後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「イエスは何故また生き返って来たか?」

2020年11月01日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。日曜日には宗教に関する記事を書くことにしています。
今日はイエスは何故また生き返って来たかということを書きたいと思います。
これは仏教には無いキリスト教の特徴です。
イエスは十字架の上で苦しみながら、「神は私を見捨てられるのか!」と叫んで絶命したのです。
仏教と比較すると、お釈迦様は弟子たちに見守られながら、平和に死んで行くのです。
今日の話はキリスト教の一番重要な「復活」ということです。
復活とは死んだイエスが再び生き返って弟子たちに現れることです。そして最後の日に全ての死んだ人間がまた生き返えることも意味します。
新約聖書に十字架上で刑死したイエスが、その後白い亜麻布に包まれて洞窟の中に葬られたことが書いてあります。
ところが死んだはずのイエスが亜麻布を脱ぎ捨て、マグダラのマリアや弟子たちの前に現れたのです。
イエスは何故生き返って出て来たのでしょうか?
その理由の一つは愛する弟子たちに自分の姿をもう一度見せる為でした。そして弟子たちに聖霊を与え、「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされる」という聖職者としての力を与えたのです。
もっと俗な説明をします。
人間は誰でも、死んだ両親や兄弟や恩人、友人にもう一度会いたいと思います。しかしそれはかなわない夢にすぎません。先に死んでしまった夫や妻に恋い焦がれます。でも二度と会えません。
しかしイエスの生き返りはそれが儚い夢ではなく実現することを暗示しているのです。
キリスト教が愛の宗教だと言われる所以でもあるのです。
そして先に死んでしまった夫や妻に恋い焦がれることは民族の違いに関係なく人類共通のことです。
これもキリスト教が世界宗教だという根拠の一つになっているのです。
さて生き返ったイエスはその後、天に昇って神の右の座につきます。
そうして最後の審判の日に再びこの世に帰ってくるのです。その最後の日に全ての死者の肉体が蘇ってくるのです。私はこの永遠の命を信じています。これがキリスト教の復活の意味なのです。
写真に生き返ったイエスが弟子たちの前に現れている場面を描いた絵画を示します。

1番目の写真は『キリストの復活』の絵画です。18世紀にポーランドで描かれました。
(写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E6%B4%BB_(%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99) です。)

さて科学的に考えれば一度死んだ人間は絶対に生き返りません。それは明々白々なことです。
私の昔の職業は実験科学者でした。ですからイエスの復活は有り得ないと思います。
しかし信仰の上ではイエスの復活を信じています。これはキリスト教の一番重要な教えだと信じています。
何故、信じているかを言葉では説明できません。ですから他人へ信じなさいと言うことも絶対に出来ません。
強いて言えば次のように聖書に書いてあるからです。

ヨハネによる福音書、第20章
(1)弟子たちがイエスの遺体が消えていることを発見する場面
1さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。 2そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。 3そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。・・・中略・・・ 8すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。 9しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。 10それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。

(2)生き返ったイエスがマグダラのマリヤに話しかける場面
11しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、 12白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。 13すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。 14そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。・・・中略・・・ 17イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。

(3)マグダラのマリヤが弟子たちへイエスが生き返ったと報告する場面
18マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。

(4)イエスが弟子たちに会い、聖霊を与える場面
19その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 21イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。 22そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。 23あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

(5)弟子のトマスだけがイエスの生き返りを信じないと言う場面
20:24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
(6)イエスがトマスの前に現れ、手を釘跡の傷穴に入れて見なさいと言う場面

2番目の写真は生き返って立ったいるイエスがそれを信じないトマスが脇腹の傷跡を探っている光景を描いた絵画です。(出典は、http://lifepeace365.blogspot.jp/2011/04/ です。)

26八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 27それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 28トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 29イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。・・・後略。

如何でしょうか?
佛教には無い教えですね。仏教とキリスト教の違いはお分かりになったと存じます。
こういう教えがキリスト教なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「晩秋のコスモスとカンナの花の写真をお楽しみ下さい」

2020年11月01日 | 写真
先程写して来た晩秋のコスモスとカンナの花の写真です。コスモスの花は三鷹市花と緑の広場に咲いていました。カンナの花は小金井市内の都立武蔵野公園に咲いていました。
今日は寒い曇り日でいかにも晩秋のよぅな雰囲気です。今日から11月になったのです。









