後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

共産党独裁の中国を内側から眺める、そして胡耀邦による民主化

2018年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム
中国人は信義に篤いと言います。私の親友は中国革命に参加した正真正銘の共産党員で周栄章という人でした。この人も実に信義に篤い人でした。
私は彼の招きで1980年から何度も中国へ行きました。そのお陰で共産党独裁の中国を内側から眺めることが出来ました。
今日は私が見た当時の中国の実情を書いてみたいと思います。
まず驚愕的な体験を書かせて下さい。深い地下室で見た驚きの光景です。

中国の首相、周恩来が1976年に死んだ時、彼をしたう民衆が4月の清明節に北京天安門広場に集まりました。大追悼会です。このような周恩来追悼集会が中国全土に広がったのです。
当時は毛沢東も存命で、四人組が権力を握っていたのです。毛沢東は周恩来の人気に嫉妬し、憎んでいたのです。
これは日本の新聞に詳しくは出ていませんでしたが、毛沢東一派は天安門広場の群衆に対して軍隊に攻撃させ、蹴散らせたのです。これを第一次天安門事件と言います。
その後も、中央政府は周恩来の公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止していました。
1980年に北京に行った私に、周栄章教授が声をひそめて、
「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言うのです。

暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文などとともに花束などが飾られていました。
周さんは「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやります。それが中国人なのです」と言い切りました。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用したのでしょうか。即座に、私は周栄章さんを終生の親友と感じました。
中国人は一旦親密になると生涯その関係を信じて良いのです。絶対に裏切らないのです。一生安心して付き合えます。周栄章さんもそんな男でした。2004年に亡くなりました。
彼は共産軍と共に天津市を占領し、占領後の天津市の行政を担当し住民の暮らしを平穏なものにするう努力をしたと言っていました。
この体験から中国の共産党独裁は必ずしも一枚岩ではなく内部に入ってみると政府に反対する人が沢山いることが分ったのです。
中國人がたてまえとして偉いと言う政治家は毛沢東、江沢民、そして習近平のような強権をふるう政治家です。本当に好きな政治家は劉少奇、周恩来、鄧小平、そして胡 耀邦なのです。
この4人は自分の権力拡大よりも人民の暮らしが良くなるように本気で努力したのです。
中国人は心の底の本音としてこの4人に親しみを感じ感謝しているのです。
こんなことは全て親友の周栄章さんから聞きました。
彼は正真正銘の共産党員でしたが私に共産主義が良いとは一度も言いませんでした。
私が共産主義は間違っていると言いました。彼は答えません。苦しそうに、「中国が共産主義を選んだにはそれなりのい理由があったのです」と言うのです。

共産党独裁の弊害はすぐに分かりました。当時の北京の街路の壁や電柱に、『為人民服務』という標語が沢山貼ってあったのです。意味は共産党員は人民のために服務しますという意味です。これが異常に多く貼ってあることは、逆に共産党員は人民のために服務しないで、権力をかさにきて私腹を肥やしていることを暗示しているのです。
中国の悪い側面の一例は最後に書きます。
一休みして周栄章さんに楽しく案内して貰った頤和園と北海公園の仿膳飯荘の写真を示します。

1番目の写真は夏の離宮、頤和園の風景です。あまり感動したので何度も行きました。
日本人も北京に行ったら必ず行く名所なのでよくご存じの方も多いと思います。

2番目の写真は故宮の北にある北海公園の石の回廊です。
あれは確か、1980年のある秋の夜でした。この石の回廊を、夜風に吹かれながら、周さんと2人だけで歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。(写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htm )

3番目の写真は仿膳飯荘の入り口の写真です。

4番目の写真は仿膳飯荘の料理の写真です。(出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm)
出された料理は女性権力者の西大后の好きそうな小さく綺麗に盛り付けた、いわゆる宮廷料理でした。しかし私の味の趣味は西大后様とは随分と違うようでした。のちに行った家内はその精妙さに惑わされたのか感激していました。

5番目の写真は北京鴨です。(写真の出典:http://imagenavi.jp/search/#!/ )
周さんは北京鴨の有名店でなく裏町の小さな北京鴨店へ何度も連れて行ってくれました。
あまり冷えていない五星ビールを注文し、前菜でビールを飲んでいるとやがて見事に焼きあがった鴨が出てきます。
うす暗い北京鴨の店でいろいろな話をしました。自分で皮を切り取って、白い餅に乗せ、ネギと味噌を塗って、餅でくるりと巻いて食べるのです。

周栄章さんさんはその後、何度も日本に来て私の家にも来てくれました。思い出は沢山ありましがこれで止めて、最後に胡耀邦さんのこと書いて置きたいと思います。
彼は、1981年から1987年まで中国共産党主席でした。
胡耀邦さんの行ったことを3つだけ紹介いたします。
(1)1980年5月29日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われ、ラサで共産党幹部らに対する演説にて、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁した。更にその2年後中国憲法に基づき、信教の自由を改めて保証した上で、僧院の再建事業に着手させ、外国人旅行者にもチベットを開放した。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、胡耀邦の更迭後撤回された。

(2)1983年11月の訪日では昭和天皇と会見して天皇訪中を要請(当時交渉を担当したのは胡錦濤)、日中首脳会談では中曽根康弘内閣総理大臣が、中国側の提示した3原則に「相互信頼」を加えて4原則にしたいと述べ、民間有識者からなる『日中友好二一世紀委員会』の設立を提案し、胡はこれに賛同し。他方胡は、日本の青年3000人を中国に1週間招待するプランを披露して日本側を驚かせた。

