この欄の私の記事はクドクドと長すぎる。もう少し簡明に書けないかとお叱りをうけます。
そこで今日は簡明!、簡明!と心の中で呟きながら書きます。
友人の白崎謙太郎さんが最近、「明治・海・2人」という本を出版しました。
そこに驚くべきことが書いてあったのです。
明治初期に横浜にいたスノーという英国人が北方四島のエトロフ島へ行ってラッコを銃猟で獲り莫大な利益を上げたと書いてあったのです。
「明治・海・2人」はフィクションも含む小説です。このラッコの銃猟の部分は単なるフィクションでしょうか?調べてみました。以下は判明したことです。
・・・江戸時代の1800年には、高田屋嘉兵衛が択捉島の場所請負人となり、ラッコ捕獲を始めました。松前藩はアイヌとの交易でラッコの毛皮を得ていていました。
明治時代になると、北海道開拓使がロシアの密猟を監視し、北方領土島民だけがラッコを捕獲できるようにしました。
1873年には官営のラッコ猟が始まりました。1895年の猟虎膃肭獣猟法施行、2年後の遠洋漁業奨励法施行により、ラッコやオットセイの猟を推し進めました。免許を受けて猟を行ったのは函館の帝国水産会社が大半を占めました。
それだけでなく、英国人探検家H.J.スノーがラッコを乱獲しました。彼は1872年以降、千島列島を中心に8000頭のラッコを密漁し、近隣のラッコ個体数を激減させた主要人物と言われます。・・・(https://pucchi.net/hokkaido/nature/rakko.php より抜粋しました)
そしてH.J.スノーという人物を調べますと、
・・・H.J.スノー(Henry James Snow、1848年 - 没年不詳)は、リッチリバー号の船長でイギリス人探検家、密漁従事者。日本の北海道を拠点として千島列島を中心に活動した。
1872年頃に千島列島に到着。以後、10年間にわたり千島列島を探検、測量しながらラッコやオットセイの密漁を行った。ラッコに関しては、8,000頭以上もの数を捕獲し、ラッコの個体数激減の原因を作った一人となる。
1884年には、千島列島の測量図を書き上げ英国女王に奉呈し、その功績により英国政府から叙勲された。また、千島列島の風土を取りまとめた書籍(『In Forbidden Sea』)を書き上げた。これらの書籍や資料は、『千島列島黎明記』などに翻訳されて日本でも出版された。(https://ja.wikipedia.org/wiki/H.J.スノー より抜粋しました)
ラッコの毛皮は欧米で非常に高価な高級毛皮として取引され莫大な利潤を生んでいたのです。生息域の千島列島、アリューシャン列島からアラスカ沿岸や北米のカリフォルニアまでではロシア人やイギリス、アメリカ人に乱獲され絶滅寸前にまで追い込まれたのです。
現在は国際的に絶滅危惧種に指定されて禁猟になっています。
今日は簡明!、簡明!と心の中で呟きながら書いていますので、これでお終いにしたいのです。
しかし2つのことだけは書かせて下さい。
H.J.スノーは密漁者となっていますが、白崎謙太郎著、「明治・海・2人」では思慮深いラッコ猟の船主、帆走冒険家として客観的に紹介してあります。ぞしてエトロフ島のラッコ猟に帆船で5回行きましたが、どんなに多く見積もっても総数1000匹以下のラッコしか獲らなかったと思います。上記の8000匹のラッコの密漁者という記録は間違いのようです。
もう一つ最後に問題提起として書きたいことです。
「欧米人は銃器を乱用してラッコなど多種の動物を絶滅危惧種にしたのではないか?」という問題提起です。
勿論、日本人もラッコを獲っていましたが撮った数は欧米人の獲った総数に比較すると圧倒的に少なかったのです。
白崎謙太郎著「明治・海・2人」は2000円で他に送料がかかります。下記にメールで申し込むと買うことが出来ます。立派な装丁の198ページの本です。shirasakikentaro@gmail.com
写真に生きているラッコの様子と殺されたラッコの写真を示します。最後の写真はラッコ猟に使われたスクーナー型帆船です。現在の帆船、Ami号の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===ラッコの悲しい運命==============
ラッコは、1741年にロシア皇帝の命によって、ベーリングを隊長とする探検隊がアラスカを発見した後に、現在のベーリング島で座礁した時に発見された。
http://www.asahi-net.or.jp/~mc5m-kyn/racco/history.htm
生き延びた博物学者のステラーらは約900枚のラッコの毛皮をもって 帰国。北太平洋に最高級の毛皮をもつ動物がいることがわかったため、ハンターや毛皮商人たちが カムチャッカ周辺に殺到し、乱獲が始まった。
ハンターたちは、続いてアリューシャン列島沿いに北アメリカ沿岸を荒し、さらにこれらの地域のラッコが少なくなると千島列島沿いに南下してきた。江戸時代末期にロシア人が 北海道周辺に姿を現した裏には、ラッコの狩猟という目的があったのである。
良質な毛皮を求めて乱獲されたため、30万頭はいたと思われていたものが20世紀初頭には絶滅寸前まで 追い詰められてしまった。
そのため、1911年に結ばれた国際保護条約(日本、ロシア、カナダ、アメリカの4か国間で結ばれた「オットセイ保護条約」。1988年に失効した。)による保護活動が実を結び、商業取り引きが規制されていることもあり、近年は個体数を徐々に回復させており、世界全体での生息数は およそ12万~18万程度ではないかと推測されている。




