後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

欧米人がラッコなどの動物を乱獲して絶滅危惧種にした

2018年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム
この欄の私の記事はクドクドと長すぎる。もう少し簡明に書けないかとお叱りをうけます。
そこで今日は簡明!、簡明!と心の中で呟きながら書きます。
友人の白崎謙太郎さんが最近、「明治・海・2人」という本を出版しました。
そこに驚くべきことが書いてあったのです。
明治初期に横浜にいたスノーという英国人が北方四島のエトロフ島へ行ってラッコを銃猟で獲り莫大な利益を上げたと書いてあったのです。
「明治・海・2人」はフィクションも含む小説です。このラッコの銃猟の部分は単なるフィクションでしょうか?調べてみました。以下は判明したことです。
・・・江戸時代の1800年には、高田屋嘉兵衛が択捉島の場所請負人となり、ラッコ捕獲を始めました。松前藩はアイヌとの交易でラッコの毛皮を得ていていました。
明治時代になると、北海道開拓使がロシアの密猟を監視し、北方領土島民だけがラッコを捕獲できるようにしました。
 1873年には官営のラッコ猟が始まりました。1895年の猟虎膃肭獣猟法施行、2年後の遠洋漁業奨励法施行により、ラッコやオットセイの猟を推し進めました。免許を受けて猟を行ったのは函館の帝国水産会社が大半を占めました。
 それだけでなく、英国人探検家H.J.スノーがラッコを乱獲しました。彼は1872年以降、千島列島を中心に8000頭のラッコを密漁し、近隣のラッコ個体数を激減させた主要人物と言われます。・・・(https://pucchi.net/hokkaido/nature/rakko.php より抜粋しました)
そしてH.J.スノーという人物を調べますと、
・・・H.J.スノー(Henry James Snow、1848年 - 没年不詳)は、リッチリバー号の船長でイギリス人探検家、密漁従事者。日本の北海道を拠点として千島列島を中心に活動した。
1872年頃に千島列島に到着。以後、10年間にわたり千島列島を探検、測量しながらラッコやオットセイの密漁を行った。ラッコに関しては、8,000頭以上もの数を捕獲し、ラッコの個体数激減の原因を作った一人となる。
1884年には、千島列島の測量図を書き上げ英国女王に奉呈し、その功績により英国政府から叙勲された。また、千島列島の風土を取りまとめた書籍(『In Forbidden Sea』)を書き上げた。これらの書籍や資料は、『千島列島黎明記』などに翻訳されて日本でも出版された。(https://ja.wikipedia.org/wiki/H.J.スノー より抜粋しました)

ラッコの毛皮は欧米で非常に高価な高級毛皮として取引され莫大な利潤を生んでいたのです。生息域の千島列島、アリューシャン列島からアラスカ沿岸や北米のカリフォルニアまでではロシア人やイギリス、アメリカ人に乱獲され絶滅寸前にまで追い込まれたのです。
現在は国際的に絶滅危惧種に指定されて禁猟になっています。

今日は簡明!、簡明!と心の中で呟きながら書いていますので、これでお終いにしたいのです。
しかし2つのことだけは書かせて下さい。
H.J.スノーは密漁者となっていますが、白崎謙太郎著、「明治・海・2人」では思慮深いラッコ猟の船主、帆走冒険家として客観的に紹介してあります。ぞしてエトロフ島のラッコ猟に帆船で5回行きましたが、どんなに多く見積もっても総数1000匹以下のラッコしか獲らなかったと思います。上記の8000匹のラッコの密漁者という記録は間違いのようです。
もう一つ最後に問題提起として書きたいことです。
「欧米人は銃器を乱用してラッコなど多種の動物を絶滅危惧種にしたのではないか?」という問題提起です。
勿論、日本人もラッコを獲っていましたが撮った数は欧米人の獲った総数に比較すると圧倒的に少なかったのです。

白崎謙太郎著「明治・海・2人」は2000円で他に送料がかかります。下記にメールで申し込むと買うことが出来ます。立派な装丁の198ページの本です。shirasakikentaro@gmail.com
写真に生きているラッコの様子と殺されたラッコの写真を示します。最後の写真はラッコ猟に使われたスクーナー型帆船です。現在の帆船、Ami号の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===ラッコの悲しい運命==============
ラッコは、1741年にロシア皇帝の命によって、ベーリングを隊長とする探検隊がアラスカを発見した後に、現在のベーリング島で座礁した時に発見された。
http://www.asahi-net.or.jp/~mc5m-kyn/racco/history.htm
生き延びた博物学者のステラーらは約900枚のラッコの毛皮をもって 帰国。北太平洋に最高級の毛皮をもつ動物がいることがわかったため、ハンターや毛皮商人たちが カムチャッカ周辺に殺到し、乱獲が始まった。
ハンターたちは、続いてアリューシャン列島沿いに北アメリカ沿岸を荒し、さらにこれらの地域のラッコが少なくなると千島列島沿いに南下してきた。江戸時代末期にロシア人が 北海道周辺に姿を現した裏には、ラッコの狩猟という目的があったのである。
良質な毛皮を求めて乱獲されたため、30万頭はいたと思われていたものが20世紀初頭には絶滅寸前まで 追い詰められてしまった。
そのため、1911年に結ばれた国際保護条約(日本、ロシア、カナダ、アメリカの4か国間で結ばれた「オットセイ保護条約」。1988年に失効した。)による保護活動が実を結び、商業取り引きが規制されていることもあり、近年は個体数を徐々に回復させており、世界全体での生息数は およそ12万~18万程度ではないかと推測されている。









