昨日は一人で車を駆って多摩川上流の写真を撮って来ました。多摩川を鳩ノ巣までさかのぼりました。
御岳駅の先に川辺に車で下りられる場所があります。そこから撮った冬の寒々とした多摩川の風景写真をお送り致します。
このような風景を見ながら今日の記事の構想を考えて来ました。
そしてこんなことは今更書かないほうが良いではないかと悩みました。
こんなこととはアイヌ民族を差別し衰微させた北海道旧土人保護法のことです。
過去の嫌なことは忘れたいものです。しかし奥多摩から帰りの車の中で決心しました。やはり短くても書いておこうと。
今日の記事の内容は次の2つの記事の続編のようなものです。
1、「外国人観光客が日本を絶賛する5つの理由」(2018年01月25日)
2、「絶滅寸前のヨーロッパの少数民族(5)絶滅する必然的な3つの理由」(2018年01月30日)
さて1番目の記事では何故日本の評判が良いか次の5つの理由を上げました。
(1)いろいろな差別が消え、完全に平等な国
(2)幼少時から好きだったアニメ番組を作った国
(3)人々が親切で何処へ行っても安全な国
(4)清潔で世界一豊かな食生活が楽しめる国
(5)73年間、平和が続いた平穏で風光明媚な四季のある国
このように現在の日本は良い国の代表のようになりました。
しかしここに至るまで明治維新からいろいろな反省すべき間違った政策をとってきたのも事実です。現在の価値観から考えて間違っていたのです。
それは2番目の記事の中にある少数民族の絶滅の次の3つの原因と深く関連していることです。
(1)少数民族は周りの多数民族に比べて圧倒的に貧しい。
(2)少数民族は自分固有の言語や伝統文化を捨て経済的に豊かな生活をしようとします。
(3)周囲の多数民族の同化政策と圧迫により少数民族の言語や文化は外部から崩壊させられる。
アイヌ民族は寒い北海道に住んでいて、主に獣猟や漁猟と採集に頼る生活をしていました。明治維新当時のアイヌ民族は和人に比べて圧倒的に貧しかったのです。
従ってアイヌ民族の一部は自分固有の言語や伝統文化を捨て和人と同じように経済的に豊かな生活をしようとしました。
これに追い打ちをかけたのが北海道旧土人保護法だったのです。
この通称、「北海道土人法」は明治32年(1899年)に制定され1997年(平成9年)に廃止されるまで98年間もアイヌ民族を差別し消滅に拍車をかけていたのです。アイヌ民族からはじめての国会議員になった萱野茂の登場によってやっと1997年(平成9年)に廃止されたのです。
この法律に対する日本人の鈍感さは日本の恥です。アイヌという少数民族を差別して来たことを反省すべきではないでしょうか?
それでは北海道旧土人保護法とはどんな内容でしょうか?
少し北海道開拓の歴史を書いてみます。
明治15年(1882年)に北海道は札幌、函館、根室の3県1局制制定されました。それが明治19年(1886年)に廃止され、新しく北海道庁が設置されました。
北海道庁はアイヌ民族が住んでいたところを官有地にし、その土地を民間への引き渡し開拓を進めて行ったのです。当然アイヌ人の住む場所を狭められたのです。
そして明治時代の中頃から、北海道への和人の移住が急激に増加し開拓が著しく進展したのです。
アイヌ人たちは、生活の途を失って困窮がいっそう厳しくなります。
そして明治32年(1899年)に「北海道旧土人保護法」が制定されました。
「北海道旧土人保護法」という法律は、名の通り貧困にあえぐアイヌの人たちに対する保護を名目として作られたもので、農業のための土地を下げ渡し、日本語や和人風の習慣による教育を行うことで、アイヌ民族を和人に同化するためのものでした。
しかしそれは建前で実際にはアイヌの財産を収奪し、帝国主義的同化政策を推進するための法的根拠に過ぎませんでした。
具体的には、次のようなことが実行に移されました。
1. アイヌの土地の没収
2. 収入源である漁業・狩猟の禁止
3. アイヌ固有の習慣風習の禁止
4. 日本語使用の義務
5. 日本風氏名への改名による戸籍への編入
土地を与えられたアイヌの人たちの中には、農業経営に成功した人もいましたが数は少なく、はじめから農業に向いていない土地を与えられたり、農地にすることを失敗して土地を取り上げられたりした人が多かったのです。
また、「北海道旧土人保護法」による教育の重要な特徴は、和人児童との別学を原則とし、教育内容にも不当な格差を設けていたことです。そしてアイヌ語をはじめ独自の文化や習慣は否定され、日本語や和人風の生活の仕方を覚えることが強制されたのです。
このような明治時代以降のアイヌ民族の差別と迫害は戦後の続いたのです。
戦後すぐに共産主義者がアイヌ民族の解放運動をすすめ北海道のアイヌ民族を本州へ移住させる運動を繰り広げました。
しかしその運動もマッカーサーの共産党非合法の命令で頓挫してしまいます。
余談ながら私は仙台市の郊外の開拓地へ北海道から移住して来たアイヌ人3人家族の家によく遊びに行った経験があります。そして萱野茂さんが作った二風谷アイヌ資料館も訪問したこともあります。
最後に知里幸惠の「アイヌ神謡集」の序文の冒頭部分をお送りします。
・・・その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久にさえずる小鳥と共に歌い暮して蕗とりよもぎ摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,・・・
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
