ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)が5月3日に、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が登録がふさわしい旨を勧告しました。
その結果、6月24日から開催される第42回世界遺産委員会での登録が確実になりました。
この潜伏キリシタン遺産は 12の資産で構成されています。そしてその 半数は長崎県の五島列島などの過疎地にあるのです。
何故、何も無い集落が世界の文化遺産になるのでしょうか?
理解出来ません。法隆寺や唐招提寺が世界文化遺産になるなら分かります。
でも長崎や熊本にある教会群は文化遺産ではなく、原城の跡地やキリシタンの隠れていた集落の跡地が世界文化遺産になるのです。
分かりません。賛成出来ません。と言う人も多いでしょう。観光バスで見物に行く価値など無いのでしょう。
ですから今回の世界文化遺産の認定への運びの価値が分る人と、分からない人が出て来るのは当然です。
結論を先に書けば分かる人は宗教を信じている人です。人間にとって信仰が重要だと信じている人です。
分からない人は宗教に関心の無い人、更に宗教は有害だと思っている人なのでしょう。
人間は自由であるべきです。宗教を信じようが信じまいが、どちらでも良いのです。絶対に優劣はありません。
さて何故、何も無い集落が世界の文化遺産になるか一つの実例の写真を示しながら説明したいと思います。
一つの実例とは12の構成資産の2番目に出て来る、「平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)」です。
九州の北西部に平戸城で有名な平戸島があります。平戸城の周囲には美しい教会もあり観光地になって賑わっています。
しかし平戸の集落、春日集落と安満岳は平戸島の反対側の淋しい場所にあります。その北には生月島があり橋でつながっています。
観光客は行かない地域です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/3d/f1989e5c88169601a7386723d0b3de42.jpg)
1番目の写真は今回世界遺産になる「平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)」の範囲を示しています。何も無くてもこの範囲の土地が世界文化遺産になるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/26/e80456eaeacb7386f304b5018aaf795b.jpg)
2番目の写真は現在の春日集落の段々になった水田です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/31/462555cbbd98ff9d7a9dcdbff7629475.jpg)
3番目の写真も春日集落の段々になった水田です。この集落の現在の人口は40人ほどだそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/96/e119d1ac0df7b7cecf1fab064d6bcb89.jpg)
4番目の写真は山の上の方から海の方を見た春日集落の風景です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/9f/7f0609e0d826ed713f7006da002606f9.jpg)
5番目の写真は春日集落の海沿いにある神社の写真です。
このように写真で示した現在の春日集落には潜伏キリシタンの存在を示す証拠は皆無なのです。
それにもかかわらず、この場所が世界文化遺産になるのです。はたして観光客が押し寄せるでしょうか?
しかし国際記念物遺跡会議(イコモス)がここを文化遺産として認定しようとする理由を以下のように発表しているのです。
宗教というものに関心のある方は是非お読み下さい。
平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
http://kirishitan.jp/components/com002 から転載いたします。
「平戸の聖地と集落」は、キリスト教が伝わる以前から続く自然崇拝思想に重ねて自然の山などを崇敬し、キリシタンの殉教地を聖地とすることにより自らのかたちで信仰をひそかに続けた潜伏キリシタンの集落である。禁教期の春日かすが集落の潜伏キリシタンは、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場とされてきた安満岳(やすまんだけ)に対して自らの信仰を重ねて崇拝した。さらに彼らは、禁教初期にキリシタンの処刑が行われた中江ノ島を殉教地として崇敬し、洗礼などに使う聖水採取の場とした。解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰形態を維持し続けたが、現在ではほぼ消滅している。
「平戸ひらどの聖地と集落」は、平戸島の北西に位置する潜伏キリシタン集落と彼らが崇敬した山岳と島からなる。春日集落は、平戸島の西岸に位置し、東側の安満岳から伸びる2本の尾根に挟まれた谷状の地形が海岸へと連続する緩やかな傾斜面に形成された潜伏キリシタン集落である。春日集落には、キリスト教伝来期のキリシタンが葬られ、禁教期以降に聖地となったと考えられる丸尾山をはじめ、潜伏キリシタンが信心具を隠した「納戸」のある住居、潜伏キリシタンの墓地がある。春日集落に隣接し、潜伏キリシタンが在来の自然崇拝に重ねて崇敬した安満岳には、白山比賣神社その参道、石祠、西禅寺跡、および禁教期に管理されていた山頂の自然林がある。さらに春日集落からのぞむ海上には、禁教初期にキリシタンの処刑が行われ、殉教地として崇敬の対象となった中江ノ島がある。
