後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

あなたは四季折々に咲く花々がお好きですか?そして・・・・

2018年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム
恥ずかしい話ですが私が花々を好きになったのは家内の影響でした。例外はありますが、一般的には男性は女性ほど花を好きではないようです。しかしあまり花に関心の無かった男性も高齢になるに従って花々が好きになるようです。
さて、あなたは四季折々に咲く花々がお好きでしょうか?
お好きなら、何故好きなのか、その理由を説明できますか?  愚問ですね。
人間は太古の昔から花が好きだったのでしょうか?縄文時代の人は野山に咲く花を愛で、竪穴式の家の中に飾っていたでしょうか?
これも愚問ですね。しかしこの愚問から楽しい想像が出来ます。
数多く出土する土器には祈りや占いのような信心に関係する土偶が沢山あります。赤ん坊が死ぬという悲しみを癒すためにお棺も作りました。そして野山で採ってきた花々を挿したように見える細長い土器もあります。
しかし家の中からは花々の痕跡や化石は出て来ません。花々の弱い繊維は日本の酸性土壌で解けて消えてしまうのでしょう。
それでも私は縄文時代の竪穴式の家にも花々が飾ってあったと信じています。
縄文時代の女性は野山に木の実や食用植物を採集に行くのが仕事です。そこで見た美しい花々を持ち帰り自分の家に飾ったという想像をしても良いのではないでしょうか?
そして縄文時代に人々の愛した花々は現在、私達が見て楽しんでいる花と同じだったのでしょうか?
これは愚問ではありません。日本の植物学にとって重要な問題です。
そこで日本へ渡ってきた花の渡来植物を調べました。そうすると、渡来植物以外の花々は縄文時代から日本に存在していたと考えられるのです。
調べてみると、慶応大学、磯野直秀名誉教授の発表している「明治前園芸植物渡来年表」を見つけました。それは、http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=13125 です。これは完璧な研究論文です。信用出来る内容です。
下のにその一部をご紹介いたしますが、是非原文をご覧下さい。植物学の素人にも簡単に理解出来る素晴らしい文章で書いてあります。海外から渡来した時期は
(1)奈良、平安期
ウメ、キク、ボタン、シャクヤク、アサガオ、シモクレン、ケイトウ、ジュズダマなど。
(2)鎌倉期
ナンテン、フヨウ、ムクゲなど。
(3)室町期から安土桃山期
スイセン、ホウセンカ、ジンチョウゲ、ヒガンバナ、ロウバイ、ソテツなどなど。
(4)江戸時代(17世紀)
シュウカイドウ、サルスベリ、レンギョウ、ハクモクレン、オシロイバナ、エニシダ、ヒマワリ、など。
(5)江戸時代(18世紀)
キョウチクトウ、ハボタン、ニチニチソウ、など。
(6)江戸時代(19世紀)
ノボタン、ダリア、オジギソウ、コスモス、カンナ、キンギョソウ、スイートピー、パンジー、ラベンダー、チューリップ、ゼラニュームなど。
この研究論文の圧巻は30ページから39ページにわたる数百種の渡来園芸植物の年号別の一覧表にあります。
慶雲2年(705年)から始まって、明治1年(1968年)のそれぞれの年号に渡来した園芸植物の名前が明記してあるのです。それはこの研究者のライフワークと言っても過言ではありません。
驚くことにわれわれが普通日本古来の植物と思っていた梅も柿も皆渡来植物なのです。
この磯野直秀先生の渡来植物の表に無い花々は次の通りです。
ヤマザクラ、
ツツジ、
アジサイ、
いろいろな30種のユリ、
ツバキ、
山茶花、
ノバラ、
ハギ、
フジ、などなど。
そして縄文時代以後に絶滅した花々もあるでしょうから、当時は結構多種多様な花々が野山に咲いていたと考えられます。それらは園芸種ほど色あざやかではありませんが、楚々とした美しいものでした。
暗い竪穴式の縄文時代の家の中に美しいアジサイの花束が飾ってある光景を想像すると楽しいものです。
藤の花房が沢山野山に咲き、野バラも山桜の花々も人々が楽しんだことでしょう。
私は縄文時代や弥生時代の花々の考古学の進歩を願っています。