そこで今日は簡明!、簡明!と心の中で呟きながら書きます。
友人の白崎謙太郎さんが最近、「明治・海・2人」という本を出版しました。
そこに驚くべきことが書いてあったのです。
明治初期に横浜にいたスノーという英国人が北方四島のエトロフ島へ行ってラッコを銃猟で獲り莫大な利益を上げたと書いてあったのです。
「明治・海・2人」はフィクションも含む小説です。このラッコの銃猟の部分は単なるフィクションでしょうか?調べてみました。以下は判明したことです。
・・・江戸時代の1800年には、高田屋嘉兵衛が択捉島の場所請負人となり、ラッコ捕獲を始めました。松前藩はアイヌとの交易でラッコの毛皮を得ていていました。
明治時代になると、北海道開拓使がロシアの密猟を監視し、北方領土島民だけがラッコを捕獲できるようにしました。
1873年には官営のラッコ猟が始まりました。1895年の猟虎膃肭獣猟法施行、2年後の遠洋漁業奨励法施行により、ラッコやオットセイの猟を推し進めました。免許を受けて猟を行ったのは函館の帝国水産会社が大半を占めました。
それだけでなく、英国人探検家H.J.スノーがラッコを乱獲しました。彼は1872年以降、千島列島を中心に8000頭のラッコを密漁し、近隣のラッコ個体数を激減させた主要人物と言われます。・・・(https://pucchi.net/hokkaido/nature/rakko.php より抜粋しました)
そしてH.J.スノーという人物を調べますと、
・・・H.J.スノー(Henry James Snow、1848年 - 没年不詳)は、リッチリバー号の船長でイギリス人探検家、密漁従事者。日本の北海道を拠点として千島列島を中心に活動した。
1872年頃に千島列島に到着。以後、10年間にわたり千島列島を探検、測量しながらラッコやオットセイの密漁を行った。ラッコに関しては、8,000頭以上もの数を捕獲し、ラッコの個体数激減の原因を作った一人となる。
1884年には、千島列島の測量図を書き上げ英国女王に奉呈し、その功績により英国政府から叙勲された。また、千島列島の風土を取りまとめた書籍(『In Forbidden Sea』)を書き上げた。これらの書籍や資料は、『千島列島黎明記』などに翻訳されて日本でも出版された。(https://ja.wikipedia.org/wiki/H.J.スノー より抜粋しました)
ラッコの毛皮は欧米で非常に高価な高級毛皮として取引され莫大な利潤を生んでいたのです。生息域の千島列島、アリューシャン列島からアラスカ沿岸や北米のカリフォルニアまでではロシア人やイギリス、アメリカ人に乱獲され絶滅寸前にまで追い込まれたのです。
現在は国際的に絶滅危惧種に指定されて禁猟になっています。
今日は簡明!、簡明!と心の中で呟きながら書いていますので、これでお終いにしたいのです。
しかし2つのことだけは書かせて下さい。
H.J.スノーは密漁者となっていますが、白崎謙太郎著、「明治・海・2人」では思慮深いラッコ猟の船主、帆走冒険家として客観的に紹介してあります。ぞしてエトロフ島のラッコ猟に帆船で5回行きましたが、どんなに多く見積もっても総数1000匹以下のラッコしか獲らなかったと思います。上記の8000匹のラッコの密漁者という記録は間違いのようです。
もう一つ最後に問題提起として書きたいことです。
「欧米人は銃器を乱用してラッコなど多種の動物を絶滅危惧種にしたのではないか?」という問題提起です。
勿論、日本人もラッコを獲っていましたが撮った数は欧米人の獲った総数に比較すると圧倒的に少なかったのです。
白崎謙太郎著「明治・海・2人」は2000円で他に送料がかかります。下記にメールで申し込むと買うことが出来ます。立派な装丁の198ページの本です。shirasakikentaro@gmail.com
写真に生きているラッコの様子と殺されたラッコの写真を示します。最後の写真はラッコ猟に使われたスクーナー型帆船です。現在の帆船、Ami号の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===ラッコの悲しい運命==============
ラッコは、1741年にロシア皇帝の命によって、ベーリングを隊長とする探検隊がアラスカを発見した後に、現在のベーリング島で座礁した時に発見された。
http://www.asahi-net.or.jp/~mc5m-kyn/racco/history.htm
生き延びた博物学者のステラーらは約900枚のラッコの毛皮をもって 帰国。北太平洋に最高級の毛皮をもつ動物がいることがわかったため、ハンターや毛皮商人たちが カムチャッカ周辺に殺到し、乱獲が始まった。
ハンターたちは、続いてアリューシャン列島沿いに北アメリカ沿岸を荒し、さらにこれらの地域のラッコが少なくなると千島列島沿いに南下してきた。江戸時代末期にロシア人が 北海道周辺に姿を現した裏には、ラッコの狩猟という目的があったのである。
良質な毛皮を求めて乱獲されたため、30万頭はいたと思われていたものが20世紀初頭には絶滅寸前まで 追い詰められてしまった。
そのため、1911年に結ばれた国際保護条約(日本、ロシア、カナダ、アメリカの4か国間で結ばれた「オットセイ保護条約」。1988年に失効した。)による保護活動が実を結び、商業取り引きが規制されていることもあり、近年は個体数を徐々に回復させており、世界全体での生息数は およそ12万~18万程度ではないかと推測されている。