「写真で巡る魅力的な函館への旅」

2020年11月01日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道へは何度も旅をしました。ある時は魅力的な函館に3泊しました。2012年の6月のことでした。その時の函館の旅の写真を順々にお送りしたいと思います。

1番目の写真は函館駅の左に観光名所の朝市があります。前に広い駐車場があって車で行っても便利です。朝市は昼間でも開いていて、観光客で賑わっています。駐車場に一番近いところに「どんぶり横町」というものがあり、数多くの店屋が海鮮ドンブリを出しています

2番目の写真は海鮮ドンブリです。食べると駐車料が無料になります。

3番目の写真は函館の北にある大沼公園です。生憎の曇り日で、駒ケ岳の美しい姿は見えませんでした。大沼の周囲を根気よく車で一周しました。驚いたことに観光開発されているところはたった一ケ所だけです。大型観光バスの広大な駐車場のある観光船の発着場だけなのです。その他の地域は雑木林がえんえんと続き、その雑木林の向こうに湖水が透けて見えるのです。一か所だけ雑木林の中に木道があって、岸辺に出ることが出来ました。大沼の周囲は手つかずの自然林のままなのです。

4番目の写真は函館の西にある男爵イモの資料館の「男爵資料館」です。皆様がよく食べるジャガイモの多くは男爵イモです。JR当別駅の傍にありおます。
この男爵イモは1908年、明治41年、川田龍吉男爵がアイルランドから持ち込んで日本へ普及させた品種です。川田男爵は日本の造船業を興し、その近代化や北海道の乳牛畜産や農業の近代化を力強く推し進めた偉大な事業家でした。明治時代の殖産興業というものを情熱的に進めた快男子でした。その関連の資料を集めて展示している場所が「男爵資料館」です。

5番目の写真は函館の西にある「千代の山と千代の富士の記念館」です。木古内から峠道に入り山を越えて、再び海岸に出たところの福島町にあります。こんな小さな町から二人も横綱がでたのです。

6番目の写真は函館市内にある一番古いロシア正教の教会です。幕末に聖ニコライが函館へロシア正教を伝えたのです。なお近くには美しいカトリック教会もあります。このカトリック教会の祭壇の左右の壁に飾ってある14個の彫刻はイタリアから寄贈されたものです。芸術的で感動的な彫刻群です。

7番目の写真は古いロシア正教の教会の近くにあるロシア人墓地です。ロシア人墓地には1859年に作られたアスコリド号の航海士のお墓も含めて43人のロシア人が眠っています。墓碑はみな大海に向いています。
はるか遠くの蝦夷の地で死んだロシア人の家族は墓参も出来ません。函館ハリスト正教会の日本人信者が供養を続けているようです。

8番目の写真はフランスのトラピスト修道院の古い牛舎です。函館の西、30km程のJR渡島当別駅から奥に入った寒冷な原野にあります。この修道院はローマ法王傘下のカトリック組織の一部で、戒律が厳しい事で有名です。修道士は一生の間、修道院敷地から出ません。早朝から夜まで、祈りと牧畜の労働だけで過ごします。
1896年、明治29年に津軽海峡を越えてやって来ましたフランスの厳律シトー派の流れを汲むトラピスト派の数人の修道士が作った修道院です。
修道院の高い塀に沿って裏の方へ回るとこの写真の古い木造の牛舎が数個あります。

9番目の写真は白尻町縄文土器展示館に展示してある国宝の縄文時代の土偶です。函館の東の白尻町は岩礁の迫った険しい地形の海岸に孤立した町でした。市町村合併で函館市になりましたが非常に辺鄙な漁村です。そこに立派な縄文土器の展示館があるのです。衝撃的な展示物は国宝に指定されている中が空洞になっている高さ41・5センチメートルもある大きな土偶です。
1万年前から2000年前にかけて北海道には広く縄文土器が存在していたのです。当時はアイヌ人しか北海道に住んでいなかったのです。ですから縄文人イはアイヌ人だったという結論になります。
北海道に居た縄文人(アイヌ)の子孫は朝鮮や中国か渡来した人と混じらないで純粋にその文化を伝承したのです。その北海道人が近年まで北海道に住んでいたアイヌ人なのです。
一方、本州に居たアイヌは大陸からの渡来人と混血し弥生人になりました。そして本州を中心に棲みついた現在の日本人の先祖になったのです。
臼尻町の縄文土器の展示は実に豊富でした。

以上、今日は函館の旅の写真を順々にお送りしました。北海道の旅をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)