後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

竹内義信著「遥かなるハイラルと仙台の大学生活」

2020年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
竹内義信君は私の仙台の大学時代の友人です。満州で生まれ育ち終戦後に引揚げてきました。
数年前にこの欄にハイラルでの小学校の思い出やイタリア駐在時代の記事を寄稿してくれました。今日は満州の建国の記事を掲載したので関連の記事としてこれをお送りします。
この竹内君の文章を読むと満州の実態や戦後の新制大学の混乱ぶりがあぶり出されています。これは民衆の立場から見た日本の敗戦にまつわるささやかな歴史書になっています。
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竹内義信著「遥かなるハイラルと仙台の大学生活」

(1)遥かなるハイラルの小学校
海拉爾(ハイラル)とは満州の北西の端にある町です。
当時の住民はロシア人と満州人の漢民族が主で、他に蒙古人でした。そこに関東軍が堅固な陣地を構築し、多数の日本人が住んでいたのです。
ハイラル駅付近を新市街と称し、多くの日本人が住み役所を置きハイラル地方を統治していたのです。
純然たるロシア人は5000人ほどで、道路は広く、区画は整然としていたそうです。
北側に城壁と大門があり、東、南、西側には城壁がありませんでした。東に伊敏河(イミンホー)が流れ、西に西土山があります。南は茫々たる草原でした。
私はこのハイラルに存在していた日本の小学校で4年生まで勉強していました。ハイラル小学校は昭和8年4月1日に開校され昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻で消滅します。最盛時の昭和19年には児童数は400人にも増大し、職員数も20人以上いたそうです。それが昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で消えてしまったのです。昭和8年の開校以来12年4ケ月の短い命でした。
ハイラルの小学校は楽しい思い出ばかりです。その上郊外は一面の草原でした。
 私は昭和20年8月9日のソ連侵攻まで、ハイラルで平和に暮らしていたのです。
その海拉爾(ハイラル)の西側の砂山は西山と呼ばれてました。そこに生えていた赤松を「樟子松」と言います。
西山には樟子松が沢山生えており、20メートルを超えるものも少なくありませんでした。神社や忠霊塔の後背地になっており神々しさを与えるのに役立っていました。
学校から帰るとそんな場所が遊び場でした。
この平和な楽しい生活が昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で突如崩壊してしまったのです。
苦難の引き揚げの後、郷里の新潟県の小千谷町に帰って来ました。
そこの小千谷高校から仙台の東北大学へ入学したのです。

(2)東北大学に入学出来て一番喜んだのは母
私は昭和29年(1954年)に東北大学に入学して、工学部応用化学科を昭和33年に卒業して、昭和35年に修士課程を終えました。昭和29年と言うのは戦後9年目で新制大学制度になってから5年目でした。
化学をやりたいと中学の時から決めていましたが、理学部にするか工学部にする迷いましたが、就職のことを考えて工学部にしました。
私が卒業した新潟県立の小千谷高校からは前年工学部に三人、農学部に一人と四人も東北大学に受かっておりましたので、何とか入れるだろうと受験しました。
東北大に合格して母が一番喜びました。母は大正時代に東北大学医学部の看護婦養成所を出ていました。
満洲から引き揚げてからずっと小千谷で看護婦をやっておりました。私の入学式には「杜の都 仙台」が見たいと約30年ぶりに仙台を訪れましたが、戦災で街路樹が消失しており大変残念がっておりました。

(3)仙台での下宿生活が始まる
受験の時は長町の早坂医院に小千谷高から7名が宿泊して、二年上の加藤先輩と一年上の斉藤先輩のお二人がお世話をして下さいました。入学してからも私は早坂医院に下宿したので、小千谷高校の卒業生が6名となり、早坂医院の下宿生総勢17名の一大勢力となりました。
早坂医院と言うのは開業医だったのですが、先生が年を取られ廃業して、病室と診察室を利用した食事つきの学生下宿となっておりました。食事は一組8~9人の二交代制で、女中のオチヨサン(清子)が声を掛けると座式の食卓に並びました。奥さんのオバンゲルとお嬢さんのマスミさんも手伝っていました。
入学して早坂医院の昔の診察室に新潟県出身の三名が割り当てられました。長岡高出身の中川君と新発田高出身の佐藤君でした。12畳ほどの畳の大部屋に三人が机と布団を並べて暮らしました。
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こうして竹内君は応用化学科へ進学しますが、その専門教育については続編の、竹内義信著、「イタリアの魅力と大学の専門教育」という記事に続きます。

今日の挿し絵代わりの写真はハイラル郊外の草原と樟子松の林の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





「昭和時代を考える(7)国際的に非難を浴びた満州の建国」

2020年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は昭和7年に満州を独立した国として建国しました。しかしこれに対してアメリカなど西洋の国々が強く非難をし、国際連盟はリットン調査団を派遣します。
この満州建国は後の昭和16年に始まったアメリカ連合軍との太平洋戦争の原因になったのです。
誕生から僅か13年で滅亡した満州国は日本を破滅に導いたのです。
今日は満州の建国と滅亡の歴史を説明したいと思います。
昭和6年の柳条湖事件を発端にし満州事変が起きます。そして短期間に満州を占領した日本軍によって満州国が建国されたのです。この満州の建国の経緯を箇条書きにして分かり易くします。

