竹内義信君は私の仙台の大学時代の友人です。満州で生まれ育ち終戦後に引揚げてきました。
数年前にこの欄にハイラルでの小学校の思い出やイタリア駐在時代の記事を寄稿してくれました。今日は満州の建国の記事を掲載したので関連の記事としてこれをお送りします。
この竹内君の文章を読むと満州の実態や戦後の新制大学の混乱ぶりがあぶり出されています。これは民衆の立場から見た日本の敗戦にまつわるささやかな歴史書になっています。
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竹内義信著「遥かなるハイラルと仙台の大学生活」
(1)遥かなるハイラルの小学校
海拉爾(ハイラル)とは満州の北西の端にある町です。
当時の住民はロシア人と満州人の漢民族が主で、他に蒙古人でした。そこに関東軍が堅固な陣地を構築し、多数の日本人が住んでいたのです。
ハイラル駅付近を新市街と称し、多くの日本人が住み役所を置きハイラル地方を統治していたのです。
純然たるロシア人は5000人ほどで、道路は広く、区画は整然としていたそうです。
北側に城壁と大門があり、東、南、西側には城壁がありませんでした。東に伊敏河(イミンホー)が流れ、西に西土山があります。南は茫々たる草原でした。
私はこのハイラルに存在していた日本の小学校で4年生まで勉強していました。ハイラル小学校は昭和8年4月1日に開校され昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻で消滅します。最盛時の昭和19年には児童数は400人にも増大し、職員数も20人以上いたそうです。それが昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で消えてしまったのです。昭和8年の開校以来12年4ケ月の短い命でした。
ハイラルの小学校は楽しい思い出ばかりです。その上郊外は一面の草原でした。
私は昭和20年8月9日のソ連侵攻まで、ハイラルで平和に暮らしていたのです。
その海拉爾(ハイラル)の西側の砂山は西山と呼ばれてました。そこに生えていた赤松を「樟子松」と言います。
西山には樟子松が沢山生えており、20メートルを超えるものも少なくありませんでした。神社や忠霊塔の後背地になっており神々しさを与えるのに役立っていました。
学校から帰るとそんな場所が遊び場でした。
この平和な楽しい生活が昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で突如崩壊してしまったのです。
苦難の引き揚げの後、郷里の新潟県の小千谷町に帰って来ました。
そこの小千谷高校から仙台の東北大学へ入学したのです。
(2)東北大学に入学出来て一番喜んだのは母
私は昭和29年(1954年)に東北大学に入学して、工学部応用化学科を昭和33年に卒業して、昭和35年に修士課程を終えました。昭和29年と言うのは戦後9年目で新制大学制度になってから5年目でした。
化学をやりたいと中学の時から決めていましたが、理学部にするか工学部にする迷いましたが、就職のことを考えて工学部にしました。
私が卒業した新潟県立の小千谷高校からは前年工学部に三人、農学部に一人と四人も東北大学に受かっておりましたので、何とか入れるだろうと受験しました。
東北大に合格して母が一番喜びました。母は大正時代に東北大学医学部の看護婦養成所を出ていました。
満洲から引き揚げてからずっと小千谷で看護婦をやっておりました。私の入学式には「杜の都 仙台」が見たいと約30年ぶりに仙台を訪れましたが、戦災で街路樹が消失しており大変残念がっておりました。
(3)仙台での下宿生活が始まる
受験の時は長町の早坂医院に小千谷高から7名が宿泊して、二年上の加藤先輩と一年上の斉藤先輩のお二人がお世話をして下さいました。入学してからも私は早坂医院に下宿したので、小千谷高校の卒業生が6名となり、早坂医院の下宿生総勢17名の一大勢力となりました。
早坂医院と言うのは開業医だったのですが、先生が年を取られ廃業して、病室と診察室を利用した食事つきの学生下宿となっておりました。食事は一組8~9人の二交代制で、女中のオチヨサン(清子)が声を掛けると座式の食卓に並びました。奥さんのオバンゲルとお嬢さんのマスミさんも手伝っていました。
入学して早坂医院の昔の診察室に新潟県出身の三名が割り当てられました。長岡高出身の中川君と新発田高出身の佐藤君でした。12畳ほどの畳の大部屋に三人が机と布団を並べて暮らしました。
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こうして竹内君は応用化学科へ進学しますが、その専門教育については続編の、竹内義信著、「イタリアの魅力と大学の専門教育」という記事に続きます。
今日の挿し絵代わりの写真はハイラル郊外の草原と樟子松の林の風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
