後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

夏が来ると思い出す太平洋戦争(5)満州での日本人の大きな悲劇

2018年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦直前のソ連軍の満州占領で日本人は凄惨な悲劇に見まわれました。略奪、暴行、虐殺そして最後は55万人以上のシベリア抑留です。樺太でも同様でした。
もう忘れたい悲劇です。
しかし人間の本能は戦争が好きなのです。その本能を鎮め、平和を続けるためには戦争の悲惨さを繰り返し、繰り返し、書いて確認しなければなりません。
そこで今日は満州に住んでいた日本人の大きな悲劇のほんの少しの例を示します。

さて満州からの引き揚げ者の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人以上と言われています。
このうち8万人近くが満蒙開拓団員でした。当時、満州には155万人の日本人が住んでいました。
満州を占領したソ連軍は、55万人余の日本兵を捕虜にし、シベリア各地で強制労働をさせたのです。
これこそシベリヤ抑留です。同じことが樺太でも起きました。そこからの抑留者を含めると60万人以上の日本人がシベリア抑留されたのです。
あまりの寒さと飢えで6万人近くの日本兵がシベリアの土になり、二度と故国へ帰らなかったです。
さてソ連軍が攻撃を始め、満州に攻め込んだ時、日本軍の関東軍はどうしたでしょうか?
列車を仕立てて敗走したのです。取り残された民間人は武器も無く、ソ連兵の蹂躙に身をまかせる他は無かったのです。関東軍が本気でソ連軍と戦っていれば、民間人の婦女子が南に逃げる時間がかせげたのです。
この関東軍の卑怯な逃亡が民間人の悲劇を大きくしたのです。

しかし例外的に勇敢にもソ連軍と本気で戦った日本の軍人もいたのです。
ソ連軍戦車へ飛び込んだ藤田藤一少尉の物語です。
藤田藤一は元、ハイラルの参事官でした。召集され関東軍の少尉になっていたのです。
この話が公表されたのは藤田少尉の死後、25年が経過してからです。その公表は藤田の卒業した関西大学の昭和45年度の校友会誌だったのです。
藤田の家族は日本に帰国していて藤田の無事生還を信じつつ25年間待っていました。その校友会誌を手にした妻や娘の気持ちは想像にあまりあります。
この藤田少尉の話をもう少し詳しく書きます。
当時、ハイラルを取り囲んで5つの堅固な防衛陣地がありました。8月9日から119師団の主力が興安嶺に後退したあと、編成された独立混成第八十旅団ほか、国境守備隊などいくつかの部隊がソ連軍を迎え撃ちました。挺身隊(夜間切り込み隊)をつくって応戦しましたが、結局10日後の8月18日に主陣地であった河南台要塞が白旗を揚げたのです。
そんな状況で藤田藤一少尉の一隊はどうしていたでしょうか?
草原の中のアムグロンという町の役所の日本人職員が、数台のトラックに民間人を乗せ逃げる途中で、藤田少尉の一隊と会ったのです。以下は関西大学の同窓会誌の記事の抜粋です。
・・・突然に、草原の中でソ連の戦車隊と鉢合わせになりました。あわや一触即発。これでわれわれも全滅かと思ったとき、近くの塹壕から日本軍が数十人あらわれ、
「お前たちは、迂回して、ハイラルに行きなさい。戦車隊はわれわれが引き受けた」
と小隊長が大声で叫んだのです。その人が藤田少尉だったのです。
見渡すばかりの草原のなかで、トラックは急遽カーブを切り、大きく遠回りをしてハイラルに向って逃げ始めました。
そのとき最後尾にいた人々は、藤田小隊が、それぞれ爆弾を抱えて戦車隊に突撃するのをはっきり見たそうです。何台かの戦車が炎に包まれたのです。助かった人々は後に語っています。
「藤田少尉とその部下の方たちのおかげで、われわれは命拾いをしたのです。彼らは本当に私たちの命の恩人です。まさに捨て石となってわれわれを救ってくれた」 ・・・・
戦後25年たった昭和45年10月15日号の関西大学の校友会誌「関大」の中に、「藤田藤一君を思う――満ソ国境ハイラルの激戦に散る」という記事を崎谷さんが書いたのです。上はその記事の抜粋です。
(以上、http://blog.goo.ne.jp/…/e/285895cc09bfdc06d7d3a23e4039b9ae より)

日本の軍国主義は悪いと一言で切って捨てるのは易しいことです。しかし以上のような個人の献身と悲劇を具体的に知ることも非常に重要ではないかと信じています。
こういう個人の悲劇が我々の魂へ働きかけ平和の重要性を強く、強く教えてくれるのです。

今日の挿し絵代わりの写真はハイラルの風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。
                            後藤和弘(藤山杜人)