平戸島には1550年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられ、平戸島の西岸地域の領主である籠手田氏が改宗したことにより春日集落にもキリスト教が広まった。1563年のイエズス会宣教師の書簡からは、キリシタンの共同体である「組」が春日集落において成立していたことが確認できる。
しかし、1599年、平戸地方の領主であった平戸松浦氏がキリスト教を禁じたため、籠手田氏は平戸島から退去した。1614年に江戸幕府による全国的な禁教令が出た後も宣教師はしばらく国内に潜入し、ひそかに平戸を訪れていたが、1622年にカミロ・コンスタンツォ神父が殉教して以降、この地を訪れる宣教師はいなくなった。宣教師が不在となる一方で、春日集落では「組」の指導者を中心として共同体が維持され、ひそかに信仰が続けられた。
禁教期の春日集落では、潜伏キリシタンが2つの共同体を維持し、指導者を中心として自分たち自身で日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続ける伝統がはぐくまれた。指導者の住居には仏壇や神棚のほか、潜伏キリシタンの信心具(納戸神)を隠した「納戸」と呼ばれる部屋があり、屋外では、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場であった安満岳に対して潜伏キリシタンの信仰を重ね、聖地として崇拝した。
安満岳は春日集落の東側に位置し、標高536mの平戸地方における最高峰である。山域の広い範囲にアカガシの原生林が残り、山中には白山比賣神社とその参道、山頂部には石祠、西禅寺跡などの禁教期の潜伏キリシタンの信仰のあり方に関係する遺構が今も残っている。白山比賣神社は718年に創建され、白山権現とも呼ばれた。山頂には近代に建て替えられた社殿と、江戸時代以前につくられた石の参道や鳥居がある。社殿の後背地には多様な石造物群が見られ、「キリシタン祠」と呼ぶ石祠いしぼこらもある。参道に隣接する西禅寺跡は、白山比賣神社とあわせて創建された寺院の跡で、その境内には建物の礎石をはじめ、池、石造物などの遺構が残されている。
16世紀の宣教師の書簡によると、西禅寺を中心とする仏教勢力が「安満岳」と称して大きな勢力を誇り、宣教師らと敵対していたことがわかる。しかし禁教期になると、在来の神道、仏教に基づく宗教観と潜伏キリシタンの信仰とが重なり、安満岳は神道、仏教、潜伏キリシタンの信仰が並存する聖なる山となった。春日集落からも安満岳山頂に向けて参道が延び、集落全体の住民にとって崇拜の対象となっていた。禁教期から伝わるとされ、潜伏キリシタンの祈りの言葉である「神寄せのオラショ」においても、安満岳は「安満岳様」または「安満岳の奥の院様」と呼ばれており、安満岳が潜伏キリシタンにとって信仰の対象として重要な存在であったことがわかる。
平戸島北西岸の沖合2kmに位置する中江ノ島は、東西約400m、南北約50m、標高34.6mの無人島で、禁教初期に平戸藩によるキリシタンの処刑が行われた記録が残されている。中江ノ島は、春日集落など平戸西海岸の潜伏キリシタンが殉教地として崇敬した場所であり、岩からしみ出す聖水を採取する「お水取り」の儀式を行う重要な聖地となった。
潜伏キリシタンによる安満岳や中江ノ島の聖地への崇拝、崇敬は、外見的には伝統的な在来信仰、民俗の儀礼として行われ、内面での信仰は隠し続けられた。
1865年の大浦天主堂での「信徒発見」の知らせはただちに平戸地方にもたらされ、春日集落の潜伏キリシタンが新たな信仰の局面を迎えるきっかけとなった。春日集落の納戸神の中に、19世紀に海外で制作されたと考えられるカトリックの信心具が加わっていることから、集落内の潜伏キリシタンとパリ外国宣教会宣教師との接触があったことがうかがえる。しかし、春日集落の潜伏キリシタンは、解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰形態を維持し続けた。やがて20世紀になると禁教期の信仰形態は次第に失われ、現在ではほぼ消滅している。
以上のような宗教的活動は世界的にも非常に価値があるという判断で今回の世界文化遺産になるのです。
今回12の潜伏キリシタン遺産は、幕末や明治期以後に建てられた教会ではなく禁教期の信仰が文化遺産になるのです。
信仰は精神活動ですから目には見えません。
見えないものを世界文化遺産と指定しようとするのです。
分からい人がいて当然です。
しかし雑に言えば長崎県や熊本県に世界文化遺産が沢山あるのです。長崎や熊本への観光客が増えるでしょう。それも大変良いことです。目出度いことです。嬉しいです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
その結果、6月24日から開催される第42回世界遺産委員会での登録が確実になりました。
この潜伏キリシタン遺産は 12の資産で構成されています。そしてその 半数は長崎県の五島列島などの過疎地にあるのです。
何故、何も無い集落が世界の文化遺産になるのでしょうか?