数年前にこの欄にハイラルでの小学校の思い出やイタリア駐在時代の記事を寄稿してくれました。今日は満州の建国の記事を掲載したので関連の記事としてこれをお送りします。
この竹内君の文章を読むと満州の実態や戦後の新制大学の混乱ぶりがあぶり出されています。これは民衆の立場から見た日本の敗戦にまつわるささやかな歴史書になっています。
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竹内義信著「遥かなるハイラルと仙台の大学生活」
(1)遥かなるハイラルの小学校
海拉爾(ハイラル)とは満州の北西の端にある町です。
当時の住民はロシア人と満州人の漢民族が主で、他に蒙古人でした。そこに関東軍が堅固な陣地を構築し、多数の日本人が住んでいたのです。
ハイラル駅付近を新市街と称し、多くの日本人が住み役所を置きハイラル地方を統治していたのです。
純然たるロシア人は5000人ほどで、道路は広く、区画は整然としていたそうです。
北側に城壁と大門があり、東、南、西側には城壁がありませんでした。東に伊敏河(イミンホー)が流れ、西に西土山があります。南は茫々たる草原でした。
私はこのハイラルに存在していた日本の小学校で4年生まで勉強していました。ハイラル小学校は昭和8年4月1日に開校され昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻で消滅します。最盛時の昭和19年には児童数は400人にも増大し、職員数も20人以上いたそうです。それが昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で消えてしまったのです。昭和8年の開校以来12年4ケ月の短い命でした。
ハイラルの小学校は楽しい思い出ばかりです。その上郊外は一面の草原でした。
私は昭和20年8月9日のソ連侵攻まで、ハイラルで平和に暮らしていたのです。
その海拉爾(ハイラル)の西側の砂山は西山と呼ばれてました。そこに生えていた赤松を「樟子松」と言います。
西山には樟子松が沢山生えており、20メートルを超えるものも少なくありませんでした。神社や忠霊塔の後背地になっており神々しさを与えるのに役立っていました。
学校から帰るとそんな場所が遊び場でした。
この平和な楽しい生活が昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で突如崩壊してしまったのです。
苦難の引き揚げの後、郷里の新潟県の小千谷町に帰って来ました。
そこの小千谷高校から仙台の東北大学へ入学したのです。
(2)東北大学に入学出来て一番喜んだのは母
私は昭和29年(1954年)に東北大学に入学して、工学部応用化学科を昭和33年に卒業して、昭和35年に修士課程を終えました。昭和29年と言うのは戦後9年目で新制大学制度になってから5年目でした。
化学をやりたいと中学の時から決めていましたが、理学部にするか工学部にする迷いましたが、就職のことを考えて工学部にしました。
私が卒業した新潟県立の小千谷高校からは前年工学部に三人、農学部に一人と四人も東北大学に受かっておりましたので、何とか入れるだろうと受験しました。
東北大に合格して母が一番喜びました。母は大正時代に東北大学医学部の看護婦養成所を出ていました。
満洲から引き揚げてからずっと小千谷で看護婦をやっておりました。私の入学式には「杜の都 仙台」が見たいと約30年ぶりに仙台を訪れましたが、戦災で街路樹が消失しており大変残念がっておりました。
(3)仙台での下宿生活が始まる
受験の時は長町の早坂医院に小千谷高から7名が宿泊して、二年上の加藤先輩と一年上の斉藤先輩のお二人がお世話をして下さいました。入学してからも私は早坂医院に下宿したので、小千谷高校の卒業生が6名となり、早坂医院の下宿生総勢17名の一大勢力となりました。
早坂医院と言うのは開業医だったのですが、先生が年を取られ廃業して、病室と診察室を利用した食事つきの学生下宿となっておりました。食事は一組8~9人の二交代制で、女中のオチヨサン(清子)が声を掛けると座式の食卓に並びました。奥さんのオバンゲルとお嬢さんのマスミさんも手伝っていました。
入学して早坂医院の昔の診察室に新潟県出身の三名が割り当てられました。長岡高出身の中川君と新発田高出身の佐藤君でした。12畳ほどの畳の大部屋に三人が机と布団を並べて暮らしました。
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こうして竹内君は応用化学科へ進学しますが、その専門教育については続編の、竹内義信著、「イタリアの魅力と大学の専門教育」という記事に続きます。
今日の挿し絵代わりの写真はハイラル郊外の草原と樟子松の林の風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)