後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

夏が来ると思い出す太平洋戦争(2)焦土となった日本の都市

2018年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム
太平洋戦争は日本民族の歴史において空前絶後の大事件でした。日本人が310万人も死に、中国人は1000万人、アメリカ人も40万人も死んだのです。
朝鮮の人は軍人が22万人、一般人が2万人死亡しました。台湾人は軍人が18万人、一般人が3万人死亡しました。

今日は日本の200の都市が焦土になった写真を示します。そしてB29で何度も空襲に来たアメリカ空軍の大佐と戦後に親友になった話を書きます。
戦争の虚しさと不条理を考えさせます。あれから73年経過しましたが戦争の悲劇の大きさにますます心が痛みます。
米国空軍のB29爆撃機による無差別絨毯爆撃はすさまじいものでした。
1945年7月10日の仙台市の29による焼夷弾攻撃で市街地は一夜にして焼野原になってしまったのです。
当時はまだ少年だった私は家のあった向山の高台から一面の紅蓮の炎を見下ろしていました。
空には銀色の機体のB29が編隊を組んで縦横無尽に飛びながら束になった焼夷弾をばらまいていました。100機ほどのB29が来襲したそうです。
夜が明けてから市街地の焼け跡を見におりて行きました。まだ煙が立っていて異臭が鼻を突きます。見回すとあちこちに焼けた死体がころがっています。
その日は一日中、崖下の広瀬川の川原で死体を焼く焚火が絶えませんでした。
幸い私の家の周囲の野山には焼夷弾が数本落ちましたが家を直撃しなかったので焼け残りました。

1番目の写真は焼野原になった仙台市の街の様子です。1945年7月10日の仙台大空襲の後、仙台駅から南町通りの向こうの西公園方面の光景です。
このように焼き尽くされたのは仙台市だけでなく全国の都市が徹底的にやられたのです。
空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災し、死者は33万人、負傷者は43万人、被災人口は970万人に及んだのです。
東京の空襲後の光景は石川光陽氏によって克明に撮影されています。
その一部は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 と http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E9%99%BD に掲載されています。

2番目の写真は空襲の直後の街の風景です。まだあちこちから煙が立っています。生き残った人々が歩いている様子が痛々しいです。

3番目の写真は空襲後、何日かたってからの街の様子です。自分の家が焼け落ちているのを見た人が落胆して座り込んでいるのでしょうか?そんなことを想像させる写真です。

4番目の写真は空襲後、しばらくしての写真でしょうか。焼け残った電車が駅に停まっています。気持ちを取り戻した人々が駅に出入りしています。

5番目の写真は一面に焼け野原になった下町の風景です。右手に隅田川が写っています。

6番目の写真は焼けた乗用車です。トランクに一酸化炭素を発生させる木炭釜が積んであります。この釜で木炭を燃やして一酸化炭素ガスを作り、エンジンへ送り走っていたのです。私も戦争中にバスの後ろに大きな木炭釜を積んだバスに何度も乗りました。
登り坂に来ると乗客が下りて、バスの後ろを押すのです。

さて空襲で焦土と化した都市は200におよびました。
昭和21年10月9日に内閣総理大臣の吉田茂は次のような都市が焼け野原になったと発表します。
根室市、釧路市、函館市、本別町、青森市、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、東京都の区の存ずる区域,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。
名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、高松市 、
徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町,枕崎町,山川町,垂水町,東市来町,西ノ表町 (沖縄は当時、アメリカ領)

この徹底的な空襲と2度の原爆投下の後やっと日本は降伏しました。沖縄戦の終わった6月に日本が降伏していたら原爆投下も無かったのです。全国の数多くの都市が焦土に化すことも無かったのです。徹底抗戦を主張した陸軍幹部の大きな過ちでした。

終戦後15年経過してから私はアメリカのオハイオ州立大学へ留学します。
その時、クラスメイトに14歳年上のオートンさんという空軍大佐が居ました。
オートンさんはB29爆撃機を操縦して日本へ何度も飛んできて焼夷弾を落とした男です。
どういう訳かオートンさんとは親友になり彼が死ぬまで交友が続きました。
大きな体、坊主頭、赤ら顔のカウボーイのような男でした。面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せてくれ、何度も家に招待してくれました。当時、彼は空軍大佐でしたが、引退後は大学の先生になろうと博士課程に進んでいました。
なぜ日本人の私の面倒をそんなに本気でみるのか、かなり親しくなってから聞いたことがあります。「俺は東京へB29で何十回も空襲に行ったよ。それでなんとなく日本人に親近感ができてしまったのかも…」と言葉を濁します。そしてその後、彼はその話を二度としませんでした。
1988年、私はオランダの出版社から初めて英語で専門書を出版することになりました。その時、原稿を逐一訂正してくれたのがオートンさんです。
オートン氏のことを思い出すと、1945年7月、少年であった私の目の前で一面火の海になった仙台の町々と、空襲の大火に映しだされるB29の白い機体のゆっくりした動きを思い出します。憎しみも悲しみもない走馬灯のように。
オートン氏は2006年の末に亡くなりました。花束をを贈り、遠くから冥福を祈るだけです。オートンさんの終生変わらなかった友情を思い出すたびに戦争の不条理が身に沁みます。戦争は人間を悪魔にするのです。アメリカ人も日本人も同じく悪魔にするのです。
それをオートンさんは知っていたのでしょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

