後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

真夏の奥多摩への小さな旅

2018年07月25日 | 旅行記
平日の奥多摩は人がいなくて森閑とした実に静かな場所です。
甲州街道を分岐した奥多摩街道で立川、昭島、牛浜、青梅とドライブして行きます。
青梅を過ぎると奥多摩の山並みが眼前にせまり、いよいよ奥多摩に入り込んだという気分になります。
沢井を過ぎてJRの御岳駅に近づくとぐっと山並みが迫って来ます。

1番目の写真は御岳駅近くの奥多摩街道の風景です。
御岳駅の前を過ぎて2Kmくらい上がると多摩川の川原に下りられる国際マス釣り場に着きます。

2番目の写真は誰もいない国際マス釣り場の風景です。

3番目の写真は多摩川の綺麗な水の流れの写真です。多摩川も御岳駅から上流になると清流になります。
国際マス釣り場を過ぎて古里を通り鳩ノ巣に行きます。鳩ノ巣では渓谷の巨岩を多摩川の急流が洗い、風光明媚な観光地になっています。
この鳩ノ巣とJRの終点の奥多摩駅の間の山間に花々を栽培している農園があります。

4番目の写真は花の農園のヤマユリです。

5番目の写真は同じ花の農園のヒマワリです。
JR奥多摩駅を過ぎて、ひたすら車を走らせると奥多摩湖に出ます。

6番目の写真は奥多摩湖です。
奥多摩湖へはJRで奥多摩駅下車、西東京バスでも行けます。JR奥多摩駅から西東京バスの留浦・丹波・小菅行きに乗り約20分です。バス停の奥多摩湖で下車します。
奥多摩湖の奥で道は山梨県の丹波村、塩山などへ抜ける道と、奥多摩周遊道路に分かれます。
奥多摩周遊道路を上ると古い歴史のある数馬の里にでます。
そして数馬の里から秋川渓谷をえんえんと下ると五日市に出ます。そこから奥多摩街道に戻って帰路につきます。
数馬の里は南朝時代の落人なのです。

7番目の写真は伝統的な兜造りの家ですが現在は「蛇の湯」という入浴施設の写真です。
「数馬の里」は東京都西多摩郡檜原村の山地の奥深くにあります。
屋根が異様に大きい兜造りの家々があり、いかにも古い歴史のある集落の雰囲気です。
南北朝時代の1336年ころ、南朝方の武士、中村数馬が落ちて土着したので「数馬の里」と言うそうです。
豊臣秀吉が天正18年(1590年)、小田原城を落とし、甲斐の武田一家も滅びました。その時も武田の落ち武者が「数馬の里」に住み着いたと伝えられています。
江戸時代になって甲斐から兜造りが入ってきました。
数馬の里は武蔵平野や甲斐盆地から隔絶された孤島のような山郷なので、独特な方言や地域文化を維持してきました。
現在も地名の読み方が不思議です。人里と書いて、へんぼり、と読み、笛吹は、うずひき、神戸は、かのと、事貫は、ことずら、日向平は、ひなたびら、などなど独特な読み方が現在でも使われています。
7番目の写真の「蛇の湯」は昔、傷ついた大蛇が傷をいやしたと言い伝えられているそうです。この事は江戸時代寛政年間の林述斎の「新編武蔵野風土記稿」に載っているそうです。
このように数馬の里は奥多摩地方に珍しく古い歴史のある集落なのです。

少々長くなりました奥多摩への小さな旅のご案内をいたしました。

猛暑をしのぐ方法(1)南極に行った小さなヨットの写真を見る

2018年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、毎日、猛暑ですね。
現役のあいだは仕事に熱中していて暑さを忘れることが出来ました。
しかし引退後は毎日暇で猛暑が一層骨身にこたえます。そんな引退後の方々は家のクーラーを付けっ放しでこの暑さをしのいでいると思います。
そこで今日からさらに涼しい思いをするような写真や文章を連載でお送りいたします。
連載の第一回は南極に行った小さなヨットの写真と話です。
見て涼しくなるような南極の写真をお送りいたします。そして危険がいっぱいの小さなヨットの姿もあります。よくぞこんな小さなヨットで、独りで荒れる海を横切って南極まで行ったものです。
今日、ご紹介します写真は片岡佳哉さんが撮影したものです。彼は岩手県盛岡市で1953年に生まれ、東北大学理学部在籍中にヨットに出合います。
ソフトウェア技術者として一度は就職するも、世界一周の夢をあきらめきれず、全長7.5mという小さな中古ヨットで宮城県浜田港を出発しました。それは1981年のことでした。
太平洋を横断、マゼラン海峡を含むパタゴニアの海を航海しました。そして日本人初の南極単独航海の後、8年がかりで世界一周を遂げたのです。
スポンサーもまったくいないまま日本を飛び出して、世界のあちこちでアルバイトで資金を稼ぎながら航海を続けたのです。
そして、「ブルーウォーター・ストーリー・たった一人、ヨットで南極に挑んだ日本人」という 単行本 を2015年6月に出版しました。その時、彼は62歳でした。
それでは早速、南極の写真をご紹介いたします。
写真の出典は全て、 [ヨット青海]http://aomi-sailing.com/  です。

1番目の写真は南極の火山島、デセプション島の内部の風景です。
とても珍しい風景です。外洋のうねりから完全に守られ、湖のように静かな水面が続いています。陸地は火山弾、火山礫、万年雪に覆われていたそうです。降水日数は一年の8割ほどもあり、晴天はまれというので、この晴天の写真は奇跡のようなものです。