アリューシャン列島とカムチャッカの先住民とロシアによる統治

2018年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム
友人の白崎謙太郎さんが海洋冒険小説の本をごく最近、出版しました。「明治・海・2人」という本です。内容を簡単に言うと、2つの部分に分けられます。
一つはアリュート族の青年のニコライがカヌーでアリューシャン列島、カムチャッカ半島、そして千島列島へと単独航海する話です。
そして2つ目は横浜在住のイギリス人、スノーがスクーナー帆船で何度も千島列島へラッコ猟に行く話です。どちらも明治維新前後の話です。
この本はあくまでも小説ですが、アリューシャン列島とカムチャッカ半島の史実が書いてあるのです。
そこで今日はこの地域とさらにアラスカまでを何故、ロシアが領有していたかを説明したいと思います。
そして「明治・海・2人」という本に出て来るアリュート族やカムチャッカ半島に住んでいた先住民について簡単な説明をしたいと思います。

初代ロシア皇帝、 ピョートル1世( 在位:1721年 - 1725年)がベーリング隊にアラスカまでの探索を命じたのです。
ベーリング隊は2度目の遠征でアジアと北米の間にベーリング海峡があることを発見します。
そしてその直後の1741年に、ベーリング隊の隊員がアラスカに上陸します。
この上陸によってカムチャッカ半島、アリューシャン列島、そしてアラスカはロシア皇帝の領有地になったのです。
その後、ロシア正教の宣教師が派遣されカムチャッカ半島、アリューシャン列島、そしてアラスカにはロシア正教の教会が建てられたのです。
しかし1867年にロシア皇帝はアリューシャン列島と広大なアラスカをアメリカに売り渡したのです。ですから現在はアラスカとアリューシャン列島はアメリカの領土なのです。

さてこの地域の先住民の話をします。
アリューシャン列島にはアリュート族が住んでいました。
土地が貧しく資源の少ない島でしたが、彼らは流木や海の生物資源を巧みに利用して生活していました。特徴的なのは海獣を狩ることが上手だったのです。
海獣の皮や消化器官でできたフードつきの防水服を着て、流木と海獣の皮で作られたカヤックに乗り、流木と骨で作る投げ槍などを持って数人の仲間と漁に出てラッコ、アザラシ、トド、セイウチ、クジラといった獲物を捕らえてきました。
長年孤立した民族でしたが、17世紀までに列島には約25,000人が暮らし、大いに栄えたそうです。
しかしロシア人の進出により海洋資源が枯渇し、またロシア人が持ち込んだ疾病によってその数は十分の一以下に激減し、1910年の調査ではアリュート族の数は1,491人しかいなかったそうです。
それでは写真を示しながら説明を続けます。

1番目の写真はアリューシャン列島のある島の夏の風景です。この列島は典型的な火山列島で、島々には火山があります。冬は厳寒の地ですが短い夏には草花も咲きます。

2番目の写真はある島のロシア人が開いた町の写真です。ロシア正教の教会も見えます。
「明治・海・2人」という本によると列島の島々にこのような教会堂があり、アリュート族は皆ロシア正教の信者になり、ロシア風の名前になっていたそうです。

3番目の写真は暖かい夏のアリュート族の家族の写真です。

4番目の写真は厳寒の冬のアリュート族の家族の写真です。

さてカムチャッカ半島の先住民をごく簡単に示します。
カムチャッカ半島の大部分を占めていた民族はイテリメン族でした。
(http://karapaia.com/archives/51643453.html )
 このイテリメン族と呼ばれる人々は、北はコリヤーク族、南は千島アイヌと接し、17世紀末までは2万人といたと推定されています。しかし17世紀末にロシア人が侵入し、カムチャツカ半島がロシアに併合された後は、混血とロシアへの同化、紛争や伝染病の流行などで人口が激減し、現在では2000人ほどしか残っていないそうです。

5番目の写真は伝統衣装を着たイテリメン族の男女の写真です。

6番目の写真は激しい踊りをしているイテリメンの男と女の写真です。

7番目の写真は戦士の服装をしたイテリメンの男性の写真です。

最近のイテリメン族の研究では、アラスカのトリンギット族と最も近い遺伝子を持つことが分かりました。かつてシベリアとアラスカを結ぶ陸橋、大平原ベーリンジアが海上にその姿を現していた期間、シベリヤからアラスカへと移動していったのがモンゴロイド達だったのです。当然、血筋が近いのもうなずけます。
ちなみに日本の縄文人は古モンゴロイド、弥生人は新モンゴロイドと考えられているので、日本人とも血がつながった民族だったのです。
なおアラスカのトリンギット族のことは長くなるので割愛します。

以上のようなロシア支配と先住民達のことを知った上で、白崎謙太郎さんの「明治・海・2人」という本を読むと一層面白いと思います。
この本は2000円で他に送料がかかります。下記にメールで申し込むと買うことが出来ます。立派な装丁の198ページの本です。
shirasakikentaro@gmail.com


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)