鎌倉期から続くお寺が隣町の府中市にあります。祖父が住職をしていた里のお寺も曹洞宗だったので境内の雰囲気が懐かしくて時々散歩に行きます。
昨日の午後は春のように暖かかったので、久しぶりに高安寺に行きました。
境内の風景写真をお送りいたします。4番目の写真のお坊さんの像は曹洞宗を開いた道元さまです。何時行っても活け花が供えてあります。
曹洞宗のお寺のご本尊様は釈迦牟尼仏となっています。道元さまは本堂のお釈迦様を守るような位置に立っています。
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この高安寺の特徴は時代、地代の戦の軍事拠点として使われてきた歴史にあります。
以下に、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%89%E5%AF%BA からの抜粋をお送りします。
・・・このお寺は平安時代に藤原秀郷が武蔵国府近郊に置いた居館を市川山見性寺に改めたのが始まりとされる。平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経もこの寺に立ち寄って武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと言われている。ここは武蔵国府の近くにあり国衙荒廃後にはここが重要拠点と見なされるようになり、南北朝時代には、新田義貞が分倍河原の合戦で本陣を構えている。これら一連の戦乱によって寺が炎上するなどして見性寺は荒廃してしまった。
そこで暦応年間(北朝、1340年前後)に入ると、足利尊氏が建長寺の大徹禅師を開山として招き臨済宗の禅寺に改めて再興した。この際、尊氏が進めていた安国寺の一つとしてこの寺を位置づけ、名称も尊氏の旧名(高氏)から龍門山高安護国禅寺と命名された。これによって高安寺は室町幕府の保護を手厚く受けて、一時は塔頭10・末寺75と称されるほどの大寺院となった。
だが、それは同時に室町幕府足利氏、あるいはその指揮下にあるとされた鎌倉公方の影響力を深く受ける事となり、軍事拠点としての色彩を帯びる事となった。永徳元年/弘和元年(1381年)には小山義政討伐に向かう第2代鎌倉公方足利氏満が、続いて応永6年(1399年)には応永の乱に呼応して将軍足利義満打倒を図ろうとした第3代鎌倉公方足利満兼が、それぞれ高安寺に陣を置いている。
この状況は第4代鎌倉公方足利持氏の代にも変わらず、応永30年(1423年)に常陸国の小栗満重討伐の帰途に高安寺に入りここに仮の政庁を置いた。だが、翌年には失火による焼失を招いてしまい、再建を行う事になった。そして永享11年(1438年)には関東管領上杉憲実討伐のために持氏が再び高安寺に陣を構えた。ところが、持氏の反幕府的姿勢に業を煮やしていた当時の将軍足利義教が持氏討伐を命じた事を知り急遽鎌倉に引き揚げる事になると、時は既に遅く鎌倉は陥落して持氏は滅亡する事になった(永享の乱)。
逆に康正元年(1455年)に行われた再度の分倍河原の合戦(享徳の乱の緒戦)では、第5代鎌倉公方足利成氏が籠もる高安寺に攻め寄せた上杉軍を成氏が打ち破っている。
その後もその地政学的条件から上杉氏・後北条氏などによって軍事的に利用される事も多く、度々の戦乱で衰退・荒廃した。江戸時代初期には海禅寺(現在の青梅市)の末寺に入り、宗派も曹洞宗と改めた。
現在の本堂は寛永元年(1624年)に火災に遭い消失したものを享和3年(1803年)に再建したもの。本堂正面には「等持院」の扁額があり、これは開基となった足利尊氏の法嗣名である。明治5年(1872年)に建てられ左右に仁王像を配する山門、安政3年(1856年)に建てられた鐘楼と共に東京都選定歴史的建造物に選定されている。・・・
それにしても昔は国内で何度も戦があったものですね。お寺は大きい建物だので多くの武士が寝泊まり出来たので何度も利用されたのです。
日本に内戦が無くなり平和な時代が続くようになって本当に幸せです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
昨日の午後は春のように暖かかったので、久しぶりに高安寺に行きました。
境内の風景写真をお送りいたします。4番目の写真のお坊さんの像は曹洞宗を開いた道元さまです。何時行っても活け花が供えてあります。
曹洞宗のお寺のご本尊様は釈迦牟尼仏となっています。道元さまは本堂のお釈迦様を守るような位置に立っています。
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この高安寺の特徴は時代、地代の戦の軍事拠点として使われてきた歴史にあります。
以下に、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%89%E5%AF%BA からの抜粋をお送りします。
・・・このお寺は平安時代に藤原秀郷が武蔵国府近郊に置いた居館を市川山見性寺に改めたのが始まりとされる。平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経もこの寺に立ち寄って武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと言われている。ここは武蔵国府の近くにあり国衙荒廃後にはここが重要拠点と見なされるようになり、南北朝時代には、新田義貞が分倍河原の合戦で本陣を構えている。これら一連の戦乱によって寺が炎上するなどして見性寺は荒廃してしまった。
そこで暦応年間(北朝、1340年前後)に入ると、足利尊氏が建長寺の大徹禅師を開山として招き臨済宗の禅寺に改めて再興した。この際、尊氏が進めていた安国寺の一つとしてこの寺を位置づけ、名称も尊氏の旧名(高氏)から龍門山高安護国禅寺と命名された。これによって高安寺は室町幕府の保護を手厚く受けて、一時は塔頭10・末寺75と称されるほどの大寺院となった。
だが、それは同時に室町幕府足利氏、あるいはその指揮下にあるとされた鎌倉公方の影響力を深く受ける事となり、軍事拠点としての色彩を帯びる事となった。永徳元年/弘和元年(1381年)には小山義政討伐に向かう第2代鎌倉公方足利氏満が、続いて応永6年(1399年)には応永の乱に呼応して将軍足利義満打倒を図ろうとした第3代鎌倉公方足利満兼が、それぞれ高安寺に陣を置いている。
この状況は第4代鎌倉公方足利持氏の代にも変わらず、応永30年(1423年)に常陸国の小栗満重討伐の帰途に高安寺に入りここに仮の政庁を置いた。だが、翌年には失火による焼失を招いてしまい、再建を行う事になった。そして永享11年(1438年)には関東管領上杉憲実討伐のために持氏が再び高安寺に陣を構えた。ところが、持氏の反幕府的姿勢に業を煮やしていた当時の将軍足利義教が持氏討伐を命じた事を知り急遽鎌倉に引き揚げる事になると、時は既に遅く鎌倉は陥落して持氏は滅亡する事になった(永享の乱)。
逆に康正元年(1455年)に行われた再度の分倍河原の合戦(享徳の乱の緒戦)では、第5代鎌倉公方足利成氏が籠もる高安寺に攻め寄せた上杉軍を成氏が打ち破っている。
その後もその地政学的条件から上杉氏・後北条氏などによって軍事的に利用される事も多く、度々の戦乱で衰退・荒廃した。江戸時代初期には海禅寺(現在の青梅市)の末寺に入り、宗派も曹洞宗と改めた。
現在の本堂は寛永元年(1624年)に火災に遭い消失したものを享和3年(1803年)に再建したもの。本堂正面には「等持院」の扁額があり、これは開基となった足利尊氏の法嗣名である。明治5年(1872年)に建てられ左右に仁王像を配する山門、安政3年(1856年)に建てられた鐘楼と共に東京都選定歴史的建造物に選定されている。・・・
それにしても昔は国内で何度も戦があったものですね。お寺は大きい建物だので多くの武士が寝泊まり出来たので何度も利用されたのです。
日本に内戦が無くなり平和な時代が続くようになって本当に幸せです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)