後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

国宝の五つの城は日本が世界に誇れる独特な建築遺産

2018年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の城は世界に例が無い優美な姿をしています。幾重にも堀に囲まれ、高い石垣の上に美しい天守閣が聳えているのです。
皆様、ご存知のように現在日本には数多くの天守閣を持ったお城があります。その多くは近年再建されたお城で、江戸時代以前のものは数が少ないのです。
従って国宝に指定されているお城はたった5つしかありません。
その5城とは、現存する松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城です。
それでは早速写真を示します。

1番目の写真は国宝、姫路城(兵庫県姫路市)です。
日本一の名城とも言われる姫路城です。その美しさと偉大さを今に伝えることができたのは、400年の歴史の中で一度も戦にあうことも、戦災に脅かされることもなかったからです。建築当初の状態で残された部分も多く、貴重な文化遺産となっています。
(国宝5城の説明文は、https://allabout.co.jp/matome/cl000000016988/ から抜粋しました)
建造年、1346年で築城者:赤松貞範 別名:白鷺城
主な城主:池田輝政、小寺氏、黒田氏、本多氏、酒井忠邦
日本国内最大の現存天守、ユネスコの世界遺産

2番目の写真は、国宝、松本城(長野県松本市)です。
大きなお濠に囲まれた美しい天守閣は、日本国内では数少なくなった江戸時代以前のものです。松本藩の城として江戸時代には城下町が形成され、多くの人が行き来することで町は賑わいました。広い堀も魅力です。屋根瓦以外の部分が白く見えるのですが、松本城は全体に黒っぽく見えるため、他の城とは異なる印象を受けます。その外観から「烏城(からすじょう)」という別名も持ちます。
建造年、1504年、築城者:石川数正、石川康長  
主な城主:木曾義昌、上杉景勝、石川数正、小笠原秀政、松平康長

3番目の写真は、国宝、犬山城(愛知県犬山市)です。
現存する日本最古の様式の天守閣です。建造当時の姿を残しており、戦火や自然災害などいくつもの困難を乗り越えてきた風格が感じられます。小さな四階建ての山城には室町時代望楼型様式の特徴が随所に見られます。以前は個人が所有していました。
建造年、1537年、築城者:織田広近 別名:白帝城
主な城主:織田信康、池田恒興、織田勝長、三好吉房

4番目の写真は、国宝、彦根城(滋賀県彦根市綱)です。
天守をはじめ、重要文化財の各櫓、下屋敷の庭園である玄宮園、内堀・中堀などが当時の姿を留めています。全国的に見てもきわめて保存状態のよい城跡です。様々な破風があり細部まで美しく味わいあるお城です。
建造年、1622年、築城者:井伊直継 別名:金亀城、主な城主:井伊氏

5番目の写真は、国宝、松江城(島根県松江市)です。
島根県の県庁がある松江は、宍道湖と中海にはさまれ、川が縦横に走る水の都です。水の都を見守るように立つ松江城は400年の歴史をくぐり抜けてきた天守閣がある美しい城です。五層の天守閣の高さは30メートル。最上階の6階は望楼となっていて、松江市内を360度見渡すことができます。
建造年、1611年、築城者:堀尾忠氏 別名:千鳥城
主な城主:堀尾氏、京極氏、松平氏

さて国宝に指定されているこれら5つのお城は江戸時代以前の室町時代に建造されたものです。
しかし国宝ではないが重要文化財に指定されているものに次の7つの城があります。
重要文化財7城
・弘前城/青森県弘前市   築城者:津軽為信、津軽信枚
・丸岡城/福井県坂井市   築城者:柴田勝豊
・備中松山城/岡山県高梁市 築城者:秋葉重信
・丸亀城/香川県丸亀市   築城者:(奈良元安)生駒親正
・松山城/愛媛県松山市   築城者:秋葉重信
・宇和島城/愛媛県宇和島市 築城者:橘遠保(藤堂高虎が改修)
・高知城/高知県高知市   築城者:山内一豊
国宝と重要文化財の違いは、重要文化財のうち「世界的に見ても価値の高いもので、国民の宝である」と国(文部科学大臣)が認定したものを【国宝】としています。