理解出来ません。法隆寺や唐招提寺が世界文化遺産になるなら分かります。
でも長崎や熊本にある教会群は文化遺産ではなく、原城の跡地やキリシタンの隠れていた集落の跡地が世界文化遺産になるのです。
分かりません。賛成出来ません。と言う人も多いでしょう。観光バスで見物に行く価値など無いのでしょう。
ですから今回の世界文化遺産の認定への運びの価値が分る人と、分からない人が出て来るのは当然です。
結論を先に書けば分かる人は宗教を信じている人です。人間にとって信仰が重要だと信じている人です。
分からない人は宗教に関心の無い人、更に宗教は有害だと思っている人なのでしょう。
人間は自由であるべきです。宗教を信じようが信じまいが、どちらでも良いのです。絶対に優劣はありません。
さて何故、何も無い集落が世界の文化遺産になるか一つの実例の写真を示しながら説明したいと思います。
一つの実例とは12の構成資産の2番目に出て来る、「平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)」です。
九州の北西部に平戸城で有名な平戸島があります。平戸城の周囲には美しい教会もあり観光地になって賑わっています。
しかし平戸の集落、春日集落と安満岳は平戸島の反対側の淋しい場所にあります。その北には生月島があり橋でつながっています。
観光客は行かない地域です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/3d/f1989e5c88169601a7386723d0b3de42.jpg)
1番目の写真は今回世界遺産になる「平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)」の範囲を示しています。何も無くてもこの範囲の土地が世界文化遺産になるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/26/e80456eaeacb7386f304b5018aaf795b.jpg)
2番目の写真は現在の春日集落の段々になった水田です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/31/462555cbbd98ff9d7a9dcdbff7629475.jpg)
3番目の写真も春日集落の段々になった水田です。この集落の現在の人口は40人ほどだそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/96/e119d1ac0df7b7cecf1fab064d6bcb89.jpg)
4番目の写真は山の上の方から海の方を見た春日集落の風景です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/9f/7f0609e0d826ed713f7006da002606f9.jpg)
5番目の写真は春日集落の海沿いにある神社の写真です。
このように写真で示した現在の春日集落には潜伏キリシタンの存在を示す証拠は皆無なのです。
それにもかかわらず、この場所が世界文化遺産になるのです。はたして観光客が押し寄せるでしょうか?
しかし国際記念物遺跡会議(イコモス)がここを文化遺産として認定しようとする理由を以下のように発表しているのです。
宗教というものに関心のある方は是非お読み下さい。
平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
http://kirishitan.jp/components/com002 から転載いたします。
「平戸の聖地と集落」は、キリスト教が伝わる以前から続く自然崇拝思想に重ねて自然の山などを崇敬し、キリシタンの殉教地を聖地とすることにより自らのかたちで信仰をひそかに続けた潜伏キリシタンの集落である。禁教期の春日かすが集落の潜伏キリシタンは、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場とされてきた安満岳(やすまんだけ)に対して自らの信仰を重ねて崇拝した。さらに彼らは、禁教初期にキリシタンの処刑が行われた中江ノ島を殉教地として崇敬し、洗礼などに使う聖水採取の場とした。解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰形態を維持し続けたが、現在ではほぼ消滅している。
「平戸ひらどの聖地と集落」は、平戸島の北西に位置する潜伏キリシタン集落と彼らが崇敬した山岳と島からなる。春日集落は、平戸島の西岸に位置し、東側の安満岳から伸びる2本の尾根に挟まれた谷状の地形が海岸へと連続する緩やかな傾斜面に形成された潜伏キリシタン集落である。春日集落には、キリスト教伝来期のキリシタンが葬られ、禁教期以降に聖地となったと考えられる丸尾山をはじめ、潜伏キリシタンが信心具を隠した「納戸」のある住居、潜伏キリシタンの墓地がある。春日集落に隣接し、潜伏キリシタンが在来の自然崇拝に重ねて崇敬した安満岳には、白山比賣神社その参道、石祠、西禅寺跡、および禁教期に管理されていた山頂の自然林がある。さらに春日集落からのぞむ海上には、禁教初期にキリシタンの処刑が行われ、殉教地として崇敬の対象となった中江ノ島がある。