2番目の写真は南極の陸からの長い舫ロープで係留し夜の眠りの準備が終わったヨットの姿です。

3番目の写真は単独帆走中の写真です。荒れる南極海の大波が次から次へとヨットに襲いかかります。
氷山の流れる南極の海は低気圧が続々とやって来て海は大荒れの毎日です。世界のどの海域にも見られない強風が吹き氷山を押し流します。

4番目の写真は南極の山を背景にしてアンカーで海底に固定して停泊しているヨットの姿です。

5番目の写真は2本の舫ロープを岸から張り、さらにアンカーを降ろして停泊しているヨットの姿です。

わずかに風のおさまった沖に出て氷山を縫うようにして進んで行きます。青く光る南極の島々はこの世のものと思えない絶景を見せています。しかしまた嵐が襲って来ます。
何度も逃げ帰りたいと思います。気持ちが折れ、荒れた海の恐怖が勇気を砕きます。
南米の南端から危険な海として有名なドレーク海峡を1ケ月もかけてやっと遥々南極大陸に辿り着いたのです。しかし南極は秋も終わり海は氷り始めています。無事生還は無理と思い南極観測のイギリス基地へ冬の間だけ働くことをお願いします。鄭重に断られます。もう一度勇気を奮い起して帰路につき、命からがらアメリカ基地まで戻ります。イギリス基地から連絡のあったアメリカ基地の人々が大歓迎してくれます。そこで勇気づけられ南米まで帰ります。そこからは喜望峰を回りインド洋を横断しオーストラリアまで行きます。地球を一周して日本に帰って来たのです。

いかがでしょうか?少しは涼しい気分になられたでしょうか?
早く立秋も過ぎ、暑さが少しでもやわらぐようになることを祈っています。
下記の「8年間の南極、地球一周の後の片岡佳哉さんの想い」も是非ご覧になって下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。
                            後藤和弘(藤山杜人)

===8年間の南極、地球一周の後の片岡佳哉さんの想い===========
南極を離れた[青海]とぼくが、ツメに段がつくほど体力を消耗した航海の末、三千キロ北のブエノスアイレスに戻り着き、アフリカやオーストラリアを経て日本に帰ったのは、さらに四年が過ぎた北半球の夏でした。
ヨットから陸に上がり、町に住み始めると、海とは随分違うことに気づきます。数メートルも上下する船室で転んで怪我することも、頭上から波が襲って海に落ちそうになることも、嵐を心配して人の顔色をうかがうように空を見上げることも、座礁の恐怖に震えて過ごす闇の夜も、もうありません。航海中のぼくは、海という広大な原野の中、天敵に脅えて暮らす小動物のようでした。

人という生き物は、いつのころから、他の動物に捕食される不安もなく、自然の力に脅えることもなく、日々を送っているのでしょう。天敵も自然の力も恐れず、むしろ忘れ、町という群れの中で安全に暮らすのは、幸せなことかもしれません。でも、そういう生活が続く間に、遠い昔の記憶、もしかすると恐竜か何かに追われていた祖先の時代のこと、自然界で存続するために不可欠な掟や、勇気や、態度や、感性のようなもの、今後の人類にも同様に大切なことを、忘れかけた気がするのです。
そういう思いを抱くのは、町という住み慣れた世界を、ヨットで飛び出したからかもしれません。ひとりきりで自然の美しさと厳しさの中に生きるうち、感覚がしだいに研ぎ澄まされ、狭い町の常識が地球の常識ではないことを、体のすべての部分で直感したのかもしれません。人工物のない大洋の真ん中を走りながら、強烈なオレンジに燃える太陽や、海面を銀色に光って吹く風が、はるかな太古からあると想うとき、我々の住む現代社会の常識が、四十数億年も続く地球の常識ではないことを、心で直接理解したのかもしれません。
これらの詳細を語る力は、ぼくにはもちろんありません。おそらく言葉になり得ないもの。肌や筋肉や、もしかすると内臓の一部で感じとる、あるかないかさえ不確かな、言語や記号に変換できない種類のものでしょう。
とはいえ、長い視点で考えれば、地球に住む人々の運命をも決めることだから、たとえ言葉で表現できなくても、どんなに困難でも、なんとかしてあなたに伝えたい、この実際の物語で少しでも分かってもらいたいのです。

地球を一周する八年間の単独航海を終え、外敵から守られた安全な町で暮らす今、そんな思いが日増しにつのる一方で、もう一つの思いも、おさえきれないほど心の真ん中に湧くのです。命の保証がなかった航海の日々、冬山のように白く泡立つ嵐の海、南極で衝突した青い氷の恐ろしさ、マストを折って漂流した漆黒の夜、それらは本当に現実だったのかと。――長い長い夢を見ていたようにも思うのです。
でも、よく考えてみると、ぼくはあのとき、地球という美しい水の星に、自分が本当に生きて存在する現実を、自分自身の両眼と肌、間違いなく全身で鮮烈に感じていた。これだけは疑いようもない気がするのです。

 ならば、あれが現実なら、あの命がけの航海が夢でないなら、平和な町で暮らす今こそ夢に違いない。ぼくはやはり、陸に戻り着けずに別の世界に入ったのかと、不思議な気持ちになるのです。そして、ひょっとすると現実も夢も、生きていることもそうでないことも、結局は区別がないのだと、半ば本気で思いもしたのです。