青森の「ねぶた」を10年以上前に初めて見た時の驚きと興奮は今でも強烈に覚えています。
青森地方に生き続けている縄文人の情念がほとばしるような武者絵です。
その武者絵や馬や鬼の張子の中に明るい電球が入っていて玄妙な動きをするのです。それが夏の夜空を舞うように見えるのです。
兎に角強烈な色彩と太い輪郭線の巨大な張り子が神秘的な動きをするのです。見ている人の魂を奪ってしまいます。
巨大な張り子の動き方が不思議なのです。この世の動きでないのです。
これぞ日本を代表する北国の素晴らしいローカル文化と断言できます
その青森の「ねぶた」の写真を3枚お送りします。特に3枚目の写真に写っている人間の大きさと「ねぶた」の大きさを比較して下さい。ねぶたの巨大さがお分かりになると存じます。
写真は「青森ねぶたの画像」をネット検索して見つけました。なお青森では「ねぶた」と言いますが、弘前では「ねぷた」と言い、形も少し小さめです。
青森ねぶたの不思議な魅力をご理解頂くためには次のURLにある青森ねぶたの動画を是非ご覧下さい。特にその後半まで根気よく見ると、ねぶたの動きの不思議さや玄妙さが分かるのです。あなたの魂が奪われると信じています。
「青森ねぶたライブ配信2017」、https://www.youtube.com/watch?v=dvKn-11zGQ0
この動画はねぶたがかもしだす不可思議な魅力を示しています。
さて青森に生まれ育った棟方 志功の作品がねぶたの影響を深く受けているのは自然なことです。
棟方 志功は1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉と さだの三男として生まれました。豪雪地帯出身のため、囲炉裏の煤で眼を病み、以来極度の近視となったと言われています。数々の芸術的な版画や絵画を残し1975年に没しました。
少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指したという話は有名です。少年のころから青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだという話も残っています。棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で版画と同様に評価を受けているそうです。
第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれ、『阿弥陀如来像』『蓮如上人の柵』『御二河白道之柵』『我建超世願』『必至無上道』など仏を題材にした作品が特に有名です。
青森のねぶたが大好きであり、作品の題材としても描いています。そして中には歓喜する自身の姿を描き込んだものもあるそうです。
棟方 志功の作品の多くは版画です。暗い北国の風景を表現した版画や天真爛漫とした明るい女性の版画が多数あります。そしてエネルギーのほとばしるような絵画もあります。
4番目の写真は棟方 志功の弘前のねぷたを描いた作品です。
出典は、http://blog.livedoor.jp/fushigi1/archives/1927886.html です。
5番目の写真も棟方 志功の作品です。出典は、http://noaidea.me/棟方志功-絵画.html です。
棟方 志功の全ての作品の低音基調は暗く寒い冬の北国に棲みついているような情念と思います。
その情念とは何だと問われても言葉では説明出来ないのです。東北地方に生まれ育った私には判るような気がします。それは都会にたいする反発心や洗練されたものに対する嫌悪感などいろいろな心理が混じり合ったものです。
6番目の写真は57歳の時の作品の『歓喜自板像の柵』です。
出典は、http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/munakata.html です。”歓喜自板像、第九としてもの柵”といいます。
大好きなゴッホの絵、ベートーベンの”ヨロコビノウタ”、茶碗、柳宗悦の象徴にかこまれて、酒を飲み浮かれる姿を描いています。
棟方 志功の作品の写真はネットの上で多数見ることができますので他の作品も是非ご覧下さい。
今日は非常に独創的な民間芸術である青森のねぶたをご紹介し、それに強い影響を受けた棟方 志功の作品をあわせてご紹介いたしました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==============
青森ねぶたの歴史:
C:\Users\Goto\Desktop\ねぶたの由来・変遷.htm
青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません。
奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられています。
初期のねぶたの形態は「七夕祭」であったのでしょう。そこに登場する練り物の中心が「ねぶた」と呼ばれる「灯籠」であり、七夕祭は7月7日の夜に穢れ(けがれ)を川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流して無病息災を祈りました。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れています。
「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民族語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられています。
