後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本一の白樺群生地、八千穂高原と清泉寮の風景写真

2018年07月03日 | 写真
そこには50万本の白樺が群生しているのです。日本一と言われています。
場所は北八ヶ岳の東麓に広がる八千穂高原です。先週、軽井沢に泊まった次の日、八ヶ岳を抜けて韮崎市に出る長い高原道路のドライブを楽しみました。その途中にある八千穂高原の白樺の群生地を見るためにに北八ヶ岳の高原に登ったのです。
約200haの高原に50万本の白樺林が生えているのです。その風景に圧倒されました。白い幹が輝いている風景は優美なものです。
夏蝉が澄んだ声で鳴いています。涼しい風が高原を吹き抜けています。
白樺だけが生えている地域の外側には、ヤマツツジ、レンゲツツジ、の群生地もあります。注意いて見るとクリンソウなどの山野草が咲いています。ミズナラやカラマツなども美しい新緑を見せています。
八千穂高原の頂上には、白樺群生地に隣接して八千穂レイクが静かな湖面に樹々の緑を映しています。
八千穂高原。そこには、いつも白樺の白い森があるのです。
丁度、3年前の同じ時期にやはり軽井沢からの帰りにこの白樺林を見に来たことを思い出しました。
白樺林のたたずまいは3年前と同じです。人間はどんどん老いて行きますが、自然の風景は変わらないのです。
八千穂高原自然園は、長野県南佐久郡佐久穂町大字八郡2049-183にあります。

八千穂高原に寄った後は、再び国道141号線に戻り八ヶ岳高原を南下します。そして山梨県の清里で又141号線から分れ八ヶ岳の方向に登ると清泉寮があります。
清泉寮は清里開拓の歴史と共に歩んできたのです。
ここで、ちょっと清泉寮物語をご紹介しましょう。
清泉寮は1938年(昭和13年)、後にキープ協会を創設するポール・ラッシュ博士によって日本聖徒アンデレ同胞会の青少年指導訓練所として建設されました。
1955年(昭和30年)に火事で焼失しましたが、1957年(昭和32年)に再建します。以来、本館の赤い三角屋根は、清里の変わらぬ風景です。
本館玄関に掲げられているXマークは、聖アンデレというキリスト教の守護聖人にちなんだ十字架(聖アンデレクロス)で、赤い三角屋根とならんで清泉寮のシンボルです。
2009年(平成21年)には新館が完成し、今では誰でも利用できるホテルになっています。
3年前に軽井沢の帰りに私共も一泊したホテルです。

それはさておき、本館前には1980年(昭和55年)に建立されたポール・ラッシュ博士の銅像があります。
銅像は、ラッシュ博士大好きだった富士山の方向を向いて立っています。
清泉寮といえばジャージー種の牛乳を使ったソフトクリームが非常に有名です。赤い三角屋根の背後に聳える八ヶ岳の景観を楽しみながら、牧場のベンチに座ってソフトクリームを食べている人々の姿が絶えません。

戦前の昭和12年頃、ポール・ラッシュ博士は日本聖徒アンデレ同胞会の青少年指導訓練所を建設しようと、その候補地を探していました。
ラッシュ博士は、日本の象徴である富士山が見える場所でなければならないと考えました。。それにぴたりと合った理想の場所が清里だったのです。
その場所を紹介したのが、甲府の談露館の主人である中沢氏でした。
建設予定地は恩賜林と言って山梨県有地となっていましたが、当時の県知事は八ヶ岳山麓の開発に先鞭をつけてもらえると喜び、青少年指導訓練所建設のために県有地貸与の許可を出したのです。博士は、当時教鞭をとっていた立教大学を中心とした若い学生たちと道なき道を切り開き、材木を運び、念願の建物を完成させたのです。

1938年(昭和13年)に完成した青少年指導訓練所の名前は、いろいろな提案がありましたが、その命名は立教大学のチャペル付きだった高松司祭に依頼されました。 司祭はキャンプ場のある敷地が当時の清里村と大泉村にまたがっていることから、両方の地名から一文字ずつとって「清泉寮」としてはどうかと提案しました。ラッシュ博士は、両方の頭文字をとっただけの名前に当初は不満げだったそうですが、その英語訳が「ピュア=スプリング」(清らかな泉がわき出でる場所)であることを聞くと、大いに喜んでその命名に賛成したそうです。
以上の清泉寮物語の出典は、http://www.keep.or.jp/place_event/seisenryo/ です。
「清泉寮」は現在、ポール・ラッシュ記念会の公益財団法人キープ協会によって運営されています。

写真に八千穂高原の湖と白樺の群生林の風景と、清泉寮とその前の牧場の風景を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)