後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

何故、この猛暑の中、毎週、教会に行くのでしょうか?

2018年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。少しだけ宗教に関することを書きます。
日本人の多くはキリスト教のことを知っています。そしてその考え方に何となく影響を受けています。例えば、「人はパンのみで生きてはいけない」という言葉を知っています。
美味しいものを食べることばかり考えないで、もっと精神的なものを求めなさいという意味に解釈しているようです。解釈は自由で良いのです。
しかし教会でこの言葉の説明を聞くと、「人はパンのみで生きてはいけない。神の言葉で生きよ」という教えだと言います。
このように教会に行くといろいろと面白いことが聞けるのです。
そして私は次のような理由で教会に行きます。
(1)教会に行かないと本当のイエスの教えが理解できない。
(2)教会に行くと神やイエスさまが私を愛して下さっていることが確信出来る。
(3)神の存在を信じたり、信じなかったりする私の心が少しだけ「信じる」方向に傾く。
(4)いろいろな結果として教会に行くことが楽しくなる。日曜日はドライブして遊ぶより楽しくなるのです。

さて宗教は、どんな宗教でも本で読んだだけで理解は深まりません。本で勉強したのものは「教養としてのキリスト教」というもので、かなり皮相的な理解なのです。
どんな宗教でも宗教的訓練(Religious Training)や修行が絶対に必要だと、私個人は考えています。
佛教には不立文字という言葉があります。お釈迦様の悟りの境地は文字では説明出来ないという意味です。
修行や座禅をして始めてその境地が理解できるのです。私はこのことを信じています。
キリスト教での修行は毎週ミサに出ることです。ミサの中で座禅のように静かに祈ることです。
これを毎週実行するとイエスの教えが体験的に理解できるのです。
私は1969年にドイツのローテンブルグに3ケ月滞在している間に、若いインド人のフェルナンデス君と毎週カトリックの教会に行きました。まだ洗礼前でしたが、知らずに、イエスの体のパンを神父さんから貰って食べていました。その時、私の「教養としてのキリスト教」はいかに皮相的な理解だったかを思い知ったのです。そこでいずれ帰国したらカトリックの洗礼を受ける決心をしたのです。
ですから現在でも教会に行くことは宗教的訓練だと思っています。それは楽しい訓練なのです。
楽しい修行なのです。何故楽しいのでしょうか?その訓練をしているとイエスさまを身近に感じます。
神が愛していてくれると感じるのです。
教会のミサに行く人、行かない人、どちらでも良いのです。それはまったく個人の自由です。
しかし教会に行くと、何故か修道院の存在理由が分かるような気がするのです。仏教の修行の重要性が分かるような気がします。
それだけの話です。

今日の挿し絵代わりの写真は先週撮った夏の花々の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=======不立文字の意味とは?==========
「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」の語句の始めに当たり、「経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する」という意味となり、禅の根本を示すものとして知られています。
禅は定(じょう)とも呼び、インドで古くからある精神修行の方法です。
それが仏教に取り入れられたものです。
「不立文字」は、禅宗の開祖として知られるインドの達磨(ボーディダルマ)の言葉として伝わっており、「文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない」という教えです。
したがって、悟りのためにはあえて「文字を立てない」という戒めです。唐代の中国の禅僧である慧能は特にこれを強調し、慧能を祖のひとつと考える南宗禅によって禅の真髄として重視されました。
仏教の悟りにおいて重要な姿勢は、仏心を持って智慧を学ばなければ悟りに至らないという考え方なのです。