後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

北インドの僻地に住む日本女性、池田悦子さんの幸せな暮らし

2018年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
つくづく女性は優しくて強いと感動します。世界の僻地に行って幸せな家庭をもって悠々と人生を過ごしています。特に日本の女性は世界中の僻地に住んでいます。自然体で現地に溶け込んで、異国の生活に何も不自由なく夫を愛し、子供を育て周囲の村人を助けています。日本に残した両親とは電話で話しているようですが、それ以外に日本には未練が無いようなのです。
このような女性は沢山いますが、今日は北インドの僻地のラダックに住んで家庭を持っている池田悦子さんをご紹介したいと思います。

池田 悦子さんは、ラダックのストック村に住んでいます。
兎に角、活発な方です。夫とともに農業をしながら旅行代理店をしてインドのチベットと言われる秘境に観光客を呼び込んでいます。
その上、自分達で改装した自宅の古民家でホームステイを運営しながら子育てをして暮らしています。
彼女のブログ、NEO-LADAKH/ネォ・ラダック (http://neo-ladakh.blogspot.jp/ )には、素晴らしい大自然、その季節の移り変わりや、山と野生動物などが写真とともに沢山掲載されています。
彼女の子育ての様子や、変わりゆくラダックを現地より発信しています。
そして近所の貧しい子供達へランドセルやカバンなどを配る活動もしています。さらにインドの裕福層から集めた支援物資を辺境の村に届けたりしています。
その活動のことは、「優しい世界の作り方」(http://life-on-the-planet.blogspot.jp/2014/09/41.html )に書いてあります。

それでは池田悦子さんの生活の様子を写真で示します。

1番目の写真は池田 悦子さんです。彼女は 1974年12月25日生まれです。 1996年初めてインドへ行きます。バックパッカーの気ままな旅から、現地のNGOや市民団体の活動地域訪問しました。
現在、ラダック出身の夫と、3人の子どもをラダックの大自然の中でのびのびと育てています。インドの少数民族であるラダッキーの、自然と共にある生き方に共鳴して住み込んでいるのです。

2番目の写真は土地の痩せたラダック地方の農業の様子です。

3番目の写真はラダックにヒマラヤ山脈の裾野の山々が迫って、厳しい農業を暗示している写真です。

4番目の写真は悦子さんの家の桃の花が咲き出した様子を示す写真です。厳寒の冬が過ぎ、やっと春がやって来ました。

5番目の写真は自分達で改修した古民家の自宅です。ここで旅行代理やホームステイをしています。

ラダック地方の畑でも、やっと数年前からトラクターで耕作するようになったそうです。
それまでは、牛とヤクの混合種のゾという家畜を使っていたのです。
畑を耕す時の素敵な作業歌も、今では、たまに聞こえてくるだけになったそうです。
民族の歌が消えて、寂しいそうです。
しかし畑仕事が楽しげでも、実際にゾを飼って維持するのは大変なことです。
機械化が進んで寂しくても、悦子さん達は農業をやめません。地に足つけて生きてくには、自分で食べるものくらい少しでも作っていくと決心しているからです。

こんなことが書いてあるのが、彼女のブログ、NEO-LADAKH/ネォ・ラダック (http://neo-ladakh.blogspot.jp/ )です。
このブログを見ると自然と共に農業をしながら生きる悦子さんの人生観に感動せざるを得ません。

世界中の僻地に散らばって住んでいる日本の女性は皆幸せそうです。それに比較して日本の男性はどうでしょうか?
私の個人的な感想では女性の優しさこそ世界中に通用する美徳のように思います。男性は敗けですね。

それはそれとして、今日は異国に住む皆様の幸多かれと祈ります。あわせて皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)




世界の僻地で幸せに暮らし、その土になる日本人たち

2018年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
最近のテレビ番組に「こんな所に日本人」というよう番組が幾つかあります。いろいろな事情で日本人が世界の果ての僻地へ行って、幸せそうに暮らしている様子を紹介する番組です。私が非常に熱心に見る番組です。何故かというと、そこには個人の自由と幸福とは何かという問題が取り上げてあるからです。
私は狭量なのです。東京にしがみついて故郷の仙台だけを懐かしんで生きているのです。ですから私にとっては世界の僻地に住んでいる日本人に、そのことだけで感動してしまうのです。
高校時代の漢文の先生から「人間至る処青山あり」の一節を習って以来、長い人生の折々に必ず思い出しています。
それは憧れですが、私には実行出来ません。
この一節は幕末の長州の月性という僧侶が作った漢詩の最後の一節です。漢詩の意味は次のようなものです。

將(まさ)に 東遊せんとして 壁に 題す。

男児志を立て郷関を出ず
学若し成る無くんば復た還らず
骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん
人間到る処青山あり