ここでいきなり私的な話になります。私共は国宝の5つの城は皆行きました。重要文化財7城のうち、弘前城、備中松山城、宇和島城にも行きました。
しかし何度も行った会津の若松城(鶴ヶ城)も諏訪湖の畔の高島城も行田の忍城も小田原城も国宝でも重要文化財でもないのです。
何故か不満です。釈然としません。
そこで若松城(鶴ヶ城)の写真を追加させて下さい。

6番目の写真は、若松城(鶴ヶ城)です。
築城年、1384年、主な改修者は、蒲生氏郷、加藤明成
主な城主は黒川城、蘆名氏、伊達政宗
黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備しました。
蒲生氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行ったのです。
蒲生氏郷は茶人だったので本丸に茶室を作ったのです。何年か前にその茶室で家内と一緒に抹茶を喫したことが良い思い出になりました。
さて次の写真は行ったことは無いが城の写真集を見て憧れていた丸亀城の写真です。

7番目の写真は四国の丸亀城です。
香川県中西部に位置し、讃岐うどんで有名な丸亀市にある「丸亀城」も立派な現存12天守のうちの一つです。
「石の城」とも称される風格たっぷりのその姿は全国の城めぐりでも人気のスポットです。
“日本一高い石垣”の上にそびえる、“日本一小さな天守”としても有名ですが、約60mもの高さを誇る石垣の上に立つ天守は、小さいながら凛とした風格に満ちています。
また、江戸時代には天守以外に数多くの櫓や門などがあり、亀山下の北西部には藩主が住んだ御殿があったと言われているので、大きなお城であったことがわかります。
築城年は室町時代初期(14世紀頃)
主な改修者、生駒親正、山崎家治
主な城主、生駒氏、山崎氏、京極氏
尚、天守・大手一の門・大手二の門は国の重要文化財です。

それにしても日本の城は世界に例が無い優美な姿をしています。私は国宝の5城もその他の数多くの城も誇りに思っています。
以前にご紹介した国宝の仏像や五重塔も含めて日本には世界に誇れる文化遺産が沢山あるのです。
何とも心豊かになり、幸せな気分になります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

山梨県、上野原市までドライブして夏の花の写真を撮って来ました

2018年07月13日 | 写真
今日も朝からギラギラと太陽が照り付けています。暑さに負けてなるものかと長躯、山梨県の上野原市にある相模湖の上流の端までドライブして来ました。山里には夏の花々が咲いていました。遠方の山でカッコーが鳴いていました。昔は東京の郊外にある私の家の近所でも鳴いていたものです。
カッコーの声は懐かしいものです。幼少の頃を思い出します。
夏の花々の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









まぼろしのように忽然と消えてしまった2つの町

2018年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム
夏の夜には怪談がつきものです。そこで今日は怪談のような話をご紹介します。
しかし怪談のような嘘ではなく、本当に存在していた2つの町の話です。まぼろしのように忽然と消えてしまった2つの町の話です。
なにやら薄気味悪い雰囲気がまつわる2つの町です。

さて一つは北海道の東部の野付半島の突端に存在していた「キラク」と言う町のことです。
北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。標津町の南に別海町があります。
その別海町に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び、野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。

1番目の写真は野付半島の航空写真です。キラクという町はこの写真の左端に写っている野付半島の突端にありました。
当時は陸路ではなく船で出入りしていたので突端の方が便利だったのです。しかし現在は陸路を車で行けます。

2番目の写真は陸路の途中にあるナラワラの風景写真です。潮のために立ち枯れしたナラの木が並んでいます。写真は2012年に私が撮りました。

3番目の写真は野付半島の中間点付近にある立ち枯れたトド松は立っているトドワラの風景です。2012年に家内が撮りました。
一般の観光客は行けるのは此処まです。キラクはこの先のはるか半島の突端にあったのです。
この町は長い間、伝説としか記憶されていなかったので、「幻の街キララ」と呼ばれていました。
「歓楽街があった」「夜じゅう、灯りが消えることがなかった」「遊女がいた」などと謎に包まれた、ロマンある話として伝わっていたのです。
それが最近の発掘調査で江戸時代に厳然と存在していたことが証明されたのです。
江戸時代の古文書には「キラク」という記述はありませんが、寛政11年(1799年)に江戸幕府が国後島への交通の要所として野付通行屋を設置したという史実が明らかになっています。
対岸にはニシン漁のための番屋が60軒ほど立ち並んでおり、通行屋では、畑を作り、様々な野菜を育てようとした記録も残っていたのです。
野付通行屋跡遺跡は発掘調査が行われ、沢山の江戸時代の生活用具が出土したのです。また墓石も出て来ました。
それらの江戸時代の生活用具は別海町郷土資料館で展示公開されています。
そして毎年4月中旬に、別海町郷土資料館と野付半島ネイチャークラブの共催で、この通行屋遺跡を訪ねる観察会が開催されているのです。
潮が引いているときは、砂の上に当時使われていた陶器の破片が無数に散らばっているそうです。
キララについて、詳しい情報は別海町郷土資料館(TEL 0153- 75-0802)へ問い合せると教えてくれるそうです。

