今日は江戸幕府が西洋式帆船の造船技術を導入し、風上にも登れるスクーナーを10隻以上も建造した事実をご報告いたします。建造した最初の帆船は1855年5月に西伊豆の君沢郡、戸田村で完成し「ヘダ号」と命名されロシアに向けて出港したのです。それは明治維新の12年前の史実です。
先週、戸田へ一泊旅行をしたのは、この我が国最初のスクーナー、「ヘダ号」の模型が戸田の沼津市立博物館に展示してあるのを見るためです。この沼津市立博物館は戸田崎の突端にあり、その名前は「戸田造船郷土資料博物館、駿河湾深海生物館」と言います。
それでは写真に従ってご説明いたします。
1番目の写真はこの博物館の入り口の写真です。足の弱い私はこの写真の右上に写っているスタッフに体を支えて貰い階段を登りました。スタッフの文字通り献身的な支えが無ければ2階にある「ヘダ号」の展示を見ることは不可能でした。ここに記して彼女の親切に感謝の意を表します。
2番目の写真は「ヘダ号」の大きな模型です。この船は日露和親条約を締結したプチャーチンを乗せて1855年5月2日に戸田を出港してロシアに帰ったのです。
さてこの「ヘダ号」の建造でその後、江戸幕府は得た造船技術をどのように活用したのでしょうか?
幕府はこの構造の帆船を君沢形と命名し、幾つかの藩に、その造船技術を伝えたのです。
3番目の写真は君沢形量産船を描いた絵図「君沢型御船」(福井県立図書館松平文庫収蔵)です。
この江戸幕府の君沢形量産船の建造にまつわる史実を調べてみたら非常に厳密な研究論文のような資料を見つけました。
それが君沢形;https://ja.wikipedia.org/wiki/君沢形 です。
この資料の正確さは次のような参考文献からも伺い知れます。
浅川道夫 『お台場―品川台場の設計・構造・機能』 錦正社、2009年。ISBN 978-4764603288。
石井謙治 『国史大辞典 第4巻 - 君沢形』 吉川弘文館、1984年。ISBN 978-4642005043。
石井謙治 『和船 II』 法政大学出版局、1995年。ISBN 978-4588207624。
石井謙治監修 『日本の船を復元する―古代から近世まで』 学習研究社、2002年。ISBN 978-4054016507。
神谷大介「波濤の洋式帆船「君沢形」」、『本郷』第134号、吉川弘文館、2018年、 37-39頁。NCID AN1046456X
奈木盛雄 『駿河湾に沈んだディアナ号』 元就出版社、2005年。ISBN 978-4861060205。
富士市立博物館 『日露友好150周年記念特別展「ディアナ号の軌跡」報告書』 中部海事広報協会、2005年。
船の科学館(編) 『企画展「ペリー来航と石川島造船所」実績報告書』 日本海事科学振興財団、2003年。
私はこの資料を全面的に信用し、その抜粋を読み易いようにして以下にご紹介いたします。
(1)何故、西伊豆、戸田村で西洋帆船が最初に作られたか?