ついでに日本の昔からの文学作品に登場する植物や花を調べた記事をご紹介いたします。
出雲風土記、古事記、日本書紀、萬葉集、古今集、竹取物語、伊勢物語、今昔物語、源氏物語、枕草子、土佐日記、更級日記 などなど、江戸時代、明治維新後の文学作品に登場する植物が一覧表になっているのです。是非、http://www2.city.kurashiki.okayama.jp/musnat/plant/bungakusakuhin/index.html をご覧下さい。

上に書いたように縄文人も多くの花々を眺めていました。
そしてその後、多くの花々が海を渡って日本に来たのです。 渡り鳥が運んだり、人間が運んだのです。
特に美しい花々はその種子や苗を人間が大切に運んだのです。運んだ人の名前は分かりません。しかし外国から運んで来た種や苗が日本の土で花を咲かせたときの感動は大きかったに違いありません。
花々を見てそんなことを想像するのは楽しいものです。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、都立薬草植物園で撮った蝋梅と紅梅と朝鮮連翹の花の写真と裏の雑木林の写真です。梅は奈良、平安時代に中國から来ました。ロウバイは室町期から安土桃山期に日本に来ました。レンギョウは江戸時代の1700年代に朝鮮からやって来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)










宮沢賢治は何故、過激な国柱会の熱心な会員になったか?

2018年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム
賢治は法華経の真面目な信者でした。ですからこそ国柱会に入会したのです。
この法華経の教義の一つに次のようなものがあります。
・・・「菩薩」といわれる人がいます。法華経を信じて、たくさんの人にお釈迦さまの智慧を広める。人の苦しみを自分の苦しみとして受け止める。困っている人を助ける。世の中の役に立ちたいと願い、それを実行する。こんな生き方ができる人は皆、一人ひとりが菩薩なのです。人のために尽くし、相手の身になって考え行動する――、そんな菩薩のような生き方を、私たち一人ひとりが心がけたいものです。・・・
この考えに従って、「雨ニモマケズ」という詩を書いたのです。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

さて国柱会とはどんな団体なのでそうか?
国柱会は、法華経の純正日蓮主義を信奉する田中智学によって明治17年(1884)に創められました。
その教義の三番目に次のようなことが書かれています。
・・・国柱会は、日蓮主義の理想が一天四海皆帰妙法である。ことに日本国は『法華経』本縁の国であり、日蓮聖人応誕の地であり、古来一貫して天皇を中心に仰ぐ道の国であり、この日本国体を開顕した〈法国冥合論〉を主張し、日本の真性命の覚醒をうながすことを大きな使命としています。・・・
この教義が「八紘一宇」という思想になり、昭和のアジア諸国の軍事侵攻の精神的支柱となったのです。

宮沢賢治は1921年に上京し、国柱会の街頭布教にも参加します。それ以来、1933年、37歳で亡くなるまで熱心な会員でした。
すなわち日本帝国主義の軍部のアジア侵略の前に賢治は死んでいます。
ですから国柱会がアジア諸国の軍事侵攻の精神的支柱となったこととは一切関知していません。
しかし賢治の戒名は国柱会からおくられ、遺骨の一部も会の聖廟に眠っているのです。
この間の詳しい事情は私が書いた「宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か?」(2012年05月08日掲載記事)に説明してあります。
宮沢賢治は、紀元1世紀ごろインドで出来、鳩摩羅什によって漢文に翻訳された法華経が、日本軍の中国やアジア諸国の侵略に利用されるとは想像も出来なかったのでしょう。
ここに宗教の恐ろしさがあるのです。
この経緯は大航海時代にキリスト教の布教を旗印にしてスぺインの軍隊が残虐に南米のインカ帝国を滅ぼしたことと類似のことなのです。
国柱会は法華経こそ釈迦の正しい教えなのでアジア全域に布教しようとしたのです。
昭和時代になって、その布教方法に軍事侵略も辞さなかったのです。法華経信者の石原莞爾は勝手に満州国を作ってしまったのです。
宗教の怖さは現世の欲に利用されると悪魔の力に変わることにあるのです。
この危険性は何度繰り返し書いても避けることが出来ません。人間の業なのでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真は昨日行った東京の西端の陣馬高原にある昔の恩方村の風景写真です。恩方村は現在、八王子市に合併されています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)