平戸島には1550年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられ、平戸島の西岸地域の領主である籠手田氏が改宗したことにより春日集落にもキリスト教が広まった。1563年のイエズス会宣教師の書簡からは、キリシタンの共同体である「組」が春日集落において成立していたことが確認できる。
しかし、1599年、平戸地方の領主であった平戸松浦氏がキリスト教を禁じたため、籠手田氏は平戸島から退去した。1614年に江戸幕府による全国的な禁教令が出た後も宣教師はしばらく国内に潜入し、ひそかに平戸を訪れていたが、1622年にカミロ・コンスタンツォ神父が殉教して以降、この地を訪れる宣教師はいなくなった。宣教師が不在となる一方で、春日集落では「組」の指導者を中心として共同体が維持され、ひそかに信仰が続けられた。
禁教期の春日集落では、潜伏キリシタンが2つの共同体を維持し、指導者を中心として自分たち自身で日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続ける伝統がはぐくまれた。指導者の住居には仏壇や神棚のほか、潜伏キリシタンの信心具(納戸神)を隠した「納戸」と呼ばれる部屋があり、屋外では、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場であった安満岳に対して潜伏キリシタンの信仰を重ね、聖地として崇拝した。
安満岳は春日集落の東側に位置し、標高536mの平戸地方における最高峰である。山域の広い範囲にアカガシの原生林が残り、山中には白山比賣神社とその参道、山頂部には石祠、西禅寺跡などの禁教期の潜伏キリシタンの信仰のあり方に関係する遺構が今も残っている。白山比賣神社は718年に創建され、白山権現とも呼ばれた。山頂には近代に建て替えられた社殿と、江戸時代以前につくられた石の参道や鳥居がある。社殿の後背地には多様な石造物群が見られ、「キリシタン祠」と呼ぶ石祠いしぼこらもある。参道に隣接する西禅寺跡は、白山比賣神社とあわせて創建された寺院の跡で、その境内には建物の礎石をはじめ、池、石造物などの遺構が残されている。
16世紀の宣教師の書簡によると、西禅寺を中心とする仏教勢力が「安満岳」と称して大きな勢力を誇り、宣教師らと敵対していたことがわかる。しかし禁教期になると、在来の神道、仏教に基づく宗教観と潜伏キリシタンの信仰とが重なり、安満岳は神道、仏教、潜伏キリシタンの信仰が並存する聖なる山となった。春日集落からも安満岳山頂に向けて参道が延び、集落全体の住民にとって崇拜の対象となっていた。禁教期から伝わるとされ、潜伏キリシタンの祈りの言葉である「神寄せのオラショ」においても、安満岳は「安満岳様」または「安満岳の奥の院様」と呼ばれており、安満岳が潜伏キリシタンにとって信仰の対象として重要な存在であったことがわかる。
平戸島北西岸の沖合2kmに位置する中江ノ島は、東西約400m、南北約50m、標高34.6mの無人島で、禁教初期に平戸藩によるキリシタンの処刑が行われた記録が残されている。中江ノ島は、春日集落など平戸西海岸の潜伏キリシタンが殉教地として崇敬した場所であり、岩からしみ出す聖水を採取する「お水取り」の儀式を行う重要な聖地となった。
潜伏キリシタンによる安満岳や中江ノ島の聖地への崇拝、崇敬は、外見的には伝統的な在来信仰、民俗の儀礼として行われ、内面での信仰は隠し続けられた。
1865年の大浦天主堂での「信徒発見」の知らせはただちに平戸地方にもたらされ、春日集落の潜伏キリシタンが新たな信仰の局面を迎えるきっかけとなった。春日集落の納戸神の中に、19世紀に海外で制作されたと考えられるカトリックの信心具が加わっていることから、集落内の潜伏キリシタンとパリ外国宣教会宣教師との接触があったことがうかがえる。しかし、春日集落の潜伏キリシタンは、解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰形態を維持し続けた。やがて20世紀になると禁教期の信仰形態は次第に失われ、現在ではほぼ消滅している。
以上のような宗教的活動は世界的にも非常に価値があるという判断で今回の世界文化遺産になるのです。
今回12の潜伏キリシタン遺産は、幕末や明治期以後に建てられた教会ではなく禁教期の信仰が文化遺産になるのです。
信仰は精神活動ですから目には見えません。
見えないものを世界文化遺産と指定しようとするのです。
分からい人がいて当然です。
しかし雑に言えば長崎県や熊本県に世界文化遺産が沢山あるのです。長崎や熊本への観光客が増えるでしょう。それも大変良いことです。目出度いことです。嬉しいです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)