬にかけて春の渡りを開始しました。
1羽はサハリン、1羽はサハリンとアムール川中流部を経てオホーツク海を縦断しました。サハリン経由の1羽は5月中旬、アムール川経由の1羽は6月上旬にそれぞれロシアのマガダン州に上陸しました。その後内陸部を北上し、6月上旬から下旬にかけてコリマ川河口付近の湿地帯に到着して春の渡りを終えました。そこで産卵、繁殖したと想定されます。
そして2羽は9月下旬から10月上旬にかけて秋の渡りを開始し、10月30日の時点で、1羽はサハリン北東部沿岸、もう1羽はアムール川河口まで南下してきていました。
このような調査を繰り返し、現在はハクチョウ、雁(ガン)の渡りのルートと中継地はかなり明確に解明されています。

5番目の写真はハクチョウや雁(ガン)の渡りのルートを纏めて図示したものです。
その出典は、http://www3.famille.ne.jp/~ochi/bird/hakucho.html です。
この総合的な図面はロシアと日本の研究者の共同調査の結果です。
調査方法は、夏、シベリアの繁殖地で渡り鳥に標識をつけ、その標識の目撃情報を集めたり、渡り鳥につけた発信器による移動調査が行われました。
その結果ハクチョウの飛行距離は、オオハクチョウは3,000km、でコハクチョウは 4,000kmくらいと分かりました。日本から離れた北緯50度以北のシベリアから日本へ渡って来ていたのです。
渡り鳥の飛ぶコースは、カムチャツカ半島から千島列島を経て北海道へ渡るコースと、サハリンを経て北海道へ渡るコースの2つがあることも分かっています。
ついでに冬のシベリアの風景写真を2枚お送りします。

冬のシベリアの風景写真の出典は「冬のシベリアの風景写真」を検索してお借りしました。

この今日の記事で猪苗代湖の風景を選んだ理由は、この湖に特別な思い出があるからです。
この湖で、今は亡き大学時代の友人のヨットで「花春カップ」というヨットレースを一緒に楽しんだ思い出があったからです。
そのことは「猪苗代湖の美しさを見た石器時代、縄文時代、古墳時代の人々」(2017年08月29日掲載)という記事にあります。

それにしても碧い冬の湖に浮かぶ白鳥の姿は美しいものですね。
その姿を見ると多くの人々はチャイコフスキーの「白鳥の湖」やサンサーンスの「白鳥」を想うに違いありません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今朝の雪、賢治の「永訣の朝」を思い出させる

2018年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム
今年は雪が多いですね。1月22日に降って庭に積もった雪が消えないうちに昨夜から今朝まで降っています。今も窓の外の暗い空から絶え間なく美しい雪片が舞い降りています。
庭の様子の写真です。





見上げる空には雪雲が低くかかり暗い陰惨な風景です。このような暗い雪を眺めていたら賢治の「永訣の朝」という詩を思い出しました。
雪の降る日に死の床にいる妹が賢治に雪を取ってきてくれと頼みます。兄の取って来た雪を食べてやがて妹が死んでいきます。そんな悲しい詩ですが岩手の方言で書いてあるので分かり難い詩です。
まず詩の説明を読んでから賢治の「永訣の朝」をお読み頂きたいと思いいろいろ調べました、
そうしたら長谷川 義明さんの素晴らしい説明を見つけました。
以下は http://www.chukai.ne.jp/~mechinko/kenji03.htm からの抜粋です。

「永訣の朝」

・・・(妹の とし子は、いきなり、枕元にあった二つの欠けた陶椀を賢治の胸元に突きつけて、
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と叫ぶ。「雨雪を取って来てちょうだい」と叫んだのである。
この陶椀には青い蓴菜(じゅんさい)の模様がついている。小さいときからこの兄妹は仲よく
この二つの陶椀でご飯を食べてきた。この欠けた陶椀は兄妹の変らぬ愛情の象徴なのである。
その時 賢治は、曲った鉄砲玉のように、あっちへぶつかり、こっちへぶつかりしてやっと
戸口から外へ飛び出した。
暗いみぞれの中に立って初めて賢治は、妹の真意をさとる。
このまま妹が死んだら、賢治は生涯返すことのできない負債を負うことになる。
妹さえも安心させ得なかった者がどうして他人をしあわせにできるかという思いが生涯つきまとう
ようになる。そうさせないために、兄の一生を明るいものにするために、泣くような思いで
妹は陶椀を突きつけたのだと、賢治はみぞれの中でさとるのである。かれはこう歌った。)・・・

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
うすあかくいっそう陰惨な雲から
みぞれはぴちょぴちょふってくる
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
青い蓴菜のもようのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといういまごろになって
わたくしをいっしょうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを


・・・(こうして賢治は、二つの御影石の置いてある場所へやって来て、その上に危く立ち上る。
それから手を伸ばして、松の枝に降り積んだみぞれを二つの陶椀の中にそっと移し入れる。
みぞれ、それは雪でもなければ、水でもない、雪と水との二つの相を持ったもの、
いいかえると、天上的なものと地上的なものとの二相系を保っているものである。
これこそ死んで行く妹にふさわしい食物といえよう。
賢治がこの雪のようなみぞれを取ろうとした時、それはもう、どこを選ぼうにも選びようがないほど、
どこもかしこもまっ白であった。どこもかしこも仏の世界であったといっていい。
あんなに恐ろしい乱れた空から来たとは思えぬほど純白な雪の姿であった。賢治はそれをこう歌う。)・・・

ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまう
( Ora Ora de shitori egumo )ほんとうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびょうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらぼうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ


・・・(賢治はこの二椀の雪を妹のところへ持って行った。
「これを食べれば、おまへは安心して仏さまのところへ行かれるのだよ」という思いをこめて、
この雪を妹に食べさせたのである。その時、とし子はこう云った。)・・・

うまれでくるたて
こんどはこたにわりゃのごとばかりで
くるしまなぁよにうまれでくる


・・・(「また生まれて来るのなら、今度はこんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれて来る」とは、
「今度生まれて来る時は、こんなに自分のことばかりで苦しまず、
ひとのために苦しむ人間に生まれて来たい」
と云うこのけなげな妹のために、賢治は祈らずにはいられなくなる。)・・・

以下省略します。
最後に説明文を書いた長谷川 義明さんの自己紹介文を抜粋してお送りします。
・・・ わたしがお経を読み始めたのは、多分7歳か8歳の時だったと思う。はっきりとは覚えていない。
ただ、ひらがなを覚えた時期と、そうは変らない事だけは確かだ。
わたしが子供の頃は、毎月1日と13日には信者の人がうちにおまいりに来てて、
お勤めが終るとお供えを皆で分けるのだが、その時に一部はその場で茶菓子にして食べる。
そのお菓子目当てと、廻りの人が「偉いなぁ~」とか言ってくれるもんで、
ついその気になってやってた訳で動機は極めて不純だった。
・・・そして、常に心に微笑みをたやさないように、人々の幸せを願ってやまないように。
生きとし生けるものすべての命を尊敬し、尊重し、衆生の佛心に生かされて生きている事を忘れずに、そんな風に生きようと怠惰で欲深な自分自身と戦い続けたい、そして普通に苦しみながら死んで行けば良い。
楽に死にたいなどと、思わない。・・・

皆様ご存知のように宮沢賢治も法華経の信者でした。賢治も他の人々の幸せを願ってやまなかったのです。
長谷川 義明さんは深く深く賢治の作品を理解していたに違いありません。
そんなことを考えながら今日は庭に降る雪を眺めながら一日を過ごしたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)