後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

遥かなハイラルにあった日本人学校の同窓会

2018年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム
海拉爾(ハイラル)とは満州の北西の端にある町です。
当時の住民はロシア人と満州人の漢民族が主で、他に蒙古人でした。そこに関東軍が堅固な陣地を構築し、多数の日本人が住んでいたのです。
ハイラル駅付近を新市街と称し、多くの日本人が住み役所を置きハイラル地方を統治していたのです。
純然たるロシア人は5000人ほどで、道路は広く、区画は整然としていたそうです。
北側に城壁と大門があり、東、南、西側には城壁がありませんでした。東に伊敏河(イミンホー)が流れ、西に西土山があります。南は茫々たる草原でした。
今日の話はこのハイラルに存在していた日本の小学校の同窓会活動の話です。
ハイラル小学校は昭和8年4月1日に開校され昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻で消滅します。最盛時の昭和19年には児童数は400人にも増大し、職員数も20人以上いたそうです。それが昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で消えてしまったのです。昭和8年の開校以来12年4ケ月の短い命でした。
この学校に関する資料はその小学校に通っていた竹内義信君から頂きました。

竹内義信君は大学時代の旧友でした。3年ほど前に何度か会い、彼の通っていた遥かなるハイラルにあった日本人学校の思い出話を聞きました。
その楽しかった小学校が終戦とともに忽然と消えてしまったのです。苦しい引き揚げの末、日本に帰ってきた竹内君は新潟県の小千谷市の中学、高校を終えて仙台にある東北大学に進学して来たのです。
母校の小学校が消滅したことを酷く悲しんでいました。
そしてその後の同窓会の活動の話を詳しく聞くことが出来ました。
ハイラルにあった小学校の同窓生たちは1980年代の日中友好の時代にその小学校を訪問したのです。
同窓生一行は中国人から大歓迎を受けたそうです。竹内義信君も心が癒されたそうでず。
それは鄧小平の日中友好の時代の心温まる出来事でした。美しい日中友好のエピソードです。
以下は竹内君から聞いた話です。
まずハイラル小学校とその同窓会の会報復刻版、「草原明珠」の写真をご覧下さい。

1番目の写真は「草原明珠」という同総会誌の写真です。この本は2001年に発刊された720ページの本です。昔存在した日本の小学校のハイラル小学校の同窓会報を復刻し合本、装丁したものです。国会図書館にも納められています。
この本の内容は以下の通りです。
(1) 満州帝国のハイラルと日本の国益
(2) ハイラル小学校(国民学校)の開校と消滅
(3) 同窓会の発足とその解散
(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命
上記のうち今日は(4)と(5)について少し詳しく説明します。

(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
武力占領した外国に日本の学校を作ることは現地の人々を差別すると誤解されがちなことです。ですから私はその学校が日本人だけを入学させ、現地人を入学させなかったかを問題にしたいのです。
満州には旅順工業大学という学校があり教授陣は日本の帝国大学から派遣されましたが、学生の大部分は現地人でした。その一人に瀋陽の東北工科大学の学長だった陸先生がいました。1981年に瀋陽に行ったとき陸先生は懐かしそうに、「旅順工大はとても良い大学でした」と言います。聞くと差別も無く教授が皆親切に指導してくれたと感謝しているのです。
詳しい話は省略しますが、海外にあった日本の学校が一瞬にして消えてしまった悲しい運命を調べ、その学校の運営の実情を調べることは重要なことだと思います。武力占領という日本の負の遺産を少し正の遺産へ変える知恵が生まれて来ると信じています。

(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命
日本人にとって母校の消滅は悲しい衝撃的な出来事です。「母校」という言葉が示すように卒業した学校は母のような存在のです。
ですから同窓会誌の合本の「草原明珠」には曾て在校していた数百人の悲しい思い出がビッシリと詰っています。「嗚呼、ハイラル思い出集」という特集号が何巻も合本されています。
この本は数百人の悲しい涙と感傷に満ちています。
しかし喜ばしいことも書いてあります。
この同窓会はハイラル小学校の後身の「文化街小学校」への友好訪問をしたのです。正式訪問は5回、非公式には、同窓会解散後にも第6回の母校訪問団を出したそうです。
それは鄧小平の日中友好の時代の1980年代から1990年代にかけてでした。
第一回は1988年で48名が参加しました。その感想文は190ページから198ページに掲載されています。感傷的な感想文が主なものですが、その中には中国人の歓迎ぶりに感動したという内容のものが多かったのです。
昔のハイラル小学校の場所にある文化街小学校の先生や児童が情熱的に歓迎してくれたのです。
日本側は心のこもったお土産を持って行きました。同窓生のなかには現金を寄付した人もいました。それは中国人にとっても素晴らしい体験だったに違いありません。この「草原明珠」の発刊を祝して文化街小学校の校長の王 紅果先生が暖かい文章を寄せ、旧校舎の改装や校庭の緑化に日本側が協力してくれたことに感謝しています。そして「日中友情の木が永遠に緑でありますように!」という文章で終わっています。

日本側がハイラルの為にしたことは学校へ寄付しただけではありません。その周辺の草原に十年間にわたる植林事業をしたのです。その経過はすでに2015年2月20日掲載の以下の記事にあります。
「竹内義信著、「樟子松」…ホロンバイル草原への植林事業」をご覧頂けたら幸いです。

上記のハイラル小学校の同窓生たちが感傷だけに溺れないで、現在の中国人と友情を育んだのは実に良いことでした。
特に江沢民主席と小渕総理の合意にもとづいた小渕基金で40カ所以上の中国の場所で植林事業したのです。このハイラルの例はその中の一例に過ぎないのです。

鄧小平が亡くなり江沢民の時代になると日中関係は暗転したのです。
しかし我々日本人も中国人も日中熱烈友好の時代が存在していた歴史を忘れるべきではないと思います。それにしても最近の日中関係の悪化はどうしたことでしょうか?
満州にあった日本人の学校の写真を4枚お送りします。写真の出典は、満州写真館、http://www.geocities.jp/ramopcommand/page035.html です。

2番目の写真は撫順にあった小学校の運動会の風景です。内地の学校の運動会風景と同じです。

3番目の写真は撫順の小学校の体育館で運動をしている児童の様子です。

4番目の写真は撫順にあった幼稚園の風景です。

5番目の写真は日本人小学校と満人小学校の交流会の写真です。壇上に飾られた数多くの人形は日本人児童から満人小学校へ送る贈り物です。

満州というと日本人は敗戦後のソ連兵の略奪やシべリア抑留を思い出します。引揚者の苦難の逃亡の経験を思い出します。
しかし無法なソ連軍の侵入までは平和な日常が続いていたのです。満州に住んでいた人々の幸せな日常でした。
歴史を振り返る時にそのように静かな日常があったことを忘れるべきではないと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)