平日の奥多摩は人がいなくて森閑とした実に静かな場所です。
甲州街道を分岐した奥多摩街道で立川、昭島、牛浜、青梅とドライブして行きます。
青梅を過ぎると奥多摩の山並みが眼前にせまり、いよいよ奥多摩に入り込んだという気分になります。
沢井を過ぎてJRの御岳駅に近づくとぐっと山並みが迫って来ます。

1番目の写真は御岳駅近くの奥多摩街道の風景です。
御岳駅の前を過ぎて2Kmくらい上がると多摩川の川原に下りられる国際マス釣り場に着きます。

2番目の写真は誰もいない国際マス釣り場の風景です。

3番目の写真は多摩川の綺麗な水の流れの写真です。多摩川も御岳駅から上流になると清流になります。
国際マス釣り場を過ぎて古里を通り鳩ノ巣に行きます。鳩ノ巣では渓谷の巨岩を多摩川の急流が洗い、風光明媚な観光地になっています。
この鳩ノ巣とJRの終点の奥多摩駅の間の山間に花々を栽培している農園があります。

4番目の写真は花の農園のヤマユリです。

5番目の写真は同じ花の農園のヒマワリです。
JR奥多摩駅を過ぎて、ひたすら車を走らせると奥多摩湖に出ます。

6番目の写真は奥多摩湖です。
奥多摩湖へはJRで奥多摩駅下車、西東京バスでも行けます。JR奥多摩駅から西東京バスの留浦・丹波・小菅行きに乗り約20分です。バス停の奥多摩湖で下車します。
奥多摩湖の奥で道は山梨県の丹波村、塩山などへ抜ける道と、奥多摩周遊道路に分かれます。
奥多摩周遊道路を上ると古い歴史のある数馬の里にでます。
そして数馬の里から秋川渓谷をえんえんと下ると五日市に出ます。そこから奥多摩街道に戻って帰路につきます。
数馬の里は南朝時代の落人なのです。

7番目の写真は伝統的な兜造りの家ですが現在は「蛇の湯」という入浴施設の写真です。
「数馬の里」は東京都西多摩郡檜原村の山地の奥深くにあります。
屋根が異様に大きい兜造りの家々があり、いかにも古い歴史のある集落の雰囲気です。
南北朝時代の1336年ころ、南朝方の武士、中村数馬が落ちて土着したので「数馬の里」と言うそうです。
豊臣秀吉が天正18年(1590年)、小田原城を落とし、甲斐の武田一家も滅びました。その時も武田の落ち武者が「数馬の里」に住み着いたと伝えられています。
江戸時代になって甲斐から兜造りが入ってきました。
数馬の里は武蔵平野や甲斐盆地から隔絶された孤島のような山郷なので、独特な方言や地域文化を維持してきました。
現在も地名の読み方が不思議です。人里と書いて、へんぼり、と読み、笛吹は、うずひき、神戸は、かのと、事貫は、ことずら、日向平は、ひなたびら、などなど独特な読み方が現在でも使われています。
7番目の写真の「蛇の湯」は昔、傷ついた大蛇が傷をいやしたと言い伝えられているそうです。この事は江戸時代寛政年間の林述斎の「新編武蔵野風土記稿」に載っているそうです。
このように数馬の里は奥多摩地方に珍しく古い歴史のある集落なのです。
少々長くなりました奥多摩への小さな旅のご案内をいたしました。
甲州街道を分岐した奥多摩街道で立川、昭島、牛浜、青梅とドライブして行きます。
青梅を過ぎると奥多摩の山並みが眼前にせまり、いよいよ奥多摩に入り込んだという気分になります。
沢井を過ぎてJRの御岳駅に近づくとぐっと山並みが迫って来ます。

1番目の写真は御岳駅近くの奥多摩街道の風景です。
御岳駅の前を過ぎて2Kmくらい上がると多摩川の川原に下りられる国際マス釣り場に着きます。

2番目の写真は誰もいない国際マス釣り場の風景です。

3番目の写真は多摩川の綺麗な水の流れの写真です。多摩川も御岳駅から上流になると清流になります。
国際マス釣り場を過ぎて古里を通り鳩ノ巣に行きます。鳩ノ巣では渓谷の巨岩を多摩川の急流が洗い、風光明媚な観光地になっています。
この鳩ノ巣とJRの終点の奥多摩駅の間の山間に花々を栽培している農園があります。

4番目の写真は花の農園のヤマユリです。

5番目の写真は同じ花の農園のヒマワリです。
JR奥多摩駅を過ぎて、ひたすら車を走らせると奥多摩湖に出ます。

6番目の写真は奥多摩湖です。
奥多摩湖へはJRで奥多摩駅下車、西東京バスでも行けます。JR奥多摩駅から西東京バスの留浦・丹波・小菅行きに乗り約20分です。バス停の奥多摩湖で下車します。
奥多摩湖の奥で道は山梨県の丹波村、塩山などへ抜ける道と、奥多摩周遊道路に分かれます。
奥多摩周遊道路を上ると古い歴史のある数馬の里にでます。
そして数馬の里から秋川渓谷をえんえんと下ると五日市に出ます。そこから奥多摩街道に戻って帰路につきます。
数馬の里は南朝時代の落人なのです。

7番目の写真は伝統的な兜造りの家ですが現在は「蛇の湯」という入浴施設の写真です。
「数馬の里」は東京都西多摩郡檜原村の山地の奥深くにあります。
屋根が異様に大きい兜造りの家々があり、いかにも古い歴史のある集落の雰囲気です。
南北朝時代の1336年ころ、南朝方の武士、中村数馬が落ちて土着したので「数馬の里」と言うそうです。
豊臣秀吉が天正18年(1590年)、小田原城を落とし、甲斐の武田一家も滅びました。その時も武田の落ち武者が「数馬の里」に住み着いたと伝えられています。
江戸時代になって甲斐から兜造りが入ってきました。
数馬の里は武蔵平野や甲斐盆地から隔絶された孤島のような山郷なので、独特な方言や地域文化を維持してきました。
現在も地名の読み方が不思議です。人里と書いて、へんぼり、と読み、笛吹は、うずひき、神戸は、かのと、事貫は、ことずら、日向平は、ひなたびら、などなど独特な読み方が現在でも使われています。
7番目の写真の「蛇の湯」は昔、傷ついた大蛇が傷をいやしたと言い伝えられているそうです。この事は江戸時代寛政年間の林述斎の「新編武蔵野風土記稿」に載っているそうです。
このように数馬の里は奥多摩地方に珍しく古い歴史のある集落なのです。
少々長くなりました奥多摩への小さな旅のご案内をいたしました。