後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

国際関係の客観的理解(1)朝鮮併合と慰安婦問題

2018年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
国際関係を客観的に理解するために一番重要なことは相手国の立場に立って考えることです。
今日から連載記事として日韓関係、日中関係、日露関係を客観的に考えなおし、新しい建設的な歴史認識を提案したいと思います。
今日は1910年の朝鮮併合とそれに由来する慰安婦問題を考えなおすことにしました。
結論を先に書けば朝鮮併合は現在の日本にとっては負の遺産として残りました。その結果の現象の一つが慰安婦問題です。慰安婦問題が存在したか、存在しなかったかにかかわらずこの問題は非常に長期間にわたって続きます。日本人は日韓関係の歴史をより客観的に理解し慰安婦問題のような感情問題が長期間続く覚悟をすべきです。それが賢明であり日韓関係に新しい建設的な方向を与えるものと考えられます。
それでは何故このような結論に至ったかを説明します。
日本はアメリカのフィリピンの植民地化を黙認するかわりとして、1910年(明治43年)に朝鮮併合を行いました。当時は欧米諸国はアジアに植民地を持っていたので日本の朝鮮併合を黙認せざるを得なかったのです。
ですから当時の国際社会では、日本人自身は特に悪いことをしたという認識はありません。むしろ日本の領土が増えたので喜んだのです。

さて一方、合併された朝鮮の人々の立場に立って考えてみましょう。
合併により朝鮮語の使用は禁止され名前も日本式に創氏改名させられたのです。
朝鮮の人々の立場に立って考えれば、それは朝鮮文化の弾圧と日本化が強制的に進められたと感じたのは当然ではないでしょうか。屈辱です。反抗せざるを得ません。
その一例を示します。
上海で1919年に大韓民国臨時政府が結成されたのです。
そして現在の日本人は知らにようですが、この事は現在の韓国の憲法の冒頭に書いてあるのです。
その上、現在の韓国の教育ではこの上海の大韓民国臨時政府が現在の韓国政府の始まりだと教えているのです。 前の朴大統領が上海の大韓民国臨時政府のあった建物を訪問しました。
皆様は大韓民国臨時政府が始まりだと現在の韓国の憲法の冒頭に書いてあるのことをご存知でしょうか?
こうして朝鮮併合は日本の負の遺産として将来も日本が背負うことになったのです。
この客観的な事実は事実として認めないと建設的な日韓関係が築けないと私は思っています。

ごちゃごちゃした詳しいことが書いてありますが、皆様、根気良くお読みください。
根気良く読むことで日韓関係の客観的な理解が得られるのです。
それでは1919年に韓国の臨時政府が出来る経緯をご紹介いたします。

1番目の写真は当時の臨時政府の要人の写真です。
朝鮮の独立運動は三・一独立運動と呼ばれています。この三・一運動は、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった運動です。
韓国では3月1日を三一節として祝日に指定しているのです。
この独立運動の継続と拡大のため、各地で臨時政府樹立の計画が進められていました。当時、上海には多くの朝鮮人独立運動家が集結していましたが、彼らは臨時議政院を設立し、李承晩を首班とする閣僚を選出、臨時憲章を制定し、1919年4月、大韓民国臨時政府の樹立を宣言したのです。
同じころ、京城(ソウル)とシベリアでも臨時政府が樹立されたが、やがて上海の臨時政府に統合されていくのです。
19年9月に統合された臨時政府は国務総理に李東輝を選出し、1920年に李東輝が臨時政府を去ると李東寧・申圭植・盧伯麟が国務総理代理を引き受けたのです。
国務総理代理体制は1922年9月、李承晩の大統領制に改編され、1925年には朴殷植を大統領に選出しました。1926年末に構成された金九内閣は1927年、集団指導体制である国務委員制に改編します。

大韓民国臨時政府の地方組職は朝鮮国内の連通府と交通局があり、海外には居留民団組職がありました。
連通府と交通局は朝鮮北西地方に結成され、江原道と忠清道の一部には大韓独立愛国団、中部以南では大韓民国青年外交団が代行しました。
この時大同団、ソウルの大韓民国愛国婦人会、平壌の大韓愛国婦人会・大韓赤十字会も大韓民国臨時政府との関係で活動したのです。
また、居留民団組職は上海などの中国本土にのみ存在し、アメリカとメキシコ・フランスでは大韓人国民会の組職、満州では大韓民国臨時政府傘下に結成されていた西間島の西路軍政署と北間島の北路軍政署の組職が各自代理しています。
太平洋戦争終結直前の地方組職は重慶の居留民団と米州の大韓人国民会、中国本土に点在する光復軍となっていました。
(上記は、http://ja.wikipedia.org/wiki/大韓民国臨時政府 より転載しました。)