御岳駅の先に川辺に車で下りられる場所があります。そこから撮った冬の寒々とした多摩川の風景写真をお送り致します。
このような風景を見ながら今日の記事の構想を考えて来ました。
そしてこんなことは今更書かないほうが良いではないかと悩みました。
こんなこととはアイヌ民族を差別し衰微させた北海道旧土人保護法のことです。
過去の嫌なことは忘れたいものです。しかし奥多摩から帰りの車の中で決心しました。やはり短くても書いておこうと。
今日の記事の内容は次の2つの記事の続編のようなものです。
1、「外国人観光客が日本を絶賛する5つの理由」(2018年01月25日)
2、「絶滅寸前のヨーロッパの少数民族(5)絶滅する必然的な3つの理由」(2018年01月30日)
さて1番目の記事では何故日本の評判が良いか次の5つの理由を上げました。
(1)いろいろな差別が消え、完全に平等な国
(2)幼少時から好きだったアニメ番組を作った国
(3)人々が親切で何処へ行っても安全な国
(4)清潔で世界一豊かな食生活が楽しめる国
(5)73年間、平和が続いた平穏で風光明媚な四季のある国
このように現在の日本は良い国の代表のようになりました。
しかしここに至るまで明治維新からいろいろな反省すべき間違った政策をとってきたのも事実です。現在の価値観から考えて間違っていたのです。
それは2番目の記事の中にある少数民族の絶滅の次の3つの原因と深く関連していることです。
(1)少数民族は周りの多数民族に比べて圧倒的に貧しい。
(2)少数民族は自分固有の言語や伝統文化を捨て経済的に豊かな生活をしようとします。
(3)周囲の多数民族の同化政策と圧迫により少数民族の言語や文化は外部から崩壊させられる。
アイヌ民族は寒い北海道に住んでいて、主に獣猟や漁猟と採集に頼る生活をしていました。明治維新当時のアイヌ民族は和人に比べて圧倒的に貧しかったのです。
従ってアイヌ民族の一部は自分固有の言語や伝統文化を捨て和人と同じように経済的に豊かな生活をしようとしました。
これに追い打ちをかけたのが北海道旧土人保護法だったのです。
この通称、「北海道土人法」は明治32年(1899年)に制定され1997年(平成9年)に廃止されるまで98年間もアイヌ民族を差別し消滅に拍車をかけていたのです。アイヌ民族からはじめての国会議員になった萱野茂の登場によってやっと1997年(平成9年)に廃止されたのです。
この法律に対する日本人の鈍感さは日本の恥です。アイヌという少数民族を差別して来たことを反省すべきではないでしょうか?
それでは北海道旧土人保護法とはどんな内容でしょうか?
少し北海道開拓の歴史を書いてみます。
明治15年(1882年)に北海道は札幌、函館、根室の3県1局制制定されました。それが明治19年(1886年)に廃止され、新しく北海道庁が設置されました。
北海道庁はアイヌ民族が住んでいたところを官有地にし、その土地を民間への引き渡し開拓を進めて行ったのです。当然アイヌ人の住む場所を狭められたのです。
そして明治時代の中頃から、北海道への和人の移住が急激に増加し開拓が著しく進展したのです。
アイヌ人たちは、生活の途を失って困窮がいっそう厳しくなります。
そして明治32年(1899年)に「北海道旧土人保護法」が制定されました。
「北海道旧土人保護法」という法律は、名の通り貧困にあえぐアイヌの人たちに対する保護を名目として作られたもので、農業のための土地を下げ渡し、日本語や和人風の習慣による教育を行うことで、アイヌ民族を和人に同化するためのものでした。
しかしそれは建前で実際にはアイヌの財産を収奪し、帝国主義的同化政策を推進するための法的根拠に過ぎませんでした。
具体的には、次のようなことが実行に移されました。
1. アイヌの土地の没収
2. 収入源である漁業・狩猟の禁止
3. アイヌ固有の習慣風習の禁止
4. 日本語使用の義務
5. 日本風氏名への改名による戸籍への編入
土地を与えられたアイヌの人たちの中には、農業経営に成功した人もいましたが数は少なく、はじめから農業に向いていない土地を与えられたり、農地にすることを失敗して土地を取り上げられたりした人が多かったのです。
また、「北海道旧土人保護法」による教育の重要な特徴は、和人児童との別学を原則とし、教育内容にも不当な格差を設けていたことです。そしてアイヌ語をはじめ独自の文化や習慣は否定され、日本語や和人風の生活の仕方を覚えることが強制されたのです。
このような明治時代以降のアイヌ民族の差別と迫害は戦後の続いたのです。
戦後すぐに共産主義者がアイヌ民族の解放運動をすすめ北海道のアイヌ民族を本州へ移住させる運動を繰り広げました。
しかしその運動もマッカーサーの共産党非合法の命令で頓挫してしまいます。
余談ながら私は仙台市の郊外の開拓地へ北海道から移住して来たアイヌ人3人家族の家によく遊びに行った経験があります。そして萱野茂さんが作った二風谷アイヌ資料館も訪問したこともあります。
最後に知里幸惠の「アイヌ神謡集」の序文の冒頭部分をお送りします。
・・・その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久にさえずる小鳥と共に歌い暮して蕗とりよもぎ摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,・・・
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)