1854年10月21日(嘉永7年8月30日)、日露和親条約の締結交渉のため、ロシア帝国のエフィム・プチャーチン提督はフリゲート「ディアナ」で来日し、下田沖で碇泊中でした。
ところが同年12月23日(嘉永7年11月4日)に安政東海地震に見舞われて「ディアナ」は下田で大破してしまいます。
そこで修理のため戸田村へ回航しようとしました。途中で嵐に会い航行不能となり、1855年1月17日(安政元年12月2日)に沈没してしまったのです。彼等一行は日本の舟に助けられ戸田村の宝泉寺に落ち着きます。そして幕府の支援で帰国用の帆船を建造したのです。
それが「ヘダ号」だったのです。幕府はこの帆船を君沢形と命名します。君沢形の名前は戸田村が属した君沢郡に由来しました。
(2)設計図と日本の船大工の活躍。
設計図は、クロンシュタット軍港司令官ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンのヨットとして建造された試作スクーナーの図面を用いました。
「ディアナ」に積み込まれていたロシア海軍の機関誌『モルスコイ・ズボルニク(ロシア語版)』(1849年1月号)に図面が掲載されていたのです。この試作スクーナーは全長69フィート(21.0m)、幅21フィート(6.4m)、75総トンだったそうです。
「ヘダ号」の設計はロシア人乗員のアレクサンドル・コロコリツォフ少尉やアレクサンドル・モジャイスキーがしました。
このモジャイスキーは後に飛行機の開発に取り組み、ロシアでは飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功した人物とされています。
幕府側が資材や作業員などを提供しました。幕府は、韮山代官の江川英龍(江川太郎左衛門)と勘定奉行の川路聖謨を日本側の責任者に任命して、各地から優秀な船大工を集めたのです。
日本側には洋式船の建造経験は乏しかったにもかかわらず、日露の共同作業は順調で、起工より約3カ月後の4月26日(安政2年3月10日)には無事に進水式を終えました。
艤装も速やかに行われ、5月2日(安政2年3月16日、ロシア暦4月20日)には戸田から初航海に出たのです。建造費用は、労賃を除いて3100-4000両かかったそうです。設計図さえあれば日本の船大工は易々と西洋式帆船を建造出来たのです。
(3)幕府による君沢形の量産体制
「ヘダ号」の建造で洋式造船技術を習得した幕府は、「ヘダ号」の建造許可のわずか15日後の1855年2月8日(安政元年12月22日)には、川路聖謨に対して同型船1隻の戸田での建造を指示します。
後に佐賀藩、水戸藩等も技術習得のため、幕府の許可を得て藩士を派遣しています。
その後「ヘダ号」が無事に進水すると、同年5月6日(安政2年3月20日)には1隻の追加建造を命令します。
同年6月6日(安政2年4月22日)にも2隻の追加を指示したのです。
同年9月16日(安政2年8月6日)には、戸田でさらに3隻のほか、石川島造船所でも4隻の建造を命じました。
戸田製の6隻は1856年1月頃(安政2年12月)までには完成している。
以上のほか、箱館奉行所にも君沢形建造指示が出されたが、箱館奉行所では独自設計を行って別型の二檣スクーナー「箱館丸」などを完成させ、これを箱館形と呼称しています。
(4)日本における君沢形の帆船の活用
日本では君沢形各船は、主に幕府海軍の航海練習船及び運送船として使用されました。
1番船から順に「君沢形一番」「君沢形二番」という番号式の船名を与えられたのです。
このうちの「君沢形一番」が、ロシアから返還された「ヘダ」でした。
戸田製の6隻は、1856年1月頃(安政2年12月)に品川へ回航されます。
1856年8月頃(安政3年7月)には、長州藩と会津藩に2隻ずつ譲渡するよう指示が出されています。
また東京湾防備の品川台場の付属砲艦としても、縮小型の韮山形と合わせて12隻が一時期配備されたようです。
君沢形は、ジョン万次郎の提案により捕鯨船として使うことも計画されます。万次郎の指揮する「君沢形一番」は1859年4月(安政6年3月)に品川を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により損傷し、航海は中止となったそうです。
1872年(明治5年)にアレクセイ・アレクサンドロヴィチ(英語版)大公(アレクサンドル2世の子)が来日した際、今度は随行員としてやってきた元「ディアナ」乗り組みのコンスタンチン・ポシエト中将は、函館港で廃船となっているかつての「ヘダ」を見かけこれを懐かしみ、日本側に対して保存措置を取るよう要望している。しかし、同船が保存されることは無く、その後の消息は不明。
(5)君沢形の帆船のその後の実績
君沢形の建造に携わった船大工たちは、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍した。
その一人の上田寅吉は、長崎海軍伝習所に入学し、1862年には榎本武揚らとオランダへ留学、帰国後、榎本と共に函館戦争に参加したが、明治維新後も横須賀造船所の初代工長として維新後初の国産軍艦「清輝」の建造を指揮しています。
また、高崎伝蔵は長州藩に招聘され、戸田村などで学んだ長州の船大工の尾崎小右衛門とともに、君沢形と同規模のスクーナー式軍艦「丙辰丸」を萩で建造します。