最後の句の意味はこの世ではいたるところに墓を作れる場所があるということです。

さて世界の僻地で幸せに暮らし、その土になった日本人たちは沢山います。今日は一例として南米のペルーのマチュピチ遺跡の麓にマチュピチュ村を作ってマチュピチ遺跡を世界遺産にした日本人の話をご紹介します。

もう少し正確に書くと 福島県安達郡玉井村の野内与吉が1917年ペルーに移民し、1923年にマチュピチュの麓のに定住したのです。そしてそのにホテルなどを作りマチュピチ遺跡への観光拠点として発展させ、マチュピチ村の初代の村長になったのです。
野内与吉の次男のホセは1981年から1983年までマチュピチュ村の村長になり、その時、マチュピチ遺跡が世界遺産になるようにペルー政府に働きかけ、間もなく正式に世界遺産に認定されたのです。その後観光客が非常に増え、マチュピチュ村の生活が潤ったのです。
野内与吉は1969年にマチュピチ村の土に返りました。しかし現在でも野内与吉はマチュピチュ村の英雄として尊敬されています。
それでは写真に従ってもう少し詳しく説明いたします。

1番目の写真は皆様ご存知のマチュピチ遺跡です。

2番目の写真は南米のペルーの地図です。マチュピチュの場所は南米ペルーのンデス山脈の東側山中にあります。

3番目の写真は野内与吉の写真です。

4番目の写真はマチュピチュ村へ初めて汽車が来たときの写真です。

5番目の写真は現在のマチュピチュ村の駅の様子です。

6番目の写真は現在のマチュピチュ村の風景です。

7番目の写真は観光客で賑わうマチュピチュ村の夜の光景です。

さて野内与吉の孫の野内セサル良郎さんは日本マチュピチュ協会の副会長ですが、彼の話を以下にご紹介します。
野内与吉は海外で成功したいという夢を抱いて、1917年に契約移民としてペルーへ渡りました。
農園で働いたが契約内容と実地の状況の違いから1年で辞め、米国やブラジル、ボリビアなどを放浪します。
しかし1923年頃にはペルーへ戻り、クスコ県にあるペルー国鉄クスコ-サンタ・アナ線(通称FCSA)に勤務し、会社専用電車の運転や線路拡大工事に携わりました。そして1929年にはクスコ~マチュピチュ区間の線路が完成したのです。
 その後与吉は、結婚したマリア・ポルティージョとマチュピチュ村に住みこみます。
2人の娘と2人の息子に恵まれ、次男のホセは1981年から1983年までマチュピチュ村村長を勤めます。彼はマチュピチュを世界遺産にする運動に成功したのです。
その以前に野内与吉は、何もないマチュピチュ村に川から水を引いて畑を作り、水力発電を作り、村に電気をもたらします。
創意工夫に富み、労をいとわず、マチュピチュ村のために尽くして皆に喜ばれていたのです。
 1935年には、この村で初の「ホテル・ノウチ」を建てます。3階建てで21部屋を持つ立派なホテルでした。
 与吉はスペイン語のほか先住民の言語であるケチュア語に通じ、英語も喋り、現地のガイドもしていました。
村人に信頼されていた与吉は人望を集め、1939~1941年にはマチュピチュ村の最高責任者である行政官を務め、続いて41年からは初代村長になったのです。

 1968年与吉は故郷である福島県大玉村に52年ぶりに帰郷しました。
与吉の両親はすでに他界していたが、兄弟や親戚が与吉を歓迎したそうです。与吉は日本に着くと「電気はついたか?」と質問したそうで、彼の中で時間が当時のまま止まっていたのです。
滞在中は、マチュピチュ遺跡に関する講演会を開くなど、村人にペルーの魅力を伝えていたようである。
また、地元の新聞やラジオ番組に出演し、半世紀ぶりの帰郷に「今世浦島(現代の浦島太郎)」と紹介され、その音声も残っています。
クスコに戻ってわずか2ヶ月後の1969年8月29日に息を引き取りペルーの土になります。
(http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v19n3/v19n3_nouchi.html より)

 こういったマチュピチュ村と鉄道の歴史、そしてそれに尽力した日本人の物語は先日テレビで紹介され多くの人の知ることになりました。
しかし、それまでは日本では知られていませんでした。

このような日本人はきっと沢山いると思います。本当に世界は広いのです。
世界の果ての僻地へ行って、幸せそうに暮らしている日本人の様子を見ると感動します。その揺るぎ無い人間愛に感動します。
自分の弱さがしみじみ分かります。
人間の限りない素晴らしさに吃驚するのです。人の自由と幸福とは何かという問題を考えざるを得ないのです。

それはそれとして、今日は異国に住む皆様の幸多かれと祈ります。あわせて皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)