(1)満州事変とは?
満州事変は、https://ja.wikipedia.org/wiki/満州事変 に詳細な説明があります。分かりやすく抜粋を示します。

満州事変は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件 「柳条湖事件」に端を発し、関東軍による満州(中国東北部)全土の占領した軍事行動である。1933年5月31日の塘沽協定成立で終わった。日本と中華民国との間の戦争だった。中国側の呼称は九一八事変だ。 関東軍は約5か月で満州全土を占領した。
関東軍は奉天、長春、営口の各都市も占領した。奉天占領後すぐに奉天特務機関長土肥原賢二大佐が臨時市長となった。土肥原の下で民間特務機関である甘粕機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルピン出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行った。

(2)清朝皇帝だった溥儀の擁立
関東軍は、国際世論の批判を避けるため、あるいは陸軍中央からの支持を得るために、満洲全土の領土化ではなく、傀儡政権の樹立へと方針を早々に転換した。事変勃発から4日目のことである。
昭和6年9月22日、当時馮玉祥と孫岳により紫禁城から強制的に退去させられ、天津の日本租界に避難していた清朝の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀に決起を促し、代表者を派遣するよう連絡した。

1番目の写真は天津時代の溥儀と婉容です。
昭和6年9月23日、羅振玉が奉天の軍司令部を訪れ、板垣大佐に面会して宣統帝の復辟を嘆願し、吉林の煕洽、洮南の張海鵬、蒙古諸王を決起させることを約束した。羅振玉は宗社党の決起を促して回り、鄭孝胥ら清朝宗社党一派は復辟運動を展開した。
特務機関長の土肥原賢二大佐は、溥儀に日本軍に協力するよう説得にかかった。満洲民族の国家である清朝の復興を条件に、溥儀は新国家の皇帝となることに同意した。11月10日に溥儀は天津の自宅を出て、昭和6年11月13日に営口に到着し、旅順の日本軍の元にとどまった。

(3)満州国の建国
1932年(昭和7年)2月初め頃には、関東軍は満洲全土をほぼ占領した。

2番目の写真は錦州の裕民洋服店附近を行く日本軍です。
3月1日、満洲国の建国が宣言された。国家元首にあたる「執政」には、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀が就いた。国務総理には鄭孝胥が就き、首都は新京(現在の長春)、元号は大同とされた。これらの発表は、東北最高行政委員会委員長張景恵の公館において行われた。
3月9日には、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。1932年3月4日、熱河省都承徳を占領し、4月に長城線を確保し、万里の長城が満州国と中華民国の境界線になった。
昭和7年5月に五・一五事件が起き、政府の満洲国承認に慎重であった犬養は、反乱部隊の一人に暗殺された。

(4)日本の国際連盟脱退との関係
中華民国側は日本軍の軍事行動を侵略行為として国際連盟に提訴し、昭和7年、1932年3月、リットン調査団が派遣され、10月2日に日本の主張を認めない報告を発表した。
熱河作戦は満洲国領土を確定するための熱河省と河北省への進出作戦であった。陸軍中央では万里の長城以北に作戦範囲を限定し、悪化する欧米諸国との関係を局限して国際連盟脱退を防ごうと考えていた。
しかし、1933年(昭和8年)2月20日に閣議決定により日本国の国際連盟脱退が決定され、24日にはジュネーブで松岡全権大使が国際連盟の総会議場より退場した。

(5)満州国の滅亡と溥儀の逮捕(https://ja.wikipedia.org/wiki/満州国 )
皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県大栗子に8月13日夕刻到着。同地に避難していたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。
2日後の8月17日に、国務総理大臣の張景恵が主宰する重臣会議は通化で満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した。
溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。

(6)日本兵と日本人入植者の悲劇と苦難

戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除して捕虜とし、シベリアや中央アジアなどの強制収容所に送り、過酷な強制労働を課した。18歳から45歳までの民間人男性が収容され、65万人以上が極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされた。このシベリア抑留と引揚に苦難によって、25万人以上の日本人が帰国できずに死亡したといわれる。中華民国政府に協力した日本人数千名が中国共産党に虐殺された通化事件も発生した。
また、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、ようやく1946年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。さらに、帰国した「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓団や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。

以上が満州の建国と滅亡後の苦難の歴史です。最後にこの満州国の様子を示す写真を5枚お送りいたします。
写真の出典は、「満州写真館」(http://geo.d51498.com/ramopcommand/page035.html )です。
この「満州写真館」という写真集には数千枚の満州の写真が分類整理されていて貴重な歴史的記録となっています。

3番目の写真は大連の街の様子です。街の雰囲気が平和です。

4番目の写真は瀋陽です。満州時代は奉天と呼ばれていた市です。私ごとですが、1981年に、ここにある東北工学院へ集中講義に行ったことがあります。1981年当時は満州時代の街並みがそのまま残っていました。

5番目の写真は満鉄の「あじあ号」の写真です。

6番目の写真は「あじあ号」の食堂車の様子です。当時のモダンな女性が食事をしている光景です。

7番目の写真は「あじあ号」の最後尾の展望車の光景です。裕福そうな乗客が寛いでいます。
写真が示すように満州には良い時代もあったのです。
それにしても終戦後の、ソ連軍による蹂躙と、シベリア抑留、そして悲惨な引揚げの歴史によって満州のことは昭和時代の大きな悲劇でした。
現在の平和な日本がしみじみ良い国になったと感慨無量です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)