以下省略。
青森地方に生き続けている縄文人の情念がほとばしるような武者絵です。
その武者絵や馬や鬼の張子の中に明るい電球が入っていて玄妙な動きをするのです。それが夏の夜空を舞うように見えるのです。
兎に角強烈な色彩と太い輪郭線の巨大な張り子が神秘的な動きをするのです。見ている人の魂を奪ってしまいます。
巨大な張り子の動き方が不思議なのです。この世の動きでないのです。
これぞ日本を代表する北国の素晴らしいローカル文化と断言できます
その青森の「ねぶた」の写真を3枚お送りします。特に3枚目の写真に写っている人間の大きさと「ねぶた」の大きさを比較して下さい。ねぶたの巨大さがお分かりになると存じます。
写真は「青森ねぶたの画像」をネット検索して見つけました。なお青森では「ねぶた」と言いますが、弘前では「ねぷた」と言い、形も少し小さめです。
青森ねぶたの不思議な魅力をご理解頂くためには次のURLにある青森ねぶたの動画を是非ご覧下さい。特にその後半まで根気よく見ると、ねぶたの動きの不思議さや玄妙さが分かるのです。あなたの魂が奪われると信じています。
「青森ねぶたライブ配信2017」、https://www.youtube.com/watch?v=dvKn-11zGQ0
この動画はねぶたがかもしだす不可思議な魅力を示しています。
さて青森に生まれ育った棟方 志功の作品がねぶたの影響を深く受けているのは自然なことです。
棟方 志功は1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉と さだの三男として生まれました。豪雪地帯出身のため、囲炉裏の煤で眼を病み、以来極度の近視となったと言われています。数々の芸術的な版画や絵画を残し1975年に没しました。
少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指したという話は有名です。少年のころから青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだという話も残っています。棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で版画と同様に評価を受けているそうです。
第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれ、『阿弥陀如来像』『蓮如上人の柵』『御二河白道之柵』『我建超世願』『必至無上道』など仏を題材にした作品が特に有名です。
青森のねぶたが大好きであり、作品の題材としても描いています。そして中には歓喜する自身の姿を描き込んだものもあるそうです。
棟方 志功の作品の多くは版画です。暗い北国の風景を表現した版画や天真爛漫とした明るい女性の版画が多数あります。そしてエネルギーのほとばしるような絵画もあります。
4番目の写真は棟方 志功の弘前のねぷたを描いた作品です。
出典は、http://blog.livedoor.jp/fushigi1/archives/1927886.html です。
5番目の写真も棟方 志功の作品です。出典は、http://noaidea.me/棟方志功-絵画.html です。
棟方 志功の全ての作品の低音基調は暗く寒い冬の北国に棲みついているような情念と思います。
その情念とは何だと問われても言葉では説明出来ないのです。東北地方に生まれ育った私には判るような気がします。それは都会にたいする反発心や洗練されたものに対する嫌悪感などいろいろな心理が混じり合ったものです。
6番目の写真は57歳の時の作品の『歓喜自板像の柵』です。
出典は、http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/munakata.html です。”歓喜自板像、第九としてもの柵”といいます。
大好きなゴッホの絵、ベートーベンの”ヨロコビノウタ”、茶碗、柳宗悦の象徴にかこまれて、酒を飲み浮かれる姿を描いています。
棟方 志功の作品の写真はネットの上で多数見ることができますので他の作品も是非ご覧下さい。
今日は非常に独創的な民間芸術である青森のねぶたをご紹介し、それに強い影響を受けた棟方 志功の作品をあわせてご紹介いたしました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==============
青森ねぶたの歴史:
C:\Users\Goto\Desktop\ねぶたの由来・変遷.htm
青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません。
奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられています。
初期のねぶたの形態は「七夕祭」であったのでしょう。そこに登場する練り物の中心が「ねぶた」と呼ばれる「灯籠」であり、七夕祭は7月7日の夜に穢れ(けがれ)を川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流して無病息災を祈りました。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れています。
「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民族語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられています。
以下省略。