まぼろしの町、キララは人々の想像をかきたてるのでしょう。「まぼろしのキラク」という歌のCDが新沼謙治さんが発売しています。
この歌は「第48回日本作詩大賞」(2015年11月)にノミネートされ、有名になりました。お聞きになりたい方は次のYouTubeをどうぞお聞き下さい。
◆まぼろしのキラク、https://www.youtube.com/watch?v=tyb0yZI6tD8
作詞 幸斉たけし/作曲 新沼謙治
歌唱 新沼謙治/レコード会社 日本コロムビア(株)(2015年2月発売)
以上のキララに関する説明はの出典は、http://betsukai-kanko.jp/taikenkanko/bunka/kiraku-2/ です。

さて話は変わって、広島県の福山に江戸時代初期まであった草戸千軒町の話にうつります。この町も完全に消えてしまったのですが、最近の発掘調査で存在が証明されたのです。
草戸千軒町は、山陽新幹線の広島県、福山駅の近辺にあったのです。鎌倉時代から室町時代にかけておよそ300年間存在した町でした。
瀬戸内海の芦田川河口の港町として栄えていました。それが消えてしまっていたのです。
しかし最近の遺跡の発掘調査から、時期によって町の規模は変遷しているが草戸千軒町は物流の交流拠点として繁栄しており、数多くの商工業者がいたと証明されたのです。そうして遠くは朝鮮半島や中国大陸とも交易していたとみられています。
近くには現在も存在する草戸稲荷神社と明王院があり、その門前町としても繁栄していたものとも考えられます。

ところが江戸時代初期の備後福山藩 水野家による芦田川の流路改修がキッカケになり、洪水で草戸千軒町が消え去ったと考えられているのです。
昭和時代後期(20世紀末)まで草戸千軒町の遺跡は芦田川と旧鷹取川が分かれる中州付近に存在していました。
遺跡からの出土遺物は広島県立歴史博物館で保存・展示されていて国の重要文化財に指定されています。
この博物館には往時の草戸千軒町の町並が実物大のジオラマで一部再現されている。

4番目の写真は草戸千軒町の再現された展示です。

5番目の写真も草戸千軒町の再現された展示です。当時、草戸千軒町は直接に瀬戸内海に面した港町だったのです。
また、遺跡からは多くの栽培植物も出土している他、4千点にものぼる大量の「中世木簡」(室町期)が出土しており、1982年には正式報告書『草戸千軒 木簡一』として紹介されているそうです。
「草戸千軒」の名は、江戸時代の中頃(元文から安永年間)に備後福山藩士・宮原直倁によって書かれた地誌『備陽六郡志』の中に、「草戸千軒という町があったが、寛文13年(1673年)の洪水で滅びた」という伝承が記載されていたことから付けられたもので、町についての様子は書かれていなかったため、想像上の幻の町といわれていたのです。
昭和時代に入った1930年前後の河川工事によって遺物が出土しようやく存在が確認され、戦後になって1961年から約30年間にわたり断続的に行われた大規模な発掘調査で全容が判明し、草戸千軒町の存在が証明されたのです。。
以上の草戸千軒町に関する説明の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/草戸千軒町、です。

以上、今日は、まぼろしのように忽然と消えてしまった2つの町をご紹介しました。北海道のキラクと広島県の草戸千軒町です。
考えてみると、このように消えてしまった村や町は全国に沢山あるに違いありません。
人の世の儚さ虚しさがしみじみと感じます。
皆様のお住まいの近辺にもこのように消えてしまった村や町がありますでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)