(3)1989年4月8日の政治局会議で熱弁を振るった直後、心筋梗塞のため倒れ、一旦は意識を取り戻したものの2回目の発作を起こし、4月15日に死去した。その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していった。五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生・市民10万人がデモと集会を行い、第二次天安門事件へと発展した。ここで趙紫陽総書記も学生運動に同情的な発言を行ったことで、鄧小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとされて失脚した。

もっと詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%80%80%E9%82%A6 をご覧下さい。
ここに胡耀邦さんのことを書くのは現在の中国では一切禁止されているからです。中国共産党は胡耀邦中国共産党主席は存在していなかったとして全ての記録を抹殺し、彼に関することはネットにも書いてはいけないのです。
これこそ共産党独裁の弊害ではないでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

まだある我が家の夫婦喧嘩の原因

2018年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム
3日前に、「我が家の夫婦喧嘩の原因」を書きました。
その原因は妻と私の日本語に関する考え方の違いによる夫婦喧嘩です。
私は言葉というものは時代、時代によって変わるので新しい言葉や外来語や変な略語を使います。流行語も適切に使います。よく言えば生きた言葉を使います。
しかし妻は古い日本語を大切にし、流行語を使いません。なにせ万葉集や源氏物語にある言葉が美しいと思い、昭和の言葉が良いと思い込んでいるのですから困るのです。夫婦喧嘩になります。
しかしよく考えてみると我が家の夫婦喧嘩の原因はまだあります。
大げさに言えば、澄みきった夜空の星のように無数にあります。その中から文化的に意味のある原因、社会的に意味のある原因だけを拾い上げ続編を書いていきたいと思います。

今日は写真の撮り方の考え方の違いによる夫婦喧嘩です。
私が毎日、雑文を書いてその挿し絵代わりに掲載している写真が良くないと言うのです。
ぞれでは妻が撮った写真3枚と私が撮った2枚を掲載して意見の違いをご説明いたします。

1番目の写真は京王フローラル・ガーデンの妻が撮った写真です。ガーデンの全体がどのような感じなのか分かるように撮るのが良いと言います。
一方、私はこの写真をネットに掲載すると小さいサイズになるので何を撮ったか分からなくなるから駄目と言います。夫婦喧嘩になります。

2番目の写真も妻が撮りました。これはかなりクローズアップしてありますからネットに掲載できます。しかしこの写真の意図が分かり難いのです。妻は白いモクレンの蕾が膨らんで春もそこまで来ていると言いたいのです。このように説明をしなければいけない写真はネットの雑文の挿絵としては不適切です。せっかくですが私は使いません。夫婦喧嘩になります。

3番目の写真はロウバイの花の盛りが過ぎる頃モクレンの蕾が白くなり咲き出す準備をしている光景を撮った写真です。妻はこういうふうに季節感がいきいき感じられる写真が良いと言います。
成程と思いますが、挿し絵代わりの写真には使いません。説明しないといけない写真は挿し絵代わりとしては失格です。挿し絵はあくまでも文章の内容の邪魔をしないような飾りでなければいけないと私は思っています。妻の撮った写真は使いません。夫婦喧嘩になります。

4番目の写真は私が撮った福寿草の写真です。パッと見て綺麗です。季節感もあります。この写真は何だろうと考える必要がありません。挿し絵代わりの写真として使います。これには妻も納得です。夫婦喧嘩になりません。

5番目の写真は私が撮った京王フローラル・ガーデンの一角の写真です。考える必要が無い綺麗な写真です。挿し絵代わりに適した写真です。
しかし妻はこのような園芸種の花だけが人工的に植え込んだ写真は好まないと言います。
福寿草の写真のように自然な感じの花の写真なら良いと言います。しかしその意見は無視します。夫婦喧嘩になります。

さて何故、妻は私の写真にいちいち意見を言うのでしょうか?困ったものです。
その原因は妻の趣味の一つが美術館巡りや絵画展を見に行くことにあります。それで西洋の有名な油絵や傑作な日本画を心に刻んでいるのです。その心にある絵画と私の撮る写真を比較するのです。私の写真の構図と色彩の配置を比較して細かい意見を言います。
若い頃、自分でも油絵を数点描いたこともありました。構図と色彩の配置は確かにオーソドックスです。デッサンもまあまあです。
しかしちっとも面白くない油絵です。はっきり言ってしまえば下手なのです。自分でも下手だと分かって、それ以来、油絵を描くのは断念しました。
賢明な決断です。そうでなかったら下手な油絵が家に溢れていたことでしょう。

私がネットに掲載する文章に、挿し絵代わりに使う写真はあくまでも飾りなのです。飾りが芸術写真になっていたら文章の内容が死んでしまいます。それでなくても拙い内容の文章なのです。挿し絵代わりに使う写真はほどほどに綺麗であれば良いのです。
そのことが理解出来ない妻が芸術的な絵画と比較して意見を言うので夫婦喧嘩になるのです。そして意見の中には成程と思えるものもあるので一層困るのです。つまらない夫婦喧嘩の原因の一つでした。

皆様の奥様は夫が撮った写真にあれこれ意見を言うでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)