日本人の私は併合された朝鮮は平和で、人々は幸せに暮らしていたと教育されました。
しかし上にくどく書いたように朝鮮の人々は上海で、シベリアで、アメリカで、フランスで熾烈な独立運動を展開していたのです。
そして現在の国際関係の道徳観から考えると朝鮮併合は非常に悪いと考えられるのです。韓国人の屈辱感は一層強くなります。
その結果として慰安婦問題が起きているのです。慰安婦問題があったか無かったかは証明が困難な問題です。それだけにこれは感情問題として長期間残ります。
それを乗り越えて建設的な日韓関係を築くことがより重要だと信じています。

それはそれとして、今日も皆さんの健康と平和をお祈りする。後藤和弘(藤山杜人)

我が家の3匹の猫のこと

2018年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
「我が家の3匹の猫のこと」と言うのは正確ではない。庭に毎日のように遊びに来る3匹の猫がいる。昔風に言えば野良猫3匹である。近所の数軒の家の庭にも行って餌を貰っている。我が家に来ると家内が餌を少しやる。しかし近所で贅沢な餌を貰うらしく上等な餌でなければいけない。スーパーで売っている猫用の缶詰めやポリポリなら食べる。
それでは3匹の猫は何の目的で来るのだろう。不審に思った私は注意深く観察をした。
すると彼等は家内に会いに来るのである。鳴き声を上げて、家内を呼ぶ。家内が出て行って何やら話しかけると満足したような様子で鳴き声をあげて会話をし、やがて何処かへ帰って行く。
ニャーニャーと鳴く声を聞いて私が出て行くと、「お前ではない。奥さんはいないのか?」という顔をする。家内を呼ぶ。そうすると満足そうになる。
そんな3匹の野良猫の写真である。

1番目の写真は凶暴な性格の猫である。「ガチャミケ」と呼んでいる。

2番目の写真は家内を愛してくれる優しい性格の猫である。「チャコと呼んでいる。

3番目の写真は何事にもオドオドして気の小さい猫である。「ラテ」と呼んでいる。

猫と言えば夏目漱石、「吾輩は猫である」を思い出す人も多かろう。内田百閒の「ノラや」に涙した人も多いであろう。

夏目漱石、「吾輩は猫である」
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。その後猫にもだいぶ逢ったがこんな片輪には一度も出会わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうも咽せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草というものである事はようやくこの頃知った。

 ・・・「そう云う君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。
「己れあ車屋の黒よ」
昂然たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の的になっている奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々軽侮の念も生じたのである。吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかを試してみようと思って左の問答をして見た。
「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」
「車屋の方が強いに極っていらあな。御めえのうちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」
「君も車屋の猫だけに大分強そうだ。車屋にいると御馳走が食えると見えるね」
「何におれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。御めえなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと己の後へくっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」
「追ってそう願う事にしよう。しかし家は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる」
「箆棒(べらぼう)め、うちなんかいくら大きくたって腹の足しになるもんか」

 彼は大に肝癪に障った様子で、寒竹をそいだような耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。吾輩が車屋の黒と知己になったのはこれからである。
 その後吾輩は度々黒と邂逅する。邂逅する毎に彼は車屋相当の気焔を吐く。・・・

それにしても夏目漱石は猫が好きだったに違いが無い。猫の個性の違いをよく観察している。
我が家の庭に来る3匹の野良猫もそれぞれ個性が非常に違う。
今迄家の中で飼ったのはチャーチャーと鳴いてガラス戸を開けさせ居着いた「チャーコ」、公園で五歳の息子が拾って来た「ピー」。これは賢くて水洗トイレに上がって用を足していた。
そして顔に古傷のある「ヨサブロウ」などなど。
今庭に来るノラたちも、凶暴な性格、家内を愛してくれる優しい性格、何事にもオドオドして気の小さい猫というように個性が違う。
今日はこれでお終いである。


それはそれとして、今日も皆さんの健康と平和をお祈りする。後藤和弘(藤山杜人)