夏が来ると思い出す太平洋戦争(1)戦没画学生の無言館

2018年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前の昭和11年に生まれた私は毎年、夏が来ると太平洋戦争のことをいろいろと思い出します。8月15日の昭和天皇の終戦の言葉を疎開先の農村の国民学校の校庭に聞きました。暑い夏の陽が射していました。
太平洋戦争は日本民族の歴史において空前絶後の大事件でした。日本人が310万人も死に、中国人は1000万人、アメリカ人が以下のように40万人も死んだのです。
朝鮮人は軍人が22万人、一般人が2万人死亡しました。
台湾人は軍人が18万人、一般人が3万人死亡しました。
中国1000万人
インド350万人
ベトナム200万人
インドネシア400万人
フィリピン111万1938人
ビルマ5万人
シンガポール5千人
モルジブ3千人
ニュージーランド1万人
アメリカ人40万5399人
オーストラリア2万3365人
この膨大な死者の一人一人には家族の悲しみがあったのです。
そしていろいろ悲劇が無数におきました。

今日は戦没画学生の遺作を展示してある無言観と4枚の絵画をご紹介致します。
東京駅の丸の内中央改札口を出て右手にステーション・ギャラャリーが出来ました。時々、絵画の企画展をするようになりました。あれは20世紀が終わり、21世紀が始まった頃だったような気がします。
「戦没画学生の遺作展」があったのです。ポスターには母のような女性が描いてあります。出征する前に精魂込めて描いた絵です。企画展では数十枚の油絵が展示してありました。戦争で死んだ画学生の作品です。
征く前に寸暇を惜しんで描いています。時間が無くなり、未完成のものもあります。
パンフレットに遺作画を常時展示している、「無言舘」のことが紹介してありました。すぐに泊りがけで訪ねました。
無言舘は、長野県上田市、別所温泉近くの山中にあります。車で、山の中を探しあぐねた末にやっと辿り着ました。
鎮魂という言葉を連想させる、修道院のようなコンクリート製の建物でした。
戦没画学生の作品を常設展示しています。館長が遺族を訪問し、一枚一枚集めた絵画です。

1番目の写真は無言館です。
戦没画学生の多数の遺作絵画は、NHKきんきメディアプラン発行、「無言館 遺された絵画」2005年版、に掲載されています。
その中から4枚の油彩画をご紹介します。

2番目の写真は神戸のトーア・ロードの風景を描いた杉原基司さんの作品です。
杉原基司さんは神戸生まれ、東京美術学校を卒業し、戦闘機に乗りました。昭和20年2月16日、厚木飛行場の上空で来襲して来た米軍機と空中戦をし、激墜され戦死しました。享年23歳でした。
・・・・・・戦死した後で妹が書いています。・・・・・・
水泳部で派手に水しぶきをあげていた兄。
ガラスの窓にドクロの絵を描いて妹の私を泣かせた兄。
クラシックと讃美歌しかなかったわが家でジャズやクンパルシータを初めて聞かせてくれた兄。
そんな兄が、美校を卒業して海軍予備学生となり、沢山の兵隊さんが死ぬゼロ戦を志願したのは、やっぱり持ち前の好奇心”飛行機に乗りたい”と思ったからでしょうか?
昭和20年2月16日、、、、厚木上空に初めて米軍戦闘機が来襲したとき兄は23歳の生命をちらしました。・・・・・・・・・・・

3番目の写真は興梠 武さんの「編物をする婦人」です。
興梠 武さんは東京美術学校卒。昭和20年8月8日ルソン島、ルソド山にて戦死。享年28歳。
この絵は一番下の妹の絵。絵を描いて出征し、妹は間もなく病気で死にます。その報告を戦場で受け取った興梠 武さんは半狂乱になったそうです。
間もなく天国で二人は会って、静かに見つめあって暮らしていると信じています。ご冥福をお祈りいたします。

4番目の写真は戦没画学生、金子孝信さんの「子供たち」です。
金子孝信さんは大正4年、新潟県生まれ。昭和15年、東京美術学校卒業。同じ年に入隊し、仙台の予備士官学校を出て、昭和17年5月27日に中国の華中の宣昌にて戦死。享年26歳。出征の朝までアトリエで天の岩戸を題材にした大作を描きつづけていました。見送りに来た友人に「これは自分の最後の作品。天地発祥のもとである天の岩戸に自分は帰っていくんだよ」と言って出征していきました。そしてそのとうりになったのです。姉を描いた美しい日本画もありますが、ここでは「子供たち」という題の日本画を掲載します。彼の家は代々、由緒正しい神社の宮司だったのです。

5番目の写真は戦没画学生の片桐 彰さんの「街」です。
片桐 彰さんは大正11年、長野県生まれ、昭和17年に京都高等工芸学校卒業後すぐに入隊。昭和19年7月28日、マリアナ諸島にて戦死。享年21歳。
残された妹の思い出です。「私をよく映画に連れていってくれました。戦地へゆく直前、{オーケストラの少女}という映画を見に行ったことがありました。映画の筋書きはとうに忘れてしまったけれど、戦争のことを考えながら二人で歩いた夜のまっすぐな兄さんの背中が忘れられません。」
戦没画学生の絵画はもっと多数ありますが、悲しくなるので4枚だけで止めます。

しかし最後に声を大にして言いたいことがあります。
戦没画学生は戦死した40万人のアメリカ兵の中にもいた筈です。戦死した1000万人の中国人の中にもいた筈です。
戦死した350万人のインド人の中にもいた筈です。戦死した400万人のインドネシア人の中にもいた筈です。
そして戦死した111万人のフィリピン人の中にもいた筈です。戦没画学生は日本だけではないのです。
全ての戦没画学生の無念さを想うと粛然とせざるを得ません。
そして志なかばで戦死したのは戦没画学生だけではなかったのです。あらゆる分野で若い人々が戦死したのです。
戦争の悲劇は筆舌には尽くせないのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)