幕府は韮山代官の江川英敏(江川太郎左衛門)に命じて、君沢形を小型化したスクーナー6隻を建造させ、韮山形と命名しています。1866年に幕府が竣工させた国産初の汽走軍艦である「千代田形」も帆装形式は君沢形同様のスクーナーであり、建造現場にも君沢形関係者が多く参加していました。
そして白崎謙太郎著、「明治・海・2人」の中でも明治初年にラッコ猟に使用されたスクーナーは横浜や函館で建造されたと書かれています。
時代は下って日露戦争中ににもこの帆船が使われたのです。
4番目の写真はロシア装甲巡洋艦「ロシア」に停船させられた日本のトップスル・スクーナーAiya Maru (1905年4月26日)の写真です。
以上を総括すると、君沢形は日本の内航海運へのスクーナー導入の契機となったのです。
逆風帆走性能に優れ、少人数でも運航可能、小型船に適したスクーナーは、明治から大正にかけて日本の内航海運で洋式船の多くを占めたのです。
(6)「戸田造船郷土資料博物館」に関するエピソード
明治20(1887)年、プチャーチンの娘オリガ・プチャーチナが、父の受けた厚情に謝意を表するため戸田を訪れました。オリガは、関係者に記念品を贈り、造船所跡地や宿舎となっていた宝泉寺などを見学しました。後にオリガの永眠に際し、遺言により100ルーブルが戸田村へ寄贈されました。
昭和44(1969)年、戸田村が造船郷土資料博物館を建設するにあたり、当時のソビエト連邦政府から、500万円の寄付を受けました。さらに翌45(1970)年には、大阪万博が開催され、ソ連館に展示されていたディアナ号の模型とステンドグラスが、閉会後戸田村に贈られ、現在も当博物館に展示しています。
5番目の写真は戸田村で病死した2人のロシア水兵の宝泉寺にある墓です。
6番目の写真は「戸田造船郷土資料博物館」の入り口にあるプチャーチン提督が乗って来た「ディアナ」号の碇です。
7番目の写真は現在世界各地で航海練習に使用されているスクーナーの写真です。
さてあまり長くなるので今日はここで終わりとします。
謝辞
小生に戸田の君沢形建造の重要性を教えてくれた「海事技術史学会」の会員の白崎謙太郎氏に深甚の感謝の意を表します。
白崎氏には次のような著作があります。
「日本ヨット史」(この欄の2011年11月30日 掲載記事でご紹介しました)
「小網代ヨット史」(この欄の2017年08月04日掲載記事でご紹介しました )
「明治・海・2人ースクーナーとカヌー」(この欄の2018年05月04日掲載記事でご紹介しました)
その他、「日本ヨット協会70年史」と「横浜ヨットクラブ(外人クラブといいました)100年史」があります。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
先週、戸田へ一泊旅行をしたのは、この我が国最初のスクーナー、「ヘダ号」の模型が戸田の沼津市立博物館に展示してあるのを見るためです。この沼津市立博物館は戸田崎の突端にあり、その名前は「戸田造船郷土資料博物館、駿河湾深海生物館」と言います。
それでは写真に従ってご説明いたします。
1番目の写真はこの博物館の入り口の写真です。足の弱い私はこの写真の右上に写っているスタッフに体を支えて貰い階段を登りました。スタッフの文字通り献身的な支えが無ければ2階にある「ヘダ号」の展示を見ることは不可能でした。ここに記して彼女の親切に感謝の意を表します。
2番目の写真は「ヘダ号」の大きな模型です。この船は日露和親条約を締結したプチャーチンを乗せて1855年5月2日に戸田を出港してロシアに帰ったのです。
さてこの「ヘダ号」の建造でその後、江戸幕府は得た造船技術をどのように活用したのでしょうか?
幕府はこの構造の帆船を君沢形と命名し、幾つかの藩に、その造船技術を伝えたのです。
3番目の写真は君沢形量産船を描いた絵図「君沢型御船」(福井県立図書館松平文庫収蔵)です。
この江戸幕府の君沢形量産船の建造にまつわる史実を調べてみたら非常に厳密な研究論文のような資料を見つけました。
それが君沢形;https://ja.wikipedia.org/wiki/君沢形 です。
この資料の正確さは次のような参考文献からも伺い知れます。
浅川道夫 『お台場―品川台場の設計・構造・機能』 錦正社、2009年。ISBN 978-4764603288。
石井謙治 『国史大辞典 第4巻 - 君沢形』 吉川弘文館、1984年。ISBN 978-4642005043。
石井謙治 『和船 II』 法政大学出版局、1995年。ISBN 978-4588207624。
石井謙治監修 『日本の船を復元する―古代から近世まで』 学習研究社、2002年。ISBN 978-4054016507。
神谷大介「波濤の洋式帆船「君沢形」」、『本郷』第134号、吉川弘文館、2018年、 37-39頁。NCID AN1046456X
奈木盛雄 『駿河湾に沈んだディアナ号』 元就出版社、2005年。ISBN 978-4861060205。
富士市立博物館 『日露友好150周年記念特別展「ディアナ号の軌跡」報告書』 中部海事広報協会、2005年。
船の科学館(編) 『企画展「ペリー来航と石川島造船所」実績報告書』 日本海事科学振興財団、2003年。
私はこの資料を全面的に信用し、その抜粋を読み易いようにして以下にご紹介いたします。
(1)何故、西伊豆、戸田村で西洋帆船が最初に作られたか?
1854年10月21日(嘉永7年8月30日)、日露和親条約の締結交渉のため、ロシア帝国のエフィム・プチャーチン提督はフリゲート「ディアナ」で来日し、下田沖で碇泊中でした。
ところが同年12月23日(嘉永7年11月4日)に安政東海地震に見舞われて「ディアナ」は下田で大破してしまいます。
そこで修理のため戸田村へ回航しようとしました。途中で嵐に会い航行不能となり、1855年1月17日(安政元年12月2日)に沈没してしまったのです。彼等一行は日本の舟に助けられ戸田村の宝泉寺に落ち着きます。そして幕府の支援で帰国用の帆船を建造したのです。
それが「ヘダ号」だったのです。幕府はこの帆船を君沢形と命名します。君沢形の名前は戸田村が属した君沢郡に由来しました。
(2)設計図と日本の船大工の活躍。
設計図は、クロンシュタット軍港司令官ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンのヨットとして建造された試作スクーナーの図面を用いました。
「ディアナ」に積み込まれていたロシア海軍の機関誌『モルスコイ・ズボルニク(ロシア語版)』(1849年1月号)に図面が掲載されていたのです。この試作スクーナーは全長69フィート(21.0m)、幅21フィート(6.4m)、75総トンだったそうです。
「ヘダ号」の設計はロシア人乗員のアレクサンドル・コロコリツォフ少尉やアレクサンドル・モジャイスキーがしました。
このモジャイスキーは後に飛行機の開発に取り組み、ロシアでは飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功した人物とされています。
幕府側が資材や作業員などを提供しました。幕府は、韮山代官の江川英龍(江川太郎左衛門)と勘定奉行の川路聖謨を日本側の責任者に任命して、各地から優秀な船大工を集めたのです。
日本側には洋式船の建造経験は乏しかったにもかかわらず、日露の共同作業は順調で、起工より約3カ月後の4月26日(安政2年3月10日)には無事に進水式を終えました。
艤装も速やかに行われ、5月2日(安政2年3月16日、ロシア暦4月20日)には戸田から初航海に出たのです。建造費用は、労賃を除いて3100-4000両かかったそうです。設計図さえあれば日本の船大工は易々と西洋式帆船を建造出来たのです。
(3)幕府による君沢形の量産体制
「ヘダ号」の建造で洋式造船技術を習得した幕府は、「ヘダ号」の建造許可のわずか15日後の1855年2月8日(安政元年12月22日)には、川路聖謨に対して同型船1隻の戸田での建造を指示します。
後に佐賀藩、水戸藩等も技術習得のため、幕府の許可を得て藩士を派遣しています。
その後「ヘダ号」が無事に進水すると、同年5月6日(安政2年3月20日)には1隻の追加建造を命令します。
同年6月6日(安政2年4月22日)にも2隻の追加を指示したのです。
同年9月16日(安政2年8月6日)には、戸田でさらに3隻のほか、石川島造船所でも4隻の建造を命じました。
戸田製の6隻は1856年1月頃(安政2年12月)までには完成している。
以上のほか、箱館奉行所にも君沢形建造指示が出されたが、箱館奉行所では独自設計を行って別型の二檣スクーナー「箱館丸」などを完成させ、これを箱館形と呼称しています。
(4)日本における君沢形の帆船の活用
日本では君沢形各船は、主に幕府海軍の航海練習船及び運送船として使用されました。
1番船から順に「君沢形一番」「君沢形二番」という番号式の船名を与えられたのです。
このうちの「君沢形一番」が、ロシアから返還された「ヘダ」でした。
戸田製の6隻は、1856年1月頃(安政2年12月)に品川へ回航されます。
1856年8月頃(安政3年7月)には、長州藩と会津藩に2隻ずつ譲渡するよう指示が出されています。
また東京湾防備の品川台場の付属砲艦としても、縮小型の韮山形と合わせて12隻が一時期配備されたようです。
君沢形は、ジョン万次郎の提案により捕鯨船として使うことも計画されます。万次郎の指揮する「君沢形一番」は1859年4月(安政6年3月)に品川を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により損傷し、航海は中止となったそうです。
1872年(明治5年)にアレクセイ・アレクサンドロヴィチ(英語版)大公(アレクサンドル2世の子)が来日した際、今度は随行員としてやってきた元「ディアナ」乗り組みのコンスタンチン・ポシエト中将は、函館港で廃船となっているかつての「ヘダ」を見かけこれを懐かしみ、日本側に対して保存措置を取るよう要望している。しかし、同船が保存されることは無く、その後の消息は不明。
(5)君沢形の帆船のその後の実績
君沢形の建造に携わった船大工たちは、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍した。
その一人の上田寅吉は、長崎海軍伝習所に入学し、1862年には榎本武揚らとオランダへ留学、帰国後、榎本と共に函館戦争に参加したが、明治維新後も横須賀造船所の初代工長として維新後初の国産軍艦「清輝」の建造を指揮しています。
また、高崎伝蔵は長州藩に招聘され、戸田村などで学んだ長州の船大工の尾崎小右衛門とともに、君沢形と同規模のスクーナー式軍艦「丙辰丸」を萩で建造します。
幕府は韮山代官の江川英敏(江川太郎左衛門)に命じて、君沢形を小型化したスクーナー6隻を建造させ、韮山形と命名しています。1866年に幕府が竣工させた国産初の汽走軍艦である「千代田形」も帆装形式は君沢形同様のスクーナーであり、建造現場にも君沢形関係者が多く参加していました。
そして白崎謙太郎著、「明治・海・2人」の中でも明治初年にラッコ猟に使用されたスクーナーは横浜や函館で建造されたと書かれています。
時代は下って日露戦争中ににもこの帆船が使われたのです。
4番目の写真はロシア装甲巡洋艦「ロシア」に停船させられた日本のトップスル・スクーナーAiya Maru (1905年4月26日)の写真です。
以上を総括すると、君沢形は日本の内航海運へのスクーナー導入の契機となったのです。
逆風帆走性能に優れ、少人数でも運航可能、小型船に適したスクーナーは、明治から大正にかけて日本の内航海運で洋式船の多くを占めたのです。
(6)「戸田造船郷土資料博物館」に関するエピソード
明治20(1887)年、プチャーチンの娘オリガ・プチャーチナが、父の受けた厚情に謝意を表するため戸田を訪れました。オリガは、関係者に記念品を贈り、造船所跡地や宿舎となっていた宝泉寺などを見学しました。後にオリガの永眠に際し、遺言により100ルーブルが戸田村へ寄贈されました。
昭和44(1969)年、戸田村が造船郷土資料博物館を建設するにあたり、当時のソビエト連邦政府から、500万円の寄付を受けました。さらに翌45(1970)年には、大阪万博が開催され、ソ連館に展示されていたディアナ号の模型とステンドグラスが、閉会後戸田村に贈られ、現在も当博物館に展示しています。
5番目の写真は戸田村で病死した2人のロシア水兵の宝泉寺にある墓です。
6番目の写真は「戸田造船郷土資料博物館」の入り口にあるプチャーチン提督が乗って来た「ディアナ」号の碇です。
7番目の写真は現在世界各地で航海練習に使用されているスクーナーの写真です。
さてあまり長くなるので今日はここで終わりとします。
謝辞
小生に戸田の君沢形建造の重要性を教えてくれた「海事技術史学会」の会員の白崎謙太郎氏に深甚の感謝の意を表します。
白崎氏には次のような著作があります。
「日本ヨット史」(この欄の2011年11月30日 掲載記事でご紹介しました)
「小網代ヨット史」(この欄の2017年08月04日掲載記事でご紹介しました )
「明治・海・2人ースクーナーとカヌー」(この欄の2018年05月04日掲載記事でご紹介しました)
その他、「日本ヨット協会70年史」と「横浜ヨットクラブ(外人クラブといいました